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『「君の役目は妹で足りる」と婚約破棄されたので辺境へ去りましたが、滅びかけた王国より先に私の領地が大陸最強になっていました』  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一


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第134話 補強された板と、まだ見えない罠

 中継小屋の南側に敷かれた仮板は、朝露を吸って少し黒ずんでいた。


 銀狐商会の下見の時、荷台確認係が「踏んでもいいか」と尋ね、ガレスが反射的に「追加確認をお願いします」と言った、あの板である。


 その時は笑いも起きた。


 だが、今朝は誰も笑っていなかった。


 鍛冶屋の親方が腰をかがめ、板の端を持ち上げる。


「……こりゃ、思ったより下が悪いな」


 板の下には、湿った土があった。


 表面だけなら乾いているように見える。けれど、少し掘ると中は柔らかく、指で押せば沈む。雨水が逃げきらず、荷の重さを受けた時にじわりと沈むような土だった。


 ガレスは、それを見て顔を青くした。


「これ……本取引の前日に見つかってたら」


「前日なら、徹夜だな」


 ヨハンが軽い調子で言ったが、その声もいつもより硬かった。


 鍛冶屋の親方は、板の裏側を叩きながら鼻を鳴らす。


「徹夜で済めばいい。湿った土に重い鉱石を載せた荷台が乗ったら、板ごと傾く。傾いたら荷がずれる。荷がずれたら人が押す。人が押したら足を取られる。そういうもんだ」


 ガレスはごくりと唾を飲んだ。


 板一枚。


 そう思っていた。


 でも、板一枚の下に、こんなに柔らかい地面が隠れていた。


 豆売りの女主人が、露店の準備を少し遅らせて見に来ていた。腕を組んだまま、にやりともせずに言う。


「“次回でいい”ってやつは、地面の中までは見てくれないからね」


 ガレスは何も言えなかった。


 自分が止めた。


 止めなければ、これは見えなかった。


 その事実が、誇らしいよりも怖かった。


 もし自分があの時、「じゃあ次回で」と流していたら。


 もし商会の人に遠慮していたら。


 もし、また面倒なことを言っていると思われるのが嫌で黙っていたら。


 レティシアは、少し離れた場所でその土を見ていた。横にはルイスが記録板を持って立っている。


「ルイス、記録を」


「はい」


 ルイスはすでに筆を構えていた。


「仮板下部、想定以上に土壌軟化。雨水滞留あり。前日補強では不具合発見時の対応困難。ガレスの即時確認により、荷崩れリスクを事前発見……でよろしいでしょうか」


「ええ。加えて、雨水が流れる溝を作ること。支え木を入れること。補強後、晴天時と雨天後に再確認」


「はい」


 ガレスが小さく手を上げた。


「あの……俺の名前、入りますか」


 ルイスが顔を上げる。


「提案者名として入ります」


「いえ、別に手柄みたいにしたいわけじゃ」


 ヨハンが笑った。


「じゃあ“ガレスが怖がって止めた”って書いてもらうか」


「やめてください!」


 豆売りの女主人がふっと笑う。


「怖がって止めたなら、なおさらいいじゃないか。怖いってのは、たまに役に立つんだよ」


 ガレスは返事に困って、泥のついた板を見つめた。


 怖い。


 確かに怖かった。


 商会の人に嫌な顔をされるのも、帳場の仕事を増やすのも、自分の判断が間違っているかもしれないのも、全部怖かった。


 でも、怖いまま止めた。


 その結果、板の下の柔らかい土が見えた。


「……俺、止めてよかったんですかね」


 思わず漏れた言葉だった。


 ヨハンは、今度は茶化さなかった。


「よかったんじゃなくて、止めなかったら俺たち全員、今日よりもっと青ざめてたな」


 鍛冶屋の親方が板を担ぎ上げながら言う。


「荷車屋も、荷運びも、商会の連中もな。こういうのは事故ってから偉そうに原因を探すより、事故る前に地面を掘る方がいい」


「地面を掘る……」


「そうだ。紙ばっかり掘っても土は乾かねえからな」


 親方の言葉に、ルイスが一瞬だけ筆を止めた。


 書くべきか迷っている顔だった。


 レティシアは少しだけ微笑んだ。


「内部控えに」


「はい」


 ルイスは真面目に頷いた。


 補強作業はすぐに始まった。


 鍛冶屋の親方が支え用の金具を調整し、ヨハンとガレスが支え木を運ぶ。ディルクの兵が二人、周囲の動線を確保した。


 柔らかい土を少し掘り、雨水が流れるよう浅い溝を作る。


 支え木を横に渡す。


 その上に板を戻し、端を金具で留める。


 さらに油壺棚と薪置き場へ人が流れないよう、縄の位置も少し変えた。


 作業そのものは地味だった。


 誰かが大声を出すわけでもない。

 剣を抜くわけでもない。

 陰謀が暴かれるわけでもない。


 ただ、板を外し、土を見て、木を渡し、金具を締める。


 けれどレティシアは、その地味な作業をじっと見ていた。


 こういうものが、町を守る。


 華やかな命令ではない。


 誰かの勇敢な演説でもない。


 「ここ、少し危ないかもしれません」と言えること。


 それを、面倒だと笑わず、机へ戻せること。


 そして、実際に手を動かして直すこと。


 ルイスが横で小さく言った。


「記録にすると、すごく地味ですね」


「地味でいいのよ」


「いいんですか」


「事故防止の記録は、後から読んで退屈なくらいがいいわ」


 ルイスは少し考え、それから頷いた。


「退屈で済んだ証拠、ですか」


「ええ」


 作業が一段落した頃、ロイエン連絡官が中継小屋へやって来た。


 王太子府側の記録官を連れている。


 彼は補強された板と、掘られた溝、追加された支え木を順に見た。


「なるほど。これは、前日では危なかったですね」


 ガレスが少し身構える。


 ロイエンは彼を見た。


「ガレス殿の即時確認は、適切でした」


「……ありがとうございます」


「礼を言うのはこちらかもしれません。王太子府の連絡官として、事故が起きてから報告するより、事故前に確認できた方がよほどよい」


 ガレスは返事に詰まった。


 ロイエンに褒められるのは、まだ慣れない。


 というより、少し怖い。


 ロイエンはそれを察したのか、淡く笑っただけで、それ以上は言わなかった。


 彼はルイスに向き直る。


「王太子府向け所見に、この件を入れます」


「お願いします」


 ロイエンは記録官に口述した。


「現地担当者の違和感を即時確認へ引き上げる運用は、事故防止に実効性あり。仮板補強について、事前確認により土壌軟化および雨水滞留を発見。本取引前日確認では対応困難であった可能性が高い。分類補足“次回が本番直前となるものは即時確認”は妥当」


 ルイスは、自分の記録と照合しながら聞いていた。


 王都の言葉になっている。


 でも、内容は中継小屋の泥の話だ。


 それが少し不思議だった。


 ロイエンは口述を終えると、補強された板の上に片足を乗せた。


 板は沈まなかった。


 ガレスも、おそるおそる片足を乗せる。


 沈まない。


 もう片方の足も乗せる。


 板は、今度はしっかりと重さを受け止めた。


 ヨハンが笑う。


「どうだ、呼び鈴係長」


「その役職やめてください」


「でも、板は沈まなかったぞ」


「それは……よかったです」


 ガレスは、少しだけ笑った。


 その笑いは、安心と照れが混じったものだった。


 だが、ディルクだけは笑っていなかった。


 彼は補強された板から少し離れた場所で、地面を見ていた。


 中継小屋の南側から、旧代官所の裏手へ向かう細い草地。


 普段、人が通らない場所だ。


 そこに、浅い轍があった。


 雨上がりの泥に残った跡ではない。


 少し古い。


 だが、完全に消えてもいない。


 ディルクはしゃがみ込み、指で土をなぞった。


「ヨハン」


「はい?」


「これを見ろ」


 ヨハンが近づく。


 ガレスも不安そうについていった。


 ヨハンは轍を見て、顔つきを変えた。


「……うちの荷車じゃないですね」


 空気が変わった。


 レティシアが歩み寄る。


「わかるの?」


「幅が違います。うちの中継用の荷車より少し狭い。あと、車輪の縁が薄い。古い型か、軽い荷車です」


「銀狐商会の下見隊は?」


 ルイスが聞く。


 ヨハンは首を横に振った。


「下見隊の荷車とも違うと思います。あれはもっと車輪が太かった」


 ディルクは轍の向きを見る。


 中継小屋の裏手をかすめるようにして、旧代官所の裏側へ続いている。


 今は使われていないはずの方角だった。


「この道は、普段使うか」


 ディルクの問いに、ガレスは首を振った。


「使いません。草が多いし、荷車なら北側から回った方が楽です」


「では、なぜ轍がある」


 誰も答えなかった。


 ロイエンの表情からも笑みが消えていた。


 ルイスは反射的に記録板を握り直す。


 レティシアは、轍から旧代官所の方角を見た。


 旧代官所裏。


 かつて荷の出入りに使われていた古い搬入口がある場所。


 今は閉鎖している。


 閉鎖しているはずだった。


「即時確認」


 レティシアは静かに言った。


 ルイスはすぐに書いた。


 追加確認あり。分類、即時確認。

 中継小屋南側草地に未記録荷車と思われる轍を発見。中継用荷車および銀狐商会下見隊荷車とは幅が異なる可能性。旧代官所裏搬入口方向へ続く。警備・荷・旧搬入口に関わるため即時確認。


 ガレスの顔がさらに青くなった。


「俺……こんなの見てませんでした」


 レティシアは彼を見た。


「今日見つかったわ」


「でも、もっと早く見ていれば」


「見ていなかった場所が見つかったなら、今日から見る場所にすればいいだけよ」


 ガレスは唇を結んだ。


 責められていない。


 それがわかるから、余計に胸が詰まった。


 ディルクは兵に指示を出した。


「旧代官所裏へ二名。足跡を踏むな。轍の両側を見ろ。誰も近づけるな」


「はっ」


「ヨハン、轍の幅を測れるか」


「できます。棒を持ってきます」


「ルイス、北門記録を確認。ここ数日の未申告荷車の有無」


「はい」


「ロイエン副使」


 ディルクがロイエンを見る。


「王太子府側記録にも残していただきたい」


「もちろんです」


 ロイエンの声も硬かった。


「ただし、現時点では未記録荷車の可能性、ですね」


 レティシアが頷く。


「断定しません」


「承知しました」


 ロイエンは記録官へ短く言った。


「表題は“中継小屋南側轍に関する即時確認”。未申告荷車とは断定しない」


 ルイスはそれを聞き、少しだけロイエンを見た。


 断定しない。


 ロイエンが、こちらより早くその言葉を選んだ。


 中継小屋の火が、昼風に揺れている。


 少し前まで、補強された板を見て安堵していた。


 だが、板の下の柔らかい土を見つけたことで、その先の轍も見えた。


 ひとつ確認すれば、次の見えない場所が出てくる。


 それは、安心と不安が同じ紙に並ぶような感覚だった。


 午後には、轍の幅が測られた。


 ヨハンの見立て通り、中継用の荷車より細い。

 銀狐商会下見隊の荷車とも違う。


 北門記録には、該当する荷車の出入りはない。


 ディルクの兵が旧代官所裏を調べたところ、閉鎖したはずの簡易柵がわずかにずれていた。


 完全に開いてはいない。


 だが、小型の荷車なら通れなくはない隙間。


 ルイスは、記録しながら顔を強張らせた。


「記録漏れ、旧道からの無断侵入、敷地内荷車の移動……可能性は三つ、でしょうか」


「ええ」


 レティシアは答えた。


「まだ決めません」


 ディルクが戻ってきた。


 手には、小さな木片があった。


 古く、端が割れている。


 どこかの荷箱の一部のようにも見える。


「旧搬入口の近くに落ちていました」


 ルイスが息を呑む。


 木片の端には、焼け焦げたような印があった。


 はっきりとは見えない。


 だが、白い蔦を思わせる曲線が残っている。


 豆売りの女主人が、低い声で言った。


「……また、嫌なものが出たね」


 ガレスは完全に青ざめていた。


 ロイエンは、木片に手を触れず、じっと見つめる。


「白蔦会、と断定するには早い」


「ええ」


 レティシアは静かに言った。


「白蔦に似た焼き印のある木片。現時点では、それだけです」


「仮保全ですか」


 ロイエンが問う。


 レティシアは頷いた。


「仮保全にします」


 ルイスはすぐに新しい紙を出した。


 旧搬入口付近発見物に関する仮保全記録。

 発見物、古木片一片。

 状態、端部破損、焼け跡あり。白蔦状曲線に類似する印あり。ただし白蔦会関連物とは断定しない。

 発見場所、旧代官所裏搬入口付近。

 発見者、ディルク配下兵。

 立会人、ディルク、レティシア、ルイス、ロイエン。

 扱い、仮保全。王立書庫照合依頼予定。


 ディルクは木片を布の上に置いた。


 誰も素手では触れない。


 少し前なら、ただの古い木片として拾われ、どこかへ置かれていたかもしれない。


 あるいは逆に、「白蔦会の証拠だ」と大騒ぎになっていたかもしれない。


 今は、そのどちらでもない。


 仮保全。


 決めつけないために、保つ。


 ロイエンはその言葉を、もう一度心の中で繰り返した。


 夕暮れが近づく頃、帳場では一日の記録がまとめられた。


 仮板補強。

 土壌軟化と雨水滞留の発見。

 ガレスの即時確認の有効性。

 補強後の確認。

 中継小屋南側の轍発見。

 旧搬入口簡易柵のずれ。

 白蔦状曲線に類似する焼き印のある木片の仮保全。


 ルイスは、書き終えてから顔を上げた。


「追記をお願いします」


 レティシアは、しばらく黙っていた。


 中継小屋の方角には、暮れかけた空の下で火が揺れている。


 今日、板は沈まないようになった。


 それは良いことだ。


 でも、その先で轍が見つかった。


 木片も出た。


 問題を一つ直すと、隠れていた別のものが顔を出す。


 それでも、直さなければ見つからなかった。


 レティシアはゆっくり口述した。


 一つの板を直しただけの日だったはずが、その下の土を見て、さらに先の轍を見ることになった。確認とは、安心だけを連れてくるものではない。時に、新しい不安を連れてくる。それでも、見えないまま進むよりはよい。沈まない板を作ることと、知らない轍を見つけることは、同じ日の仕事である。


 ルイスは、静かに書いた。


 外では、ガレスが補強された板をもう一度確かめていた。


 板は沈まない。


 だが、その先の草地には、まだ轍が残っている。


 北方旧所領は、また一つ見なければならない場所を増やした。

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