第201話 泥草履の旅人
泥草履の旅人。
名前ではない。
身分でもない。
ただ、宿主人の記憶の中に残った足元だった。
王都風ではない。
良い靴でもない。
香油の匂いもない。
粗末な旅装。
泥のついた草履。
腰に古い布袋。
それだけで、人を探すには弱すぎる。
だが、通称レオンとは違う。
その違いだけは、はっきりしていた。
翌朝、ルイスは壁に新しい札を貼った。
泥草履の旅人。通称レオンとは別人候補。
ヨハンがその札を見て、腕を組む。
「良い靴ばかり追ってましたね、俺たち」
豆売りの女主人が横から言う。
「良い靴は目立つからね。でも、悪いことをする人間がみんな良い靴を履いてるとは限らない」
ガレスが頷いた。
「泥草履の方が、旧道には向いてますよね」
「歩くなら、そうです」
ヨハンは答えた。
「良い靴は王都の石畳や商談には向きます。でも小鹿渡しや冬季木材道なら、草履や古い旅靴の方がまだ動きやすいこともある」
ボルツが鼻を鳴らした。
「高い靴で泥道に入る奴は、靴を知らねえ」
クラウス・ベルガーが静かに返す。
「商人は、高い靴で泥道に入らないために、他の者を使います」
帳場が静かになった。
それは、冗談ではなかった。
通称レオンが王都側の手配をし、泥草履の旅人が現地側で受け取る。
そういう分担はあり得る。
だが、まだそこまで書いてはいけない。
レティシアは言った。
「泥草履の旅人について、まず宿主人の証言を分解します」
ルイスが新しい紙を出した。
泥草履の旅人・証言整理
一、南の村馬車宿で小箱受取を求めた。
二、受取札なし。
三、“旧帳場へ届ける荷”と発言。
四、宿主人は引渡し拒否。
五、男は強く争わず去った。
六、王都風ではない。
七、泥のついた草履。
八、粗末な旅装。
九、香油臭なし。
十、南の村北口方面へ去った可能性。
ガレスが表を見て言った。
「強く争わず去った、というのが気になります」
豆売りの女主人が頷く。
「本当に急ぎなら、もっと食い下がってもいい。けど、騒ぎたくなかったのかもしれないね」
クラウスが言った。
「受取失敗時に、無理をしない指示を受けていた可能性もあります」
ヨハンが顔をしかめる。
「つまり、宿主人に怪しまれたら引け、ってことですか」
「可能性です」
レティシアが答えた。
「ただし、単に気弱だった、または本当に代理で来ただけだった可能性も残します」
ルイスが書く。
強く争わず去った理由候補:騒ぎ回避の指示、受取失敗時撤退、気弱な代理人、本当に事情を知らない使い。未確認。
ボルツが低く言った。
「また候補の山だな」
豆売りの女主人がすぐに返す。
「山を崩すには、まず積まないとね」
その日の午前、南の村から追加の聞き取りが届いた。
宿主人だけではない。
宿の下働きの少年、近くの薪売り、村北口の水汲み女も、旅人らしき男を見ていた可能性があった。
ルイスは読み上げる。
「宿の下働き少年証言。旅人風の男は、宿前でしばらく立っていた。怒った様子ではなく、誰かを待つようにも見えた。腰の布袋を何度か触っていた」
ガレスが反応する。
「布袋」
レティシアは静かに言う。
「中身は未確認です」
ルイスが書く。
泥草履の旅人、腰の古い布袋を触っていたとの証言。中身不明。
次。
「薪売り証言。旅人風の男は、宿を出た後、村北口へ向かった。歩き方は早くない。草履に泥がついていた。村の者では見慣れない草履だった気がする」
ヨハンが身を乗り出す。
「見慣れない草履」
ルイスはすぐに続ける。
「ただし薪売りは草履の編み方に詳しくなく、印象証言」
ヨハンは少し肩を落とした。
「先に止められました」
豆売りの女主人が笑う。
「報告書も鍛えられてるね」
ルイスが記録する。
薪売り証言:村北口方面へ向かった。村の者では見慣れない草履との印象。ただし草履識別の専門性なし。
さらに、水汲み女の証言。
「村北口近くで、旅人風の男が一度立ち止まり、北の古道側を見ていた。小鹿渡し方面へ入ったかは未確認。男は、水汲み女に道を尋ねていない」
帳場が静まった。
道を尋ねていない。
小鹿渡し方面を知っていた可能性がある。
だが、そうとも限らない。
レティシアが言う。
「書きます」
ルイスが記録した。
泥草履の旅人、村北口近くで北の古道側を見た可能性。道を尋ねていない。土地勘ありの可能性。ただし偶然立ち止まった可能性も残す。
ガレスは壁の旧道図を見た。
「この人、旧道を知っていたかもしれません」
「可能性があります」
レティシアは頷く。
「ただし、南の村北口を見ただけでは旧道利用とは言いません」
ヨハンが言った。
「でも、泥草履です。旧道を歩く準備はありそうです」
ボルツが低く笑う。
「良い靴よりはな」
クラウスは別の視点を出した。
「王都側の通称レオンが旧道を確認し、現地側の泥草履の旅人が小箱を受け取る。もしそうなら、旅人は旧道を使って南の村へ入った、または旧道へ戻る予定だった可能性があります」
レティシアは少しだけ考えた。
「仮説として置きます」
ルイスが書く。
仮説:王都側手配者と現地側受取者の分業。通称レオン名使用者=手配・確認側、泥草履の旅人=南の村受取側の可能性。未確認。
豆売りの女主人が低く言う。
「良い靴と泥草履。役目が違うね」
ガレスがつぶやいた。
「良い靴は王都で扉を開ける。泥草履は古道を歩く」
ルイスが筆を止めた。
内部控えに書くか迷う。
レティシアが見た。
「内部控えに」
ルイスは書いた。
良い靴は王都で扉を開ける。泥草履は古道を歩く。
午後、南の村から小箱外布の泥筋についての第一報も届いた。
泥筋は細く、乾いた灰色土が混じっている。
だが、外布の保管場所が宿内奥棚であり、そこには宿の土埃もある。
また、定期便御者の手、宿主人の手、荷を置いた棚板の汚れも混ざる可能性がある。
泥草履の旅人が触れた証拠はない。
ルイスが読み上げると、ヨハンがため息をついた。
「また混ざってる」
豆売りの女主人が言う。
「世の中、混ざってるものの方が多いんだよ」
ルイスが記録する。
小箱外布泥筋、泥草履の旅人接触とは未確認。宿内土埃・御者・宿主人・棚板汚れ等の混在可能性。
ガレスが言った。
「でも、旅人が小箱を見た可能性は?」
レティシアは報告を確認した。
「小箱そのものを見た証言はありません。奥棚の方向を見た可能性のみです」
ルイスが書く。
泥草履の旅人が小箱を視認したかは未確認。奥棚方向を見た可能性のみ。
ボルツが不満げに言う。
「まどろっこしいな」
クラウスが答えた。
「まどろっこしいから、間違えずに済むことがあります」
ボルツは何か言い返しかけて、やめた。
「……それもそうだな」
その日の夕方、王都へ送る報告と、南の村への追加照会が作られた。
追加照会の内容は、泥草履の旅人の足元に集中した。
草履の形。
編み方。
泥のつき方。
かかとの減り。
村人の草履と違う点。
南の村で売られている草履かどうか。
北方古道沿いの宿場で見かける草履かどうか。
ヨハンが照会文を見て言った。
「草履も、ここまで聞くんですね」
レティシアは頷いた。
「今度は良い靴ではなく、草履が手掛かりです」
豆売りの女主人が言った。
「足元を変えたら、質問も変えないとね」
ルイスが町向け説明も作った。
ただし、泥草履の旅人のことは町へはまだ出さない。
南の村で人探しが始まれば、旅人風の者や貧しい旅装の者が疑われる。
その危険があった。
町向けには、こうする。
南の村における小箱保管経緯を確認しています。宿側の慎重な対応により、受取先不明の荷は引渡しされていません。現時点で村人の関与を示すものではありません。
ガレスが読んで、ほっとした顔をした。
「宿主人を守る文ですね」
「はい」
レティシアは答えた。
「宿主人が疑われる空気にしてはいけません」
豆売りの女主人が頷く。
「守った人を守る。大事だよ」
夜、レティシアは泥草履の旅人の札を前にして口述した。
泥草履の旅人は、通称レオンではないかもしれない。むしろ違うと見るべき特徴が多い。王都風ではなく、香油もなく、良い靴でもない。粗末な旅装で、泥のついた草履を履いていた。だが、その人物は小箱を求めた。“旧帳場へ届ける荷”と言った。受取札を持たず、拒まれると強く争わず去った。宿の外で待ち、村北口へ向かい、北の古道側を見た可能性がある。良い靴ばかり追っていては、泥草履を見落とす。王都側の手と、現地側の手は別かもしれない。小箱は、南の村で誰かを待っていたのかもしれない。次は、良い靴と泥草履を分ける。二つの足元が、同じ道の両端に立っていたのかを確かめる。
ルイスは筆を置いた。
壁には、良い靴の線と泥草履の線が、別々に伸びている。
まだ交わってはいない。
だが、その間に小箱があった。
小さな箱が、二人の足元をつなごうとしていた。




