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『「君の役目は妹で足りる」と婚約破棄されたので辺境へ去りましたが、滅びかけた王国より先に私の領地が大陸最強になっていました』  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第152話 「あとでいい」と言った声

 子どもの証言は、小さな石だった。


 それだけで道がわかるほど大きくはない。


 けれど、足元に置かれていれば、そこに誰かが通ったのだと気づける。


 北門近くの荷置き場に、小型荷車があったかもしれない。

 その荷車は、かたん、かたんと片輪の音を立てていたかもしれない。

 そして誰かが、荷車のそばにいた男へ向かって、こう言ったかもしれない。


 そっちはあとでいい。


 たった一言。


 それでも、帳場に戻ってからのルイスは、その一文を何度も見返していた。


 声の内容として、“そっちはあとでいい”と聞こえた可能性。証言者自身、たぶんと表現。未確認。


 たぶん。


 未確認。


 その二つの札がなければ、この言葉はもっと危険になっていた。


 誰かがそう言った。

 誰が言ったのか。

 何に対して言ったのか。

 小型荷車のことなのか。

 別の荷のことなのか。

 それとも、子どもが聞いた言葉と荷車は、本当は関係がないのか。


 何も決まっていない。


 けれど、何もなかったことにもできない。


 レティシアは、帳場の長机に北門周辺の簡易図を広げた。


 北門。

 井戸場。

 荷置き場。

 豆売りの露店。

 薪置き場。

 中継小屋へ向かう道。

 南側草地。

 旧代官所裏搬入口。


 昨日までの地図より、北門近くが細かくなっている。


 理由は簡単だった。


 見ていなかった場所が、見る場所になったからだ。


 ディルクは図を見ながら言った。


「声の方向は北門側の可能性。だが、北門側には人が多かった」


「はい」


 ルイスが記録を開く。


「当日朝二刻半ごろ、北門周辺には銀狐商会荷車待機、町内の薪運び、豆の搬入、井戸場の水汲み、警備兵二名、荷置き場整理役一名がいました」


 ヨハンが腕を組む。


「“おじさんの声”だけじゃ、絞れませんね」


 豆売りの女主人が鼻を鳴らした。


「そもそも、あんたたち男はだいたいおじさん声だよ」


「ひどい」


「子どもから見たらそんなもんさ」


 ガレスは、少し不安そうに地図を見ていた。


「でも、“そっちはあとでいい”って、普通にも言いそうですよね」


「そうなの」


 レティシアは頷いた。


「だから、言葉だけで誰かを疑ってはいけない」


 マルタが静かに茶を置いた。


「炊事場でも申します。そちらはあとで、こちらを先に、と」


「荷置き場でも言いますよ」


 ヨハンも言った。


「この荷はあとで、先にこっちを動かせ、とか」


 豆売りの女主人も続ける。


「商売でも毎日言うよ。そっちはあとでいい、先に釣りを渡す、とかね」


 ルイスは筆を走らせた。


 “そっちはあとでいい”は日常的表現であり、単独では不審発言と断定不可。荷車付近、時刻、声の方向、片輪音との組み合わせで扱う。


 ロイエンは、その文を見て頷いた。


「よい整理です。言葉だけで走らせない」


「言葉は走りますから」


 ルイスがそう言うと、豆売りの女主人がにやりとした。


「ルイスさんも、ずいぶん言うようになったね」


「皆さんの言葉を毎日書いていますので」


「悪い影響だ」


「良い影響です」


 ヨハンが横から言うと、場に小さな笑いが起きた。


 だが、笑いは長くは続かなかった。


 ディルクが地図の北門側を指で叩いたからだ。


「聞き取りを分ける。声を聞いた者。荷車を見た者。荷車の音を聞いた者。誰かに“あとでいい”と言われた者」


 ルイスが書く。


「順番は?」


「まず当日その場にいた者の所在確認。誰がどこにいたかを決める。その後で、言葉を聞く」


 レティシアが補足した。


「“あなたは、そっちはあとでいいと言いましたか”とは聞かない方がいいわ」


 ガレスが首を傾げる。


「どうしてですか?」


「言った覚えがなくても、聞かれた瞬間に身構えるから。あるいは、言ったかもしれないと記憶が変わる」


「じゃあ、どう聞くんです?」


 ヨハンが問う。


 レティシアは少し考えた。


「当日、荷置き場で誰に何を指示したか。覚えている範囲で話してもらう。その中に同じ言葉が出るかを見る」


 ロイエンが感心したように言った。


「誘導しない聞き方ですね」


「そうしたいところです。ただ、こちらも完璧ではありません」


「それも記録しますか」


「します」


 ルイスはすでに書いていた。


 聞き取り方針:直接語句を提示せず、当日荷置き場での指示内容を自由回答で確認。誘導回避。ただし聞き取り者側の質問内容も記録。


 その日の午前、北門周辺の聞き取りが始まった。


 最初に呼ばれたのは、当日の荷置き場整理役だった。


 名はベルノ。


 四十代半ばの男で、普段は町の荷置き場や市場前の荷車整理を手伝っている。背は低いが声が大きく、人の動きをさばくのがうまい。


 ただし、声が大きい分、誰かが「おじさんの声」と覚えていても不思議ではなかった。


 ベルノは帳場に入るなり、ひどく緊張した顔で頭を下げた。


「俺、何かやらかしましたか」


 豆売りの女主人が腕を組む。


「まだそう決まったわけじゃないよ。顔がもうやらかした顔だけど」


「おかみさん、怖いこと言わないでくださいよ」


 レティシアは穏やかに言った。


「ベルノ。今日は確認です。責めるためではありません」


「はい」


「取引当日の朝二刻半ごろ、あなたはどこにいましたか」


 ベルノは、額に手を当てて考えた。


「北門の荷置き場です。銀狐商会の荷車が来る前に、町内の荷車を端へ寄せてました」


「誰に指示を出しましたか」


「薪運びのダリオに、そっちの荷を井戸側へ置くなと。あと、豆袋の車を市場側へ。銀狐商会の通り道を空けろって」


 ルイスが書く。


 レティシアは続ける。


「小型荷車は見ましたか」


 ベルノは首をひねった。


「小型荷車は、何台もありますからね」


「布のかかったものは?」


「布……」


 彼は少し目を細めた。


「一台、あったかもしれません」


 場が静かになる。


 ベルノは慌てて手を振った。


「いや、怪しいとかじゃなくて! 荷置き場の端に、小さい荷車があった気はします。でも誰のかまでは」


「誰かがそばにいましたか」


「男が一人……いたような。いや、でも荷置き場は男だらけでしたし」


 レティシアは頷いた。


「わからないことは、わからないで構いません」


「はい」


 ベルノは、少し肩の力を抜いた。


「その時間帯、誰かに“あとでいい”と言った覚えはありますか」


 ディルクが聞きかけた瞬間、ルイスが少し手を上げた。


 全員が彼を見た。


 ルイスの顔は赤かった。


「……すみません。直接語句を出さない方針でした」


 ディルクは一瞬だけ眉を上げ、それから頷いた。


「そうだった。今の質問は取り下げる」


 ベルノが目を丸くする。


「質問って、取り下げられるんですか」


 豆売りの女主人が言った。


「取り下げなきゃ、あんたがその言葉を覚えちまうだろ」


「もう聞いちゃいましたけど」


「だから記録するんだよ」


 ルイスは書いた。


 聞き取り中、ディルクより直接語句提示の質問あり。方針に基づき取り下げ。証言への影響可能性ありとして記録。


 ディルクは少し苦い顔をした。


「俺の失敗も残るのか」


 レティシアは静かに答えた。


「残します。そうしないと、後で綺麗すぎる記録になります」


 ディルクは息を吐いた。


「その通りだ」


 ベルノは、そのやり取りを見て、逆に少し落ち着いたようだった。


 偉い人間の聞き方の失敗まで書く。


 それなら、自分だけが責められる場ではないのだと感じたのだろう。


 レティシアは質問を戻した。


「当日、荷置き場で“これは後回しでいい”という意味の指示を出した覚えはありますか。言葉は正確でなくて構いません」


 ベルノは考えた。


「言ったかもしれません」


「何に対して?」


「薪運びに。いや、豆袋だったかも。銀狐商会の通り道を先に空けたかったんで、“そっちはあとで、まず道を空けろ”くらいは言ったと思います」


 ルイスが書く。


 ベルノ証言:当日、荷置き場整理中に“そっちはあとで”に類する指示を出した可能性あり。対象は薪運びまたは豆袋車の移動と本人記憶。ただし小型荷車への指示とは断定不可。直接語句提示後の証言であるため、影響可能性あり。


 ロイエンがいれば大きく頷いただろう、とルイスは思った。


 影響可能性。


 それを入れることで、証言の重さが変わる。


 重すぎず、軽すぎない。


 次に呼ばれたのは薪運びのダリオだった。


 若い男で、当日は北門側に薪を一時置きしていた。


 ダリオは、ベルノよりさらに緊張していた。


「俺、旧搬入口なんて行ってません」


 席に着く前からそう言った。


 ディルクが静かに返す。


「まだ誰もそう聞いていない」


「す、すみません」


 レティシアは同じ手順で聞いた。


 当日どこにいたか。

 誰と話したか。

 何を運んでいたか。

 小型荷車を見たか。


 ダリオは、小型荷車については首を振った。


「覚えてません。荷車は多かったので」


「ベルノから指示を受けましたか」


「受けました。道を空けろって」


「どんな言葉でしたか」


「ええと……“薪はあとでいい、先にそっちを寄せろ”みたいな」


 ルイスが顔を上げた。


 そっちはあとでいい。


 似ている。


 だが、対象は薪だった。


 ダリオは続けた。


「でも、それは俺の薪のことです。小さい荷車じゃないです」


「わかりました」


 ルイスが書く。


 ダリオ証言:ベルノより“薪はあとでいい”に類する指示を受けた記憶あり。対象は薪荷。小型荷車との関連は本人否定。


 ガレスが小さく言った。


「じゃあ、子どもが聞いたのは、この言葉だった可能性もあるんですか」


 レティシアは頷いた。


「あります」


「でも、荷車の音は」


「それも残ります」


「二つが同じ場にあっただけで、つながってないかもしれない」


「ええ」


 ガレスは、少し複雑な顔をした。


 せっかく手がかりだと思ったものが、普通の指示だったかもしれない。


 がっかりしたような、安心したような、妙な感覚だった。


 ヨハンが肩を叩いた。


「そういうもんだ。車輪の音だって、似てる荷車は他にもあるかもしれない」


「でも、見ないとわからない」


「そう。だから見る」


 聞き取りは午前いっぱい続いた。


 豆袋を運んでいた女。

 井戸番の老女。

 北門兵。

 水桶を運んだ少年の母親。

 市場の入口にいた靴直しの男。


 結果は、すっきりしなかった。


 小型荷車を見たかもしれない者は二人。

 見ていない者が三人。

 覚えていない者が四人。

 「あとでいい」に似た言葉は、ベルノが薪運びへ言った可能性が高い。

 ただし、子どもが見た小型荷車とその言葉が同時だったかは未確認。


 ルイスは、まとめながら眉間を押さえた。


「進んだような、戻ったような……」


 ロイエンが、王太子府用の写しを見ながら言った。


「よくあります」


「王都でも?」


「ええ。むしろ、王都の調査は大半がこうです。はっきりした証言より、曖昧なものの整理が多い」


 豆売りの女主人が言う。


「白黒つかないと、町はもやもやするね」


 レティシアは頷いた。


「だから、もやもやにも札をつけます」


 ガレスが、思わず笑った。


「もやもや札」


 ヨハンが即座に言う。


「また新しい札が」


 ルイスは少し本気で書きかけた。


 レティシアが止める。


「正式名称にはしません」


「内部控えには?」


 豆売りの女主人が聞く。


 レティシアは少し考えて、言った。


「内部控えには、残しましょう」


 ルイスは小さく書いた。


 内部控え:もやもや札。正式には“未確定整理中”。


 ロイエンが笑いをこらえていた。


「王都へは送らないでください」


「送りません」


 午後、聞き取り結果の整理会が開かれた。


 ルイスが読み上げる。


「一、子どもの証言にある“そっちはあとでいい”は、荷置き場整理役ベルノが薪運びへ出した指示の可能性あり。二、ただし、証言者が見た小型荷車と同指示が直接関連するかは未確認。三、小型荷車らしきものは複数証言あり。ただし所有者不明。四、片輪音は未申告荷車と類似可能性あり。ただし同一断定不可。五、北門近く荷置き場に未申告荷車が一時存在した可能性は残る。追加確認継続」


 長い。


 すっきりしない。


 だが、それが今日の正確な到達点だった。


 ディルクは地図を見ながら言った。


「次は荷置き場の物理確認だ。車輪跡はもう薄いが、土の採取はできる。未申告荷車の泥と北門側の土を比べる」


 ヨハンが言う。


「車輪音は、他の小型荷車も確認しましょう。似た音の荷車が町に何台もあるなら、証言の重さが変わります」


 豆売りの女主人が付け加える。


「子どもたちには、これ以上聞き回さない方がいいよ。大人が騒ぐと、話が育つ」


 マルタも頷いた。


「一度聞いた子どもには、しばらく静かにしていただいた方がよろしいかと」


 レティシアは頷いた。


「子どもへの追加聞き取りは、本人から申し出があった場合のみ。保護者同席。大人から話題を振らない」


 ルイスが書く。


 子ども証言保護:追加聞き取りは本人申出または新事実発生時のみ。保護者同席。大人から反復確認しない。証言変形防止。


 ロイエンは真剣な顔でその文を見た。


「これも王都へ送ります」


「子どもの証言保護を、ですか」


「必要です。王都では、証言を取る側が強すぎることがある」


 レティシアは少しだけロイエンを見た。


 彼は目を逸らさなかった。


「私も、以前なら急いで聞き出したと思います」


 その言葉は小さかったが、帳場に落ちるには十分だった。


 豆売りの女主人が、少しだけ表情を和らげた。


「自分の昔の悪さに札をつけられるなら、まだ見込みがあるよ」


「厳しい評価ですね」


「甘いくらいだ」


 その日の夕方、北門近く荷置き場の土が採取された。


 未申告荷車の車輪泥と比べるためである。


 土は三か所。


 北門石畳脇。

 荷置き場端。

 井戸場寄りの乾いた道。


 それぞれを小袋に入れ、札をつける。


 マルタが袋を見て言った。


「とうとう土にも札でございますね」


 ヨハンが肩をすくめた。


「次は風にも札がつきますよ」


 豆売りの女主人が笑う。


「風向きは大事だよ。噂も匂いも風で流れる」


 ルイスが筆を構えた。


 レティシアは、ほんの少しだけ考えた。


「……内部控えに」


「はい」


 ロイエンが小さく呟いた。


「王都へ持ち帰りたい内部控えが増えていく」


 夜、帳場の追記には、今日のすっきりしない結論がそのまま残された。


 レティシアは口述した。


 調査は、答えへ一直線に進むとは限らない。子どもが聞いた“あとでいい”は、ただの荷置き場の指示だったかもしれない。小型荷車の音も、似た荷車が他にあれば弱くなる。それでも無駄ではない。強すぎた線を弱めることも、調査の仕事である。疑いは濃くするだけではなく、薄めることもある。薄めた上でなお残るものが、次に見るべき線になる。


 ルイスは、ゆっくり筆を置いた。


 今日は、劇的な発見はなかった。


 犯人の名も出ていない。

 逃走者の顔もわからない。

 白蔦を描いた者にも届いていない。


 けれど、ひとつだけ進んだ。


 「そっちはあとでいい」という言葉が、罠かもしれない鋭い刃から、荷置き場の日常にもあり得る言葉へ戻された。


 完全に消えたわけではない。


 ただ、重さが測り直された。


 それもまた、紙に戻る者たちの仕事だった。

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