第197話 汚れた靴
泥は、黙っている。
けれど、何も語らないわけではない。
靴に残る。
布に移る。
床板の隙間へ落ちる。
乾いて色を変え、砂を残し、匂いを薄くする。
人は名前を偽れる。
紙は代筆できる。
紹介札は名を伏せられる。
だが、歩いた者の足元は、少しだけ正直だった。
ただし、正直すぎるわけでもない。
泥は混ざる。
靴は別の場所も歩く。
誰かの泥が、別の誰かの床へ運ばれる。
だから、今朝の帳場にも新しい札が貼られていた。
泥は足元の帳簿。ただし、帳簿は汚れる。
ヨハンがそれを読んで、口元をひきつらせた。
「なんか、だんだん格言みたいになってません?」
豆売りの女主人が豆袋を置きながら答えた。
「格言ってのは、何度も痛い目を見た人間が短くした言葉だよ。なら帳場向きだね」
ガレスは壁の泥比較表を見ていた。
通称レオン下宿の靴拭い布。
レンツ作業場の靴拭い布。
レンツ作業場の床板泥。
小鹿渡し付近の砂。
冬季木材道の表土。
灰松倉庫跡窪みの泥。
王都南門馬車宿周辺の泥。
王都南区一般土。
泥だけで、これほどの札が並ぶとは思っていなかった。
「泥って、こんなに面倒なんですね」
ガレスが呟くと、ボルツが腕を組んで鼻を鳴らした。
「鉄粉も面倒だぞ。どこで削ったか、どの工具を使ったかで混ざり方が変わる」
ヨハンが横から言った。
「荷車の車輪泥も面倒です。道の泥と荷置き場の泥が混ざるので」
豆売りの女主人が胸を張る。
「豆畑の泥も面倒だよ」
「おかみさん、今日は泥の専門家が多すぎます」
ガレスが言うと、女主人は真顔で返した。
「泥を知らない人間に、足元は見えないよ」
ルイスはその言葉を内部控えに書こうとして、少し迷った。
レティシアが見ている。
「内部控えに」
「はい」
ルイスは書いた。
泥を知らない者に、足元は見えない。
今日の中心は、レンツ作業場から保全された靴拭い布だった。
王都から届いた報告によれば、レンツの作業場の店先には、乾いた灰色泥様の付着があり、古い靴拭い布にも同じような泥が残っていた。
その布は、客や使いが店へ入る前に靴を拭くためのものだったという。
つまり、誰の靴を拭いた泥かは、一人には絞れない。
ルイスは読み上げた。
「レンツ作業場靴拭い布。複数人使用の可能性あり。若い使い専用とは言えない」
ガレスがすぐに言った。
「若い使いの泥とは限らない」
「はい」
ルイスが記録する。
レンツ作業場靴拭い布は複数人使用可能性。南区使い専用泥とはしない。
豆売りの女主人が頷く。
「いいね。布はみんなの足を知ってるけど、誰の足かは名乗らない」
王都土壌係の比較第一報は、思ったより細かかった。
レンツ作業場靴拭い布の泥には、灰色がかった砂粒と、赤みの少ない粘土分が含まれている。
通称レオン下宿の靴拭い布に残っていた泥と、粒の大きさや色味に一部似た点がある。
小鹿渡し付近の川砂に含まれる灰色砂とも、似た粒がある。
ただし、王都南門馬車宿周辺の泥にも一部近い粒が含まれる。
完全な一致ではない。
複数地点の泥が混ざっている可能性が高い。
ルイスがそこまで読み終えると、ヨハンが頭を抱えた。
「似てる。でも混ざってる。完全一致じゃない。泥って嫌ですね」
ボルツが言った。
「だから言ったろ。面倒だって」
豆売りの女主人がすぐに突っ込む。
「“面倒”って言葉は気をつけな。王都で事件になった言葉だよ」
ボルツは一瞬黙り、それから苦い顔で頷いた。
「……ややこしい」
「それならいいよ」
レティシアは報告書を見ながら言った。
「泥線を三段階に分けます」
ルイスが筆を構える。
「一、強い類似。二、一部類似。三、混在可能性」
「今回の泥は?」
「一部類似、ただし混在可能性大」
ルイスは書いた。
レンツ作業場靴拭い布泥と通称レオン下宿靴拭い布泥は一部類似。ただし複数地点泥の混在可能性大。小鹿渡し付近砂との接続も一部類似に留める。
ガレスが壁の表を見つめる。
「それでも、レンツ作業場とレオン下宿の布が少し近づきました」
「はい」
レティシアは頷く。
「近づきました。ただし、同じ靴とは言いません」
ルイスが追加する。
泥の類似は、同じ靴・同じ人物を意味しない。
そこへ、王都側の追加証言が届いた。
レンツ本人への再照会である。
フェルナー監査官は、泥の報告を示したうえで、若い使いが戻った時の様子をさらに聞いていた。
ルイスが読み上げる。
「レンツ証言。若い使いは白蔦筋確認から戻った際、靴をかなり汚していた。泥は灰色がかり、乾ききっていなかった。使いは店先で靴を拭き、“鹿渡は浅いが、石が滑る”と発言した可能性」
小鹿渡し。
鹿渡。
略称。
帳場の全員が、壁の略図を見た。
通称レオン下宿の略図には、正式な「小鹿渡し」ではなく、鹿渡と書かれていた。
ガレスが低く言う。
「略称が一致します」
レティシアは頷いた。
「一致します」
ルイスがすぐに書く。
レンツ証言:若い使いが“小鹿渡し”を“鹿渡”と呼んだ可能性。レオン下宿略図の“鹿渡”表記と一致。ただしレンツ記憶証言。
ヨハンが言った。
「これは強いんじゃないですか」
クラウスが慎重に答える。
「強くなります。ただし、地元や古い荷運びの間で一般的な略称なら、同じ略称を使う人は複数います」
ルイスが書く。
略称一致は接続補助線。ただし一般略称可能性あり。
豆売りの女主人が腕を組んだ。
「でも、“鹿渡”って、知らない人間が勝手に略す感じじゃないね」
ロイエンが頷く。
「そうですね。少なくとも、誰かからその呼び方を聞いている可能性はあります」
レティシアは言った。
「“その呼び方を知っていた”までにします」
ルイスが書く。
若い使いは“鹿渡”という略称を知っていた可能性。
レンツの証言は続いた。
若い使いは、灰松倉庫跡を「灰倉」と呼んだ。
そして、こう言った可能性がある。
灰倉は屋根がない。雨宿りには向かないが、壁陰なら荷を置ける。
ヨハンが思わず声を上げた。
「灰松倉庫跡、壁が残ってましたよね」
「北側壁が残っていました」
ガレスが答える。
ルイスは記録する。
若い使い報告:“灰倉”は屋根なし、壁陰なら荷置き可能。北方側灰松倉庫跡確認結果と整合。
ボルツが低く言った。
「実際に見てないと、そこまでは言えねえんじゃないか」
レティシアは答える。
「実際に見た者から聞いた可能性もあります」
「そうか。本人が行ったとは限らないのか」
「はい」
ルイスが書く。
報告内容は実地確認者由来の可能性が高い。ただし若い使い本人が歩いたとは限らず、第三者から聞いた可能性も残す。
豆売りの女主人がため息をついた。
「また一枚、間に挟まるかもしれないわけだ」
「ええ」
レティシアは頷く。
「間に挟まる者を見落とすと、線を間違えます」
さらに、レンツはもう一つ思い出していた。
若い使いは戻った時、こう言ったという。
冬木道は徒歩なら抜けられる。荷車は無理だ。
冬木道。
冬季木材道の略称だろう。
壁にある通称レオン下宿の略図には、薄く冬木と書かれていた。
ルイスが読み上げた瞬間、帳場に静かな緊張が走った。
ガレスは、慎重に言った。
「鹿渡、灰倉、冬木。略称が三つ、下宿略図と合います」
ルイスが書く。
レンツ証言の略称“鹿渡”“灰倉”“冬木”が、レオン下宿略図内の略称と一致する可能性。
レティシアは少し間を置いた。
「これは、線を濃くします」
ヨハンが顔を上げる。
「実線ですか」
「いいえ。略称線です。かなり濃い補助線」
豆売りの女主人が苦笑する。
「また線の種類が増えたね」
「増やします」
レティシアは淡々と言った。
「ここをまとめてしまうと、泥線と筆跡線と略称線が混ざります」
ルイスは壁に三つの線を分けて書いた。
泥線。
筆跡線。
略称線。
その三本が、同じあたりへ向かっている。
南区使い。
通称レオン名使用者。
下宿略図所持者。
若い修理依頼者。
送り状追記者。
まだ一人とは書かない。
だが、一人であっても不自然ではなくなってきた。
クラウスが静かに言った。
「これで、南区使い=通称レオン線はかなり濃くなりました」
レティシアは頷いた。
「はい。かなり濃くなりました」
ガレスは壁を見つめ、ゆっくり言った。
「でも、まだ本人じゃなくて、同じ情報を持っていた別人かもしれない」
「その通りです」
ルイスが書く。
南区使い=通称レオン名使用者の可能性は大きく上昇。ただし情報共有した別人可能性を残す。
豆売りの女主人が、ガレスを見て笑った。
「いいねえ。先に逃げ道じゃなくて、別の道を見られるようになってきた」
「褒めてます?」
「今日は八割褒めてる」
「残り二割は?」
「まだ顔が嬉しそう」
「それは仕方ないです」
少しだけ笑いが起きた。
だが、その笑いの後、レンツの証言の最後が読まれた。
若い使いは、旧道の報告を終えると、こう言った可能性がある。
道は通れる。ただ、荷車は無理だ。小箱くらいなら行ける。
帳場が静まり返った。
小箱。
その言葉が、ついに旧道確認の報告に出てきた。
ヨハンは、壁の荷車本体経路図を見た。
それから、小物移動の候補線を見る。
「小箱くらいなら行ける……」
ガレスが息を呑む。
レティシアは、すぐに言った。
「次の回で扱います。今は記録だけ」
ルイスが書く。
レンツ証言:若い使いが“道は通れる。ただ、荷車は無理。小箱くらいなら行ける”に類する発言をした可能性。重要。次回整理。
ボルツが顔をしかめた。
「次回まで持ち越すのか」
豆売りの女主人が言う。
「大きい魚ほど、いきなり引っ張ると糸が切れるんだよ」
レティシアは頷いた。
「はい。ここで全部つなぐと、混ざります」
夜、レティシアは泥比較表と略称表を前にして口述した。
レンツ作業場の靴拭い布には、灰色の泥があった。通称レオン下宿の靴拭い布と一部似ていた。小鹿渡しの砂とも一部似ていた。だが、泥は混ざる。泥だけでは、人を決めない。今日、泥よりも強かったのは略称だった。鹿渡、灰倉、冬木。若い使いが使ったとされる呼び方は、下宿の略図と重なった。これは大きい。だが、同じ地名を知る者が複数いてもおかしくはない。南区使い、通称レオン名使用者、略図所持者はかなり近づいた。だが、まだ同じ顔にはしない。そして最後に、小箱くらいなら行ける、という言葉が出た。荷車は無理。小箱なら行ける。事件の形が、少し変わろうとしている。
ルイスは筆を置いた。
泥は足元を語った。
略称は、道を知る者の口を語った。
そして、小箱という言葉が、旧道の上に初めて置かれた。
次に見るべきものは、もう決まっていた。
荷車の道ではない。
小箱の道である。




