第26話 王都から第二の書簡
最初の“辺境の銭”が回ってから三日後、砦の朝は明らかに音を増していた。
井戸の滑車は前より滑らかに回り、鍛冶場では兵の革具留めを打ち直す金属音が朝から絶えない。荷捌き場の板はヨハンたちの手でさらに一列広げられ、流民登録者の列には、以前ならどこか醒めた目をしていた若者たちが、自分から順番を確かめる顔で並ぶようになっている。
大きく変わったわけではない。
だが、変化が継続していること自体が、この辺境では何より大きい。
レティシア・エーヴェルシュタインは中庭の回廊からその様子を見ていた。
視線の先では、井戸補修に入っていた木工職人が新しい支柱の具合を確かめ、兵の一人が試しに桶を上げている。軋みは少ない。水も濁っていない。そうした一つひとつの“まともになった”が、領地の空気を静かに底上げしていた。
「お嬢様」
マルタが足音を殺して近づく。
「王都より使者です」
レティシアは振り返らず、ほんの少しだけ目を細めた。
「早いわね」
「前回よりも、ですか」
「ええ。前より焦っているのでしょう」
マルタは一瞬だけ嫌そうな顔をしたが、すぐに整え直す。
「応接の支度はできております」
「ありがとう。すぐ行くわ」
王都からの使者は、前回と同じく王太子府の紋章をつけた外套を羽織っていた。
ただし、今回は表情が違う。疲れているだけではない。どこか急かされ、苛立ちまで押しつけられてきた者の顔だ。
レティシアが席につくと、使者は礼を取り、すぐに封書を差し出した。
「王太子府より、急ぎにございます」
「ご苦労さま」
封蝋は前回と同じ紋章。
だが紙質がやや粗い。
急いで整えられた文書なのだろう。
封を切り、ざっと目を走らせた瞬間、レティシアは無意識に小さく息を吐いた。
予想はしていた。
だが、思っていた以上に露骨だった。
マルタが控えめに問う。
「……何と」
レティシアは文面を閉じる前に、もう一度必要な箇所を確認した。
今回の内容は、前回のような“どこにあるかわからない補助資料を寄越せ”では済まない。
――春季祭礼に関わる贈答の例外規定につき、旧控えの詳細提出を求む。
――商会納入調整に関する実務覚え書き一式を提出されたい。
――王都の円滑な運営は王国全体の安寧に関わるゆえ、辺境にあっても協力を惜しむべきではない。
――速やかなる対応を望む。
文面は前回よりも明らかに強い。
“お願い”ではなく、半ば命じる調子だ。
それでいて、なぜ必要なのかを正直には書かない。
「苛立っているわね」
レティシアは静かに言った。
そこへ、遅れて入ってきたディルク・ヴァルゼンが目を向ける。
「前回よりも?」
「ええ」
レティシアは手紙を机へ置く。
「今度は祭礼と商会調整の実務覚えまで寄越せと言っている」
ディルクが腕を組む。
「つまり、王都の方で実際に詰まり始めている」
「ええ。しかも、“たまたま足りない資料”ではもう済まなくなっている」
マルタが思わず口を挟む。
「そんなもの、今さら出せと仰る方がどうかしております」
「そうね。でも、向こうはまだ“王都のために辺境が協力するのは当然だ”という顔をしたいのでしょう」
それが、文面から透けて見えた。
困っている。
だが認めたくない。
だから“王国全体のため”という大義をかぶせて、辺境から差し出させようとする。
レティシアは少しだけ考え、前回より返答の難度が上がっていることを確認した。
前回は、正式譲渡済みの目録を示せばよかった。
だが今回は、“個人的に整理していた実務覚え”そのものを差し出せと言ってきている。
それは単なる不足資料ではない。
王都の継ぎ目を結ぶための、彼女自身の積み重ねだ。
「どうされます」
ディルクが低く問う。
レティシアは少し沈黙し、それから言った。
「返すわ」
マルタが顔を上げる。
「また、ですか」
「ええ。でも前回と同じではない」
彼女はルイスを呼ばせた。
すぐに駆け込んできた若い書記官へ、王太子府の書簡を見せる。
ルイスは読み進めるうちに、だんだんと顔を青くした。
「こ、これは……」
「そう。実務そのものを欲しがっているの」
「ですが、それは……公的義務の範囲を越えております」
「ええ。だから、そのまま返すわけにはいかない」
レティシアは机上へ新しい紙を広げた。
「返書の骨子は三つよ」
ルイスが姿勢を正す。
「第一に、正式譲渡済みの範囲はすでに完了していることを再確認する」
「はい」
「第二に、祭礼・贈答・商会調整に関する“個人的な実務覚え”は、公的文書として保持しているものではないと明記する」
「……はい」
「第三に」
ここで少しだけ目を細める。
「辺境はいま、水路・井戸・兵站・鉱山再建に追われており、王都の個別運営補佐に人手を割ける状況ではないと伝える」
マルタが小さく息を呑む。
ディルクの口元は、ほんの少しだけ動いた。
つまりこうだ。
こちらはもう、王都の下働きではない。
それを、礼を失わぬ範囲で文面に滲ませる。
「……よろしいのですか」
ルイスが慎重に問う。
「ええ」
レティシアは静かに答えた。
「いまここで曖昧に応じたら、向こうは辺境を“都合のいい補助机”に戻そうとするわ。それはもう違うもの」
その言葉に、ディルクが低く頷く。
「その通りです」
返書は、前回よりもさらに丁寧で、さらに冷たかった。
――先般までに正式譲渡いたしました諸記録につきましては、すでに目録記載の通り完了しております。
――ご照会の“実務覚え”は、いずれも公的文書として保存しているものではなく、個人的な整理控えに過ぎません。
――また現在、北方旧所領においては水路補修、兵站再編、井戸設備更新等の緊急案件が重なっており、王都祭礼運営の個別補佐に人員を割く余裕はございません。
――王都のご安寧と祭礼の成功を、辺境よりお祈り申し上げます。
最後の一文を見て、マルタがまた言った。
「やはり、その一言が一番効いております」
レティシアは少しだけ肩をすくめる。
「お祈りするくらいは自由でしょう?」
ディルクがそこで、ふっと息だけで笑った。
「王都の方々は、ますます閣下を思い出すでしょうね」
「そうかもしれないわね」
だが、その思い出し方はもう以前とは違う。
不足分を埋める便利な手としてではなく、いなくなったことで継ぎ目ごと失われた存在として、だ。
使者が返書を受け取る時、その手は前回よりも少し強張っていた。
「……これを、そのまま」
「ええ。そのままよ」
レティシアは穏やかに言う。
「辺境の事情も、王太子府には正しく知っていただいた方がいいでしょうから」
使者は複雑な顔で頭を下げた。
彼自身はただ運ぶ役に過ぎない。
だが文面の意味くらいはわかるのだろう。
これは単なる断りではない。
“こちらはもう別の場所を回している”という宣言なのだと。
使者が去ったあと、レティシアはそのまま中庭へ出た。
井戸補修はほぼ終わり、兵の革具留めも新しいものへ替わりつつある。リュンデル村へ回した板材は追加要請なく足りたらしい。市場の荷捌き場では、ヨハンとガレスが何やら板の位置を言い合っていた。
その一つひとつが、王都への返答そのものだった。
こちらは忙しい。
それも、“やる意味のある忙しさ”で。
王都の綻びを無限に縫い直すために手を割く場所では、もうない。
隣に立ったディルクが言う。
「今ごろ、王都は面白くなっているでしょう」
「面白くはないと思うわ」
「違いない」
彼は短く笑い、それから中庭へ目をやる。
「ですが、こちらは確かに変わりました」
「ええ」
「だから、返せたのでしょうね」
レティシアは一瞬だけ彼を見る。
「何を?」
「“もう王都の補助机ではない”という顔を」
それは妙に正確な言い方だった。
レティシアは少しだけ考えてから、頷いた。
「そうかもしれない」
もし辺境へ来たばかりの頃に同じ書簡が来ていたら、ここまで明確には返せなかっただろう。
この領地に何も形がなく、自分自身もまだただの“追われた令嬢”でしかなければ、王都に引っ張られるままだったかもしれない。
だが今は違う。
村があり、町があり、兵がいて、井戸が回り、鉱山の火が入った。
そして何より、ここには自分が立つ意味がある。
その事実こそが、最も強い返答だった。




