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『「君の役目は妹で足りる」と婚約破棄されたので辺境へ去りましたが、滅びかけた王国より先に私の領地が大陸最強になっていました』  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第148話 噂にも札をつける

王太子府に「噂由来情報」の札が導入された翌朝、書記官たちは妙に慎重になっていた。


 慎重というより、少し疑り深くなったと言った方が近い。


 誰かが廊下で「聞いた話ですが」と言えば、近くの者がちらりと見る。

 誰かが「どうやら北方で」と言えば、書記官の一人が咳払いをする。

 そして誰かが「白蔦会」と言いかけると、周囲の空気がほんの少し止まる。


 それはそれで息苦しい。


 だが、昨日までよりはましだった。


 昨日までは、噂が噂の顔をしていなかった。


 雑談のように入り込み、要約の中に紛れ、いつの間にか正式な表題へ化けそうになっていた。


 今日は違う。


 噂は、噂として捕まえられる。


 捕まえられるものは、まだ扱える。


 レムスは、補佐官室の端に置かれた新しい箱を見た。


 箱の札には、こうある。


 噂由来情報・未確認


 なんとも妙な箱だった。


 赤札でも青札でも白札でもない。

 だが、放置もできない紙を入れる箱。


 朝からすでに五枚の紙が入っている。


 一枚目。

 北方旧所領で白蔦会の証拠が出たという社交界の噂。


 二枚目。

 銀狐商会が取引停止寸前だったという商人街の噂。


 三枚目。

 王太子府が北方旧所領を見捨てたという、かなり悪意のある噂。


 四枚目。

 未申告荷車の逃走者が王都へ戻ったという、根拠不明の噂。


 五枚目。

 レティシアが銀狐商会を庇ったという、意味の取り方によっては危険な噂。


 レムスは五枚目で眉をひそめた。


「庇った、ではない」


 近くの書記官が顔を上げる。


「どうされました」


「北方旧所領は、正式荷と未申告荷車を分離した。結果として銀狐商会の正式荷も守られた。それを“庇った”と書くと意味が変わる」


「では、どう整理しますか」


「噂由来情報としては残す。評価欄に、“分離処理の結果を庇護と解釈した噂。正式報告とは異なる”と書く」


 書記官は頷き、筆を走らせた。


 レムスは、自分の口から自然に出た言葉に、ほんの少し苦笑した。


 分離処理の結果。

 庇護と解釈した噂。

 正式報告とは異なる。


 長い。


 けれど、長くしないと守れない。


 そんな言葉ばかり増えていく。


 エドガルが奥から出てきた。


「噂箱は」


「朝だけで五件です」


「多いな」


「多いですが、見える場所には来ています」


「見えない場所で増えるよりはましだ」


 エドガルは箱の中の紙を確認し、五枚目で手を止めた。


「銀狐商会を庇った、か」


「危険な言い方です」


「だが、出るだろうな」


「はい」


 エドガルは紙を置いた。


「この噂は銀狐商会にも飛ぶ。商会側が利用するかもしれないし、逆に敵対者が商会攻撃に使うかもしれない」


「では、銀狐商会への確認文に入れますか」


「入れる。ただし、“噂がある”とは書くな。“王都内において、北方旧所領の分離処理が銀狐商会保護と解釈される可能性あり。商会側発信では、正式荷と未申告荷車の分離を明確にすること”とする」


 レムスは書き留めながら、また少し思った。


 長い。


 でも、これが必要なのだ。


 王太子府の言葉は、日に日に長くなっている。


 ただし、以前のように飾るためではない。


 余計な意味を削るために、長くなっている。


 それは奇妙な変化だった。


 同じ頃、王妃宮では、エミリアが昨日の茶会記録をもう一度読み返していた。


 自分の字で書かれた記録。


 夫人の発言。

 自分の返答。

 場の空気。

 話題を戻したタイミング。

 リーナの補助。

 セラフィナの頷き。


 最後に、自分で書いた一文。


 噂は、聞いた瞬間に少し本当らしく見える。だから、名前をつける前に札をつける。噂。未確認。仮保全。正式情報。


 エミリアは、その一文を見て、頬が少し熱くなった。


 自分で書いたものなのに、少し大げさに見える。


 けれど、嘘ではなかった。


 昨日、夫人から「白蔦会の証拠」と言われた瞬間、彼女の中でも一瞬、それが本当らしく見えた。


 白蔦会。


 証拠。


 不穏。


 姉のいる北方旧所領。


 その言葉がつながった瞬間、胸が冷えた。


 でも、そこで止まれた。


 正式には違う、と言えた。


 それは、エミリアにとって小さな勝利だった。


 リーナが茶を置いた。


「お疲れではありませんか」


「少し」


 エミリアは正直に答えた。


「昨日の夜、なかなか眠れなかったわ。言い方が間違っていなかったか、何度も考えてしまって」


「間違っておりませんでした」


「でも、あの夫人、少し不満そうだった」


「噂を楽しめなくなりましたから」


 リーナの答えは、思ったより辛口だった。


 エミリアは目を丸くする。


「リーナ、たまに鋭いわね」


「侍女でございますので」


「侍女って、そんな仕事だったかしら」


「人の表情を読む仕事でもございます」


 エミリアは少し笑った。


 その笑いで、少しだけ肩の力が抜ける。


 そこへ、セラフィナが入ってきた。


「エミリア様、王妃陛下より本日の小集まりについてお話がございます」


「また茶会ですか」


「本日は茶会というより、昨日の件を受けた非公式の言葉合わせでございます」


「言葉合わせ……」


 エミリアは、その言葉に緊張した。


 セラフィナは穏やかに続ける。


「王妃宮に近い夫人方へ、正式な表現を共有します。エミリア様にも同席していただきます」


「私が?」


「はい。昨日、噂に札をつけた方ですから」


 エミリアは、膝の上で手を握った。


 昨日一度できた。


 だから今日もできる、とは限らない。


 むしろ昨日できたからこそ、今日失敗したらと思うと怖い。


 しかし、セラフィナはその不安を見抜いたように言った。


「本日は、お一人で受け止める場ではありません。王妃宮として言葉を揃える場です」


 エミリアは小さく頷いた。


「わかりました」


 王妃宮の小広間には、数名の夫人が集められていた。


 昨日の茶会にいた者もいれば、いなかった者もいる。


 中央の机には、一枚の紙が置かれていた。


 北方旧所領未申告荷車に関する表現整理


 王妃宮用に、かなり簡潔に整えられている。


 一、正式荷と未申告荷車は別。

 二、発見物は白蔦会証拠ではなく、白蔦状類似印を含む偽装疑い。

 三、未申告荷車は仮保全中。

 四、噂として聞いた情報は、噂として扱う。

 五、断定を避け、正式確認を待つ。


 エミリアはその紙を見た瞬間、少しだけ安心した。


 昨日、自分が長く言ったことが、短く整えられている。


 短いが、危険なほど短くはない。


 王妃が口を開いた。


「皆様にお願いがあります。北方旧所領の件について、王都ではすでにいくつもの言い方が生まれています」


 夫人たちは静かに聞いている。


「ですが、王妃宮としては、噂を広げるのではなく、噂に札をつけます。見たこと、聞いたこと、確認されたこと、まだ確認されていないこと。それらを混ぜないでください」


 一人の年配の夫人が、扇を伏せた。


「陛下、社交の場では、すべてを確定してから話すことなどできませんわ」


「ええ。ですから、話してはならないとは言いません」


 王妃は静かに答えた。


「話すなら、“噂として聞いた”と札をつけなさい。正式情報であるかのように扱わないことです」


 その夫人はしばらく黙り、それから頷いた。


「承知いたしました」


 別の夫人が言う。


「では、“白蔦会の証拠”という言い方は避けるべきなのですね」


 王妃はエミリアを見た。


 唐突ではなかった。


 これは、事前に決められていたのだろう。


 エミリアは少しだけ息を吸った。


「はい。現時点では、白蔦会の証拠ではなく、白蔦状類似印を含む偽装疑い、とするのが正確です」


 声は震えなかった。


「また、銀狐商会の正式荷と未申告荷車は分離されています。正式荷については記録に基づき確認済みで、未申告荷車は別に仮保全中です」


 夫人たちの目がエミリアに集まる。


 昨日よりも、彼女は少しだけ落ち着いていた。


 続ける。


「ですので、社交の場で話題にする場合は、“北方旧所領で未申告荷車が仮保全され、白蔦状類似印を含む物が確認中である”までに留めるのがよろしいかと存じます」


 長い。


 とても長い。


 けれど、誰も笑わなかった。


 むしろ、一人の夫人が感心したように言った。


「エミリア様、ずいぶん実務の言葉を覚えられましたのね」


 以前なら、その言葉には棘があるように感じたかもしれない。


 今も、少しはあった。


 けれど、エミリアは落ち着いて答えた。


「まだ覚えている途中です。ですから、間違えないよう長くなります」


 広間に、ほんの少しだけ柔らかな笑いが起きた。


 王妃が目元を和らげた。


 その答えはよい。


 完璧を装わず、学んでいる途中だと示した。


 それは、未熟さではなく、慎重さとして受け取られる。


 エミリアは、その空気を感じて少しだけ胸を撫で下ろした。


 小集まりの後、王妃はエミリアを呼び止めた。


「今の答えはよかったですね」


「本当ですか」


「ええ。“覚えている途中だから長くなる”。それは、社交では使える言い方です」


 エミリアは、少し恥ずかしそうに目を伏せた。


「本当に、途中なので」


「途中であることを隠さない方が、信頼される場面もあります」


 王妃は穏やかに言った。


「あなたは、姉君と同じものを書く必要はありません」


 エミリアの指がぴくりと動いた。


「同じものでは……ないのですか」


「ええ。レティシアは帳場で荷と記録を分けています。あなたは社交で言葉と空気を分ける。似ていますが、同じではありません」


「言葉と空気を……」


「あなたが見ているものも、実務です」


 その言葉は、エミリアの胸に静かに落ちた。


 自分は姉の代わりにはなれない。


 それはずっと、劣っているという意味に感じていた。


 でも、違うのかもしれない。


 姉とは違う場所で、違うものを見る。


 それでも実務になる。


 エミリアは小さく頷いた。


「今日の記録も書きます」


「ええ。書きなさい」


 その頃、王太子府ではアルベルトが噂由来情報の運用結果を読んでいた。


 王妃宮で言葉合わせが行われたこと。

 エミリアが正式表現を説明したこと。

 社交界の一部で「白蔦会証拠」という言い方が修正され始めたこと。


 アルベルトは、その報告をしばらく黙って読んだ。


「エミリアが、また説明したのか」


 エドガルが答える。


「はい。今回は王妃宮の小集まりで、正式表現の共有に参加されました」


「長い言葉を?」


「長いですが、正確です」


 アルベルトは少しだけ口元を歪めた。


 笑った、というほどではない。


 だが、不快ではなかった。


「俺なら途中で嫌になる」


「殿下は、別の言い方をなされるでしょう」


「どういう意味だ」


「いえ」


 エドガルは余計なことを言わなかった。


 アルベルトは紙を置いた。


「エミリアの役割は、そこにあるのかもしれないな」


「社交での情報整理、でございますか」


「そうだ。あれは……人の顔を見る」


 少し言いにくそうな声だった。


「俺は紙を見る。お前は行間を見る。エミリアは、人の顔を見る」


 エドガルは、静かに頭を下げた。


「よい整理かと」


「褒めるな」


「失礼いたしました」


 アルベルトは不機嫌そうにしたが、紙をもう一度見た。


 エミリアが、自分の場所を見つけ始めている。


 それは王太子府にとって悪くない。


 いや、必要なことかもしれない。


 彼女をレティシアの代わりとして置くのではなく、エミリアとして使う。


 その考えが、ようやく少しだけ形になり始めていた。


 北方旧所領には、その日の夕方に王妃宮の小集まりの報告が届いた。


 ルイスが読み上げる。


「王妃宮にて、北方旧所領未申告荷車に関する表現整理を共有。エミリア様、白蔦会証拠ではなく白蔦状類似印を含む偽装疑いと説明。正式荷と未申告荷車の分離についても説明……」


 ガレスが素直に感心した。


「エミリア様、すごいですね。王都の夫人たちに説明するなんて」


 ヨハンが真顔で言う。


「俺、荷車三台の前の方がましです」


 豆売りの女主人が頷いた。


「夫人たち相手は荷車十台より怖いよ」


 マルタが静かに言う。


「茶器を持ったまま戦うようなものでございます」


 ルイスが思わず筆を構えかけた。


 レティシアは少しだけ笑った。


「それは内部控えに」


「はい」


 ロイエンが言った。


「エミリア様は、王都で噂に札をつける役割を担い始めています」


 レティシアは報告書を見ていた。


 妹の名がある。


 白蔦状類似印。

 偽装疑い。

 正式荷と未申告荷車の分離。


 あのエミリアが、長い言葉を使っている。


 間違えないために、長くなる。


 その姿を想像して、レティシアはほんの少しだけ目元を緩めた。


「無理をしていなければいいけれど」


 小さな声だった。


 ルイスは聞こえたが、また記録しなかった。


 その代わり、別の紙に今日の北方側の聞き取り結果をまとめた。


 北門近く荷置き場の子どもの証言は、保護者同席で再確認された。


 小型荷車らしきものを見た。

 ただし、布がかかっていたかは覚えていない。

 引いていた人の顔は見ていない。

 時刻は、井戸場で二度目の水汲みがあった頃。


 曖昧だ。


 だが、無視はできない。


 ルイスは丁寧に書いた。


 未確認証言。北門近く荷置き場に小型荷車らしきもの。時刻推定、朝二刻後から三刻前。顔不明。布有無不明。追加確認継続。


 ガレスはそれを見て言った。


「噂にも札、証言にも札……」


 豆売りの女主人が答える。


「何でも札にすりゃいいってもんじゃないけどね」


「でも、札がないと混ざります」


「そう。だから札をつける。つけたら、ちゃんと剥がす時も決めな」


 レティシアが頷いた。


「重要です。未確認情報は、確認済みになった時、否定された時、期限切れになった時に札を外す。外し方も決めましょう」


 ルイスがすぐに書く。


 未確認札の解除条件。

 一、確認済みとなった場合。

 二、否定された場合。

 三、一定期間追加情報がなく、参考情報へ移す場合。

 四、噂としてのみ残す場合。


 ガレスが小さく呻いた。


「札の外し方まで……」


 ヨハンが笑う。


「札が増えすぎると蔦みたいに絡まるからな」


 全員が一瞬固まった。


 ヨハンは慌てた。


「あ、いや、その蔦は別に」


 豆売りの女主人が呆れた顔をする。


「あんたはもう少し札をつけて喋りな」


 場に小さな笑いが起きた。


 笑えるだけ、少しずつ空気は戻っていた。


 夜、エミリアは王妃宮の自室で記録を書いていた。


 今日の小集まり。

 夫人の質問。

 自分の返答。

 王妃の助言。

 「覚えている途中だから長くなる」という自分の言葉。


 最後に、彼女は少し迷ってから、こう書いた。


 お姉様の紙は、遠い場所のものだと思っていた。けれど、今日、少しだけわかった気がする。怖い名前に飛びつかないためには、長い言葉が必要になる。私はお姉様と同じ帳場には立てない。でも、茶会の机にも、小さな帳場は作れるのかもしれない。


 書き終えた後、エミリアはしばらくその文を見つめた。


 姉に見せるためのものではない。


 誰かに褒めてもらうためでもない。


 自分が忘れないための紙。


 彼女はそれをそっと閉じ、引き出しにしまった。


 同じ夜、北方旧所領の帳場でも追記が書かれていた。


 レティシアは、王都から届いたエミリアの報告写しと、北門近くの未確認証言を並べて見ていた。


 噂。

 証言。

 正式情報。

 未確認。

 仮保全。


 どれも似ている。


 似ているから、混ざる。


 混ざるから、札がいる。


 彼女は口述した。


 札は、貼れば終わりではない。未確認と貼ったものは、いつか確認済みになるか、否定されるか、噂として残るか、静かに棚へ移る。札をつけることは、物事を止めることではない。次にどう動かすかを忘れないための印である。噂にも、証言にも、人の恐れにも、いったん札をつける。そして、外す時を待つ。


 ルイスは、静かに書き終えた。


 外では、井戸場の札が夜風に揺れている。


 王都では、エミリアが自分の記録をしまっている。


 まだ何も解決していない。


 未申告荷車の主も、逃げた男も、白蔦を描いた者も見つかっていない。


 けれど、噂は少しだけ遅くなった。


 札をつけられた荷車のように、勝手には走れなくなっていた。

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