第20話 王都、次の失態
同じ頃、王都ルーメルンでは、春の祭礼を前にした準備が静かに進んでいた。
本来なら、王都の祭礼はもっと華やかなざわめきを伴う。
仕立屋は最後の縫い直しに追われ、王城の給仕たちは盆を持ったまま走り回り、諸侯の屋敷では贈答品の包みが積み上がる。
そうした忙しさは、王都にとってむしろ健全さの証だった。
だが今年の王都には、いつもの喧噪とは少し違う響きが混じっている。
人は動いている。
書類も回っている。
馬車も荷も止まってはいない。
なのに、どこかの継ぎ目が合っていない。
それは大きな破綻ではない。
けれど、小さな噛み合わせの悪さがあちこちに生まれ始めていた。
王城の一室では、エミリア・エーヴェルシュタインが祭礼準備の一覧を前に、珍しく本気で眉を寄せていた。
机の上には招待客の名簿、贈答品の目録、各家への使いの順番、祭礼後の小宴に関する席次案、王都へ入る商会の届け出一覧まで積まれている。どれも単体なら読める。意味もわかる。だが、全部をひとつの流れとして頭へ入れようとすると、途端に形が崩れた。
「どうしてこんなに多いの……」
思わず漏らした呟きに、控えの侍女が返す言葉を失う。
本来なら、ここで誰かが
“こちらを先に片づけましょう”
“この家は贈答より順番が先です”
“この商会は祭礼菓子に絡みますから早めに”
と、整えて差し出してくれるはずだった。
だが今、その“誰か”はいない。
エミリアは視線を走らせ、ようやく一つの名簿へ指を止めた。
「まず、贈り物を決めればいいのよね」
「は、はい。ですが、その前に送り先の順序を……」
「順序はあとでいいでしょう? 先に物が決まらないと」
侍女は口を閉じた。
それが危ういとわかっていても、いまのエミリアへどこまで言っていいかわからないのだ。
彼女は王太子の新しい“隣の人間”であり、しかも本人も不安定になっている。
ここで強く諫めれば、感情で弾かれるかもしれない。
その結果、もっと場が荒れる可能性もある。
結局、誰も核心まで踏み込めない。
その日の午後、問題は一気に形を取った。
祭礼に先立つ小規模な奉納式があり、王都の主だった商会と、一部の貴族家へ先んじて礼が示される予定だったのだ。
本来ならここでの順番と贈り物の選定は極めて重要で、どの家を先に立て、どの商会へどの品を返し、どの家には“あえて軽いもの”を送るかまで細かく意味がある。
だがエミリアは、そこを「目立つ相手から整えればいい」と考えた。
結果、王都で砂糖流通を握る商会を後ろへ回し、代わりに見た目が華やかで王太子と親しげな若手貴族家へ先に贈り物を送ってしまった。
しかも悪いことに、その砂糖商会は、先日の茶会で菓子配分の微妙な差を感じ取っていた家でもある。
小さな不満が、ここで“やはり軽んじられている”という確信へ変わった。
商会主は面と向かって不満を言わなかった。
ただ、王城付きの書記へ向かって柔らかく告げただけだ。
「こちらの納入は、無理のない範囲で調整いたしましょう」
その言葉は丁寧だ。
しかし中身は明白だった。
優先度を下げる。
つまり、祭礼用の砂糖菓子、乾果の蜜煮、保存用の糖漬け果物、そのすべての流れに遅れが出る。
書記は青くなった。
別の場所では、東方の伯爵家が贈答品の品目に眉をひそめていた。
喪中明け直後の家へ、祝い色の強い飾り布が送られたのだ。
悪意がないことはわかる。
だが悪意がなくても失礼は失礼である。
さらに悪いことに、祭礼後の小宴で配られる予定だった席次案には、王太子派の若手貴族二家が不自然に近い位置で並んでいた。
この二家は先月、王都近郊の穀物売買を巡って密かに対立していたばかりだ。
普通なら、少なくとも今期のうちは離しておくべき組み合わせだった。
それを知らぬまま、あるいは軽く見たまま、同席案がそのまま出回り始めた。
「……誰だ、この順を通したのは」
若手貴族の一人が、不機嫌を隠さずに呟く。
そして、そこに居合わせた別の家の次男が、わざとらしく肩をすくめる。
「新しいご采配でしょう」
その一言が、その場の空気を冷やした。
王太子アルベルトが異変に気づいたのは、夕刻近くになってからだった。
彼の執務室へ、祭礼準備に関わる書記と侍従が、普段よりずっと青い顔で出入りし始めたからだ。
贈答品の差し替え願い。
商会側の納入調整。
席次案の再検討。
しかもどれも、まだ表へ大きく噴き出してはいないが、“放置すれば面倒になる”類の話ばかり。
アルベルトは書類を机へ叩きつけた。
「なぜ、こんなことになる!」
側近の若い貴族が肩を震わせる。
「で、殿下、それが……各所の調整が、少しずつ……」
「少しずつ、ではないだろう!」
苛立ちはもっともだ。
だが彼は、その苛立ちを向ける先をまだ間違えている。
いま必要なのは、どこがどう繋がっていたかを見抜くことだ。
けれどアルベルトは、“うまく回らない現実”より先に、“自分の顔が潰れる不快”へ反応してしまう。
彼は机の前に立つエミリアを振り返った。
「どうしてこんな基本的なことも整えられない!」
エミリアは顔を白くした。
「わ、わたしは……ちゃんと、目録を見て……」
「見たならなぜこうなる!」
「だって、誰もそんなこと教えてくれなかったもの!」
思わず飛び出したその言葉に、部屋の空気が止まった。
侍女も書記も、皆目を伏せる。
それは口に出してはならない種類の真実だった。
誰も教えてくれなかった。
そうだろう。
これまで、それは“教えられる”より先に、“レティシアが整えていた”のだから。
アルベルトの顔色が変わる。
「……レティシアの話をしているのか?」
エミリアははっとして唇を噛む。
言うべきではなかったとわかったのだろう。
だが、もう遅い。
「ち、違うの、そうじゃなくて……」
「いや、そうだろう」
アルベルトは苛立ち混じりに吐き捨てた。
「なぜ今さらあいつの名前が出てくる」
その声の中には、怒りだけではないものが混じっていた。
認めたくない焦り。
比較されたくない不快。
そして何より、“自分が切ったものが実はもっと大きかったのではないか”という疑いへの苛立ち。
だが彼はまだ、それを認めない。
「周囲が無能なだけだ。たかが贈答と席次で、いちいち大袈裟に騒ぐな」
そう言い放つ。
だが、たかが贈答と席次だからこそ、王都では効くのだ。
そこを理解しない時点で、彼の足元はもう崩れ始めている。
同じ頃、王城の別の一角では、第二王子ルシアンが書庫へ入っていた。
兄アルベルトほど華やかではないが、よく整った顔立ちを持ち、物静かな知性がそのまま立ち姿へ滲む男だ。彼は派手な社交を好まず、王都ではしばしば「影が薄い」と評される。だがその実、記録と人の動きを見る目は鋭い。
今日、彼は祭礼準備の乱れを偶然ではないと見ていた。
商会の納入遅れ。
贈答品の選定ミス。
席次案の不自然な近接。
どれも一つなら凡ミスで済む。
だが同じ日に重なるなら、もはや系統立った“接続不良”だ。
書庫番へ声をかけ、ルシアンは過去数年分の春季祭礼関係の記録を出させた。
誰が調整に関わり、どの家へどの順で使いが出ていたか。
どの商会と誰が事前に接触していたか。
そして――レティシア・エーヴェルシュタインの名が、どこにどのように記されているか。
書庫番が積み上げた古い帳面の一つに、その名前は確かにあった。
だが正面ではない。
王太子妃教育の補助記録、祭礼準備の下書き、社交儀礼に関する覚え書き、非公式ながら参照頻度の高い小目録。
つまり、表には出ないが、現場が何度も開いていた痕跡のある場所ばかりだ。
ルシアンは頁をめくりながら、小さく息をついた。
「……そういうことか」
誰に向けたともない独白だった。
いなくなって初めて見える仕事というものは、確かにある。
兄アルベルトが切ったのは、婚約者としての名前だけではない。
王都の継ぎ目をつないでいた、目立たぬ手そのものだったのだ。
その頃、辺境では、レティシアがいつものように帳面を開いていた。
町市場の再配置を進め、鉱山の裏流通の網を測り、砦内の協力者を崩し始めている彼女には、王都の混乱はまだ届いていない。
届いていないが、遠くの綻びが広がっていく気配だけは、すでに一通の書簡で知っている。
そして、その綻びは思ったより早く大きくなっている。
王都では、誰かがこう言った。
レティシア嬢なら、このような綻びは起きませんでした。
その言葉はまだ、公式にはどこにも記されない。
けれど水の染みのように、確かに王都の壁へ広がっていく。
美しい都の崩れ方は、いつだって静かだ。




