第166話 第三鍵照合
南の村から戻ってきた小箱は、箱のままではなかった。
いや、箱そのものは戻ってきていない。
戻ってきたのは、小箱の中に入っていた細長い革袋と、その中の鉄鍵だった。
村長宅で開封された小箱は、布包み、紙片、木札、荷札、紐、そして鉄鍵に分けられ、それぞれ番号をつけられて仮保全されている。
そのうち、今回北方旧所領へ運ばれてきたのは三番革袋。
中身は、木札付きの鉄鍵。
木札には、かすれた字でこう書かれていた。
石材奥・第三
ただし、それはまだ「第三鍵」ではない。
帳場の記録上の表現は、こうだった。
第三鍵らしき鉄鍵。
その「らしき」が、今日の全員の喉に刺さっていた。
ルイスは、南の村から戻った包みを長机に置く前に、封印状態を一つずつ確認した。
「南の村村長印、異常なし。北方旧所領立会補助書記印、異常なし。護衛確認印、異常なし。銀狐商会書記確認印、異常なし。革袋外装、破れなし。封紐、切断痕なし。搬送中開封なし」
その声は、いつもより少し硬い。
ガレスは長机の端で、両手を握っていた。
「鍵一本なのに……ここまで確認するんですね」
レティシアは革袋を見たまま答えた。
「鍵一本で、扉も人の疑いも開くから」
その言葉に、帳場の空気が静まった。
豆売りの女主人が、腕を組んで低く言う。
「うまいこと言うね。笑えないけど」
ヨハンも頷いた。
「本当に、笑えないやつですね」
クラウス・ベルガーは、少し離れた席で記録を見ていた。
銀狐商会本部の人間として、灰鷹状類似印の確認にも関わっている。だが、今日の主役は灰鷹ではない。
鍵だ。
石材置き場奥倉庫の第三鍵らしきもの。
もし本物なら、所在不明だった第三鍵が南の村の小箱から出たことになる。
だが、それで終わりではない。
なぜ南の村にあったのか。
誰が入れたのか。
なぜ「旧帳場の者へ」と書かれた箱に入れたのか。
なぜ「第三鍵 返却済」という紙片まで添えたのか。
問いは増えるばかりだった。
ルイスは革袋を開ける前に、もう一度手順書を読んだ。
「開封者、ディルク様配下兵一名。記録者、ルイス。立会人、レティシア様、ディルク様、ロイエン副使、クラウス様、ラウル、ヨハン、ガレス。触れた箇所はすべて記録」
ディルクが短く頷く。
「始めろ」
革袋が開かれた。
中から鉄鍵が取り出される。
小さな木札が結びついている。
錆はある。
だが、全体が腐っているわけではない。
鍵の先端だけ、少し色が違って見えた。
ヨハンがそれに気づいて、眉を寄せた。
「先端、少し新しいですね」
ルイスが顔を上げる。
「新しい?」
「削った跡かもしれません。まだ近くで見ないとわかりませんけど」
レティシアはすぐに言った。
「記録」
ルイスが書く。
第三鍵らしき鉄鍵、先端部に色差あり。削り跡可能性。ヨハン初見所見。未確認。
ラウルは、その鍵を食い入るように見ていた。
門修繕係として石材置き場を管理していた男だ。
彼は喉を鳴らし、ようやく言った。
「札の字は……似ています」
「何に?」
ディルクが問う。
「昔の備品札の字に。今はもっと新しい札を使いますが、古い札はこういう字です。ただ……」
「ただ?」
「札だけなら、付け替えられます」
ラウルは苦しそうに言った。
自分の管理していた物の札を疑うのは、つらいのだろう。
ルイスは記録する。
木札文字、旧備品札様式に類似。ただし札付替え可能性あり。ラウル所見。
次は石材置き場奥倉庫での照合だった。
全員が移動するわけではない。
人数が多すぎると現場を荒らす。
照合現場に入るのは、レティシア、ディルク、ルイス、ロイエン、ラウル、ヨハン、クラウスの七名。
ガレスは外側で待つことになった。
彼は少し悔しそうだったが、自分から言った。
「俺は外で待ちます。人が多いと邪魔になるので」
ヨハンが目を丸くする。
「お前、本当に帳場の人になってきたな」
「やめてください。照れます」
「照れるのは変わらないんだな」
豆売りの女主人が横から言った。
「外にいるのも立派な立会いだよ。中で見た人が出てきたら、何を見たかちゃんと聞くんだ」
ガレスは頷いた。
「はい」
石材置き場奥倉庫は、北門脇にある。
外側置き場には石材と石灰袋が積まれ、奥の小さな倉庫には縄や修繕備品が保管されている。
そこは、第三鍵の所在不明から始まった場所でもあった。
まず、錠前を確認する。
ルイスが読み上げる。
「石材置き場奥倉庫錠前。外装錆あり。鍵穴周辺に古い擦れ。新しい傷の有無、現時点で不明。照合前状態として記録」
ラウルが第一鍵を差し込む。
すっと入る。
少し重いが、回る。
錠は開いた。
再び閉める。
次に、北門詰所保管の第二鍵。
これも入る。
第一鍵より少し硬いが、回る。
ラウルは言った。
「第二鍵はあまり使っていないので、少し渋いです。でも問題なく回ります」
ルイスが書く。
第一鍵、差し込み可、回転可、開錠可。第二鍵、差し込み可、回転可、開錠可。ただし第二鍵はやや渋い。
そして、問題の鉄鍵。
第三鍵らしきもの。
ラウルが手を出そうとして、一度止まった。
ディルクが問う。
「やれるか」
ラウルは唇を結び、頷いた。
「やります」
ただし、彼だけに背負わせない。
ルイスが確認する。
「差し込みは一度。無理に回さない。抵抗があれば停止」
「わかっています」
ラウルは鍵を持った。
手が少し震えていた。
鍵先が鍵穴に近づく。
差し込む。
入った。
奥まで、ほぼ入った。
帳場の者たちが息を止める。
ラウルがゆっくり回そうとする。
そこで、引っかかった。
がり、と小さな音がした。
ラウルは即座に手を止めた。
「止めます」
その判断は早かった。
ルイスがすぐに書く。
第三鍵らしき鉄鍵、差し込み可。奥までほぼ入る。回転開始時に抵抗および小さな擦過音あり。無理に回さず停止。開錠未実施。
ラウルは鍵を抜いた。
鍵穴の下に、小さな錆粉が落ちる。
ヨハンがしゃがみ込んだ。
「錆粉、出ましたね」
ディルクが問う。
「普通か」
「古い錠なら出ます。でも第一鍵、第二鍵ではここまで落ちなかった」
ルイスが書く。
第三鍵らしき鉄鍵使用時、鍵穴下に少量錆粉落下。第一鍵・第二鍵使用時との比較で多めの可能性。未確定。
ラウルは鍵を布の上に置き、じっと見た。
「本物なら、もっと滑らかに回るはずです」
声がかすれていた。
「ただ、半年以上使っていなければ、渋くなる可能性もあります」
ロイエンが言う。
「つまり、本物とも偽物とも言えない」
「はい」
ラウルは苦しそうに頷いた。
ヨハンが鍵の先端を見た。
「これ、やっぱり削ってます」
クラウスが身を乗り出す。
「わかりますか」
「荷車の金具を削る時も、似た跡が残ります。これは古い摩耗じゃない。先端の片側だけ、少し整えたように見える」
レティシアが問う。
「いつ削られたかは?」
「わかりません。ただ、全体の錆に比べて、先端の削り跡は新しめに見えます」
ルイスは書く。
鍵先端、片側に削り整えたような跡あり。全体錆に比して新しめの可能性。ヨハン所見。時期不明。
クラウスも鍵を見た。
「王都の古物鍵を、錠に合わせるために少し削ったようにも見えます」
その言葉に、空気がまた重くなる。
王都。
古物鍵。
加工。
しかし、クラウス自身がすぐに続けた。
「もちろん、推測です。商会で見た例に似ているだけです」
ルイスが書く。
クラウス所見:王都古物鍵を錠に合わせるため加工した事例と類似可能性。ただし推測。
ディルクは腕を組み、錠前を見た。
「これは第三鍵なのか」
誰も答えなかった。
答えられない。
差し込める。
奥まで入る。
しかし滑らかには回らない。
削った跡がある。
錆粉が出る。
木札には石材奥・第三。
だが札は付け替えられる。
本物に見える。
偽物にも見える。
あるいは、本物ではないが開けられるように加工された鍵。
レティシアは、少し考えてから言った。
「分類を変えます」
ルイスが筆を構える。
「南の村小箱内鉄鍵は、現時点で“第三鍵”とはしません。“第三鍵類似加工鍵”とします」
ルイスは一瞬だけ止まり、それから大きく書いた。
第三鍵類似加工鍵。
ヨハンが小声で言う。
「長い」
豆売りの女主人がいれば、たぶん「でも必要だね」と言っただろう。
レティシアは続けた。
「注記。鍵が錠に入り、回りかけたことは、本物であることを意味しない」
ルイスが書く。
鍵が開きかけたことは、鍵が本物であることを意味しない。
ロイエンが深く頷いた。
「王都向けにも、その一文をそのまま使います」
クラウスも言った。
「商会側にも必要です」
ラウルは、その文字をじっと見ていた。
第三鍵ではない。
第三鍵類似加工鍵。
少しだけ肩から力が抜けたようだった。
無実が証明されたわけではない。
管理の不備が消えたわけでもない。
だが、少なくとも「第三鍵が返却されていた」とは決まらなかった。
石材置き場から戻ると、ガレスが待っていた。
「どうでしたか」
ヨハンが答えようとして、少し迷った。
レティシアが言う。
「鍵は錠に入りました。回しかけたところで抵抗があり、無理には回しませんでした。先端に加工跡の可能性があります。分類は第三鍵類似加工鍵です」
ガレスは何度か瞬きした。
「つまり……本物じゃない?」
「それも断定しません」
「本物かもしれないし、偽物かもしれないし、似せた鍵かもしれない」
「ええ」
ガレスは少し黙り、それから言った。
「一番もやもやするやつですね」
豆売りの女主人が、いつの間にか近くに来ていた。
「もやもや札、出番だね」
ルイスは真顔で書いた。
内部控え:第三鍵類似加工鍵、非常にもやもや。
レティシアは一瞬だけ見た。
ルイスは慌てて言った。
「内部控えです」
「……内部控えなら」
ほんの少しだけ、場に笑いが戻った。
だが、すぐに次の話へ移った。
この鍵を作れる者。
それが次の確認対象になる。
ラウルは言った。
「町内で本格的な鍵の複製は難しいです。ただ、古い鍵を少し削って合わせる程度なら、鍛冶場か金具職人ならできます」
ヨハンも頷く。
「荷車の金具を削る道具でも、鍵の先端くらいなら削れます。細かい作業が得意な職人なら」
クラウスが静かに言った。
「灰鷹商会は、建築資材と一緒に簡易錠前や倉庫金具も扱っています」
帳場がざわつく。
クラウスはすぐに手を上げた。
「扱っていることは、作ったことを意味しません」
ルイスが即座に書く。
扱えることは、作ったことを意味しない。
豆売りの女主人が言う。
「今日も大きい字だね」
「必要です」
ルイスは答えた。
マルタが、第三鍵類似加工鍵の革袋に少し顔を近づけた。
「油の匂いがございます」
全員が彼女を見る。
マルタは落ち着いた声で続けた。
「北方の鍛冶場で使う重い油とは少し違います。薄く、匂いが整っております。王都の金具油に近いかもしれません。ただし、王都産の油は北方にも入っておりますので、由来は断定できません」
ルイスが書く。
鍵または革袋に薄い油臭あり。マルタ所見、北方鍛冶場の重油とは異なり、王都系金具油に近い可能性。ただし王都産油は北方にも流通。由来断定不可。
ロイエンが低く言った。
「また王都線ですか」
クラウスは小さく頷いた。
「そして商会線でもあります。金具油は商会経由で流れます」
レティシアは、壁の図に新しい項目を置かせた。
加工技術を持つ者。
加工道具に触れられる者。
王都系金具油に触れられる者。
この三つは重なるが、同じではない。
ヨハンがそれを見て、ため息をつく。
「できる人と、道具を持ってる人と、油に触れる人を分けるんですね」
「ええ」
レティシアは頷いた。
「できることと、やったことも分けます」
ガレスが言う。
「扱えることは、作ったことを意味しない」
「そう」
彼は少しだけ胸を張った。
「覚えました」
豆売りの女主人が笑う。
「最近、札の暗唱が増えたね」
夕方までに、確認対象が整理された。
一、北方町内の鍛冶場。
二、荷車金具職人。
三、石材修繕係。
四、王都外郭の錠前職人。
五、銀狐商会および灰鷹商会が扱う簡易錠前・金具油の流通経路。
ただし、どれも候補でしかない。
誰かを呼びつけるのではなく、まず照会する。
ルイスは表題を書いた。
第三鍵類似加工鍵に関する加工可能範囲確認
長い。
けれど、今はそれ以外に言いようがない。
夜、王太子府へ送る報告には、第三鍵類似加工鍵という新しい分類が入った。
ロイエンの所見は、かなり慎重だった。
南の村小箱内鉄鍵は、石材置き場奥倉庫錠へ差し込み可能であったが、回転時に抵抗があり、開錠確認は行わなかった。鍵先端に加工跡の可能性あり。現時点では第三鍵とは断定せず、“第三鍵類似加工鍵”として扱う。鍵が錠に入り回りかけたことは、本物であることを意味しない。加工技術・加工道具・王都系金具油の流通経路を分けて確認する必要あり。
レティシアはそれを読んで頷いた。
「よいと思います」
ロイエンは疲れた顔で笑った。
「今日の“よい”は重いですね」
「ええ」
その夜の追記に、レティシアはこう口述した。
鍵は、錠に入った。だが、扉は開けなかった。開きかけた鍵は、人の心を急がせる。本物だ、返却済みだ、誰かが嘘をついたのだ、と言いたくなる。だが、今日見つかったのは本物の第三鍵ではない。第三鍵類似加工鍵である。似ていること。入ること。回りかけること。それらはすべて、同じではない。鍵が扉を開く前に、言葉が人を閉じ込めることがある。だから、鍵より先に言葉を止める。
ルイスは、最後の一文を書き終え、壁の図を見た。
第三鍵。
第三鍵類似加工鍵。
返却済という紙片。
灰鷹状類似印。
小箱。
どれも、答えに見える形をしている。
だが、その形をそのまま信じない。
今日は扉を開けなかった。
それが、いちばん大事な確認だった。




