第106話 王妃、静かに聞く
王妃エレオノーラは、噂を急いで拾う人ではなかった。
急いで拾った噂は、たいてい誰かの手の熱を残している。
誰かが燃やしたい方向へ、まだ火先が向いている。
だから彼女は、噂を聞く時ほど静かにしていた。
王妃宮の小広間では、その日も午後の茶が用意されていた。
白磁の茶器。
銀の匙。
薄く焼いた菓子。
窓辺には淡い紫の花。
王都の貴婦人たちは、そこで季節の衣装や慈善市の話をしながら、まるで偶然のように新しい噂を置いていく。
エレオノーラは、その様子を微笑みながら聞いていた。
「北方旧所領の件、王妃陛下はお聞き及びでいらっしゃいますか」
最初にそう切り出したのは、ローゼン侯爵夫人だった。
年配の夫人で、社交界では穏健派と見られている。
だが穏健派というのは、何も考えていない者のことではない。むしろ、空気の変化を慎重に読み、危ない橋を渡らずに影響力を保つ者のことだ。
エレオノーラは、茶器を置いた。
「監査が行われたことは聞いています」
「ええ。レティシア様が、ずいぶんご立派に対応されたとか」
褒め言葉の形だった。
だが、そこで終わる話なら、そもそもこの場に持ち出されない。
エレオノーラは静かに続きを待った。
別の伯爵夫人が扇を少し傾ける。
「ただ……辺境で帳場を開き、民に不満を言わせているという話もございますでしょう」
「不満を」
エレオノーラは、言葉だけを返した。
「ええ。食料の配分、荷車屋の仕事、夜番の負担まで、民の前で話すそうです」
「王太子府の監査使にも、閲覧記録への署名を求めたとか」
「まあ、レティシア様は昔から実務にお強い方でしたけれど……あまりに強く出られると、周囲が心配いたしますわね」
心配。
その言葉は、王都社交界でよく使われる。
気遣いにもなる。
非難にもなる。
そして時には、相手を傷つけるための最も上品な刃にもなる。
エレオノーラは表情を変えなかった。
「皆さまは、どの点を心配しておられるのですか」
その問いに、夫人たちは一瞬だけ静まった。
王妃は怒っていない。
声も柔らかい。
だが、曖昧な噂は、具体的に問われると弱い。
ローゼン侯爵夫人が、慎重に答えた。
「民に不満を言わせることは、時に統治を難しくいたします。特に辺境では、領主の権威が揺らぐこともございましょう」
「領主の権威」
「はい。レティシア様はお若く、しかも……その、王太子殿下との件もございましたでしょう。だからこそ、もう少し柔らかく治められた方が」
別の夫人が続ける。
「女が帳場を握りすぎると、領地が家ではなく役所になる、と申しますか」
エレオノーラは、そこでわずかに目を伏せた。
役所。
その言葉を悪いものとして使う人間は、たいてい役所が何を支えているかを知らない。
食料の配分。
夜番の負担。
荷車の順番。
火災後の油の保管。
そうしたものが崩れた時、真っ先に困るのは民である。
けれど王都の茶会では、油壺は燃えない。
薪置き場は焦げない。
借金に追われた若者が、証拠棚の封印を剥がそうとすることもない。
だから、帳場は冷たいものに見えるのだろう。
「なるほど」
エレオノーラは、ただそれだけを言った。
夫人たちは、それ以上踏み込まなかった。
王妃が乗ってこない話題は、深追いしない方がよい。
それもまた、社交界の知恵だった。
茶会が終わるまで、エレオノーラは北方旧所領の話を自分からは出さなかった。
ただ聞いた。
誰が、どの言葉を使うか。
どこで扇が止まるか。
誰が不安そうに頷き、誰が面白がっているか。
それを静かに見ていた。
茶会の後、王妃宮の奥の書斎へ戻ると、エレオノーラは側近のセラフィナを呼んだ。
「北方旧所領監査の所見を取り寄せてください」
セラフィナは一礼した。
「王太子府からでございますか」
「王太子府、監査局、王立書庫。三方から」
セラフィナの眉が、ほんの少し動いた。
「三方から、でございますね」
「同じ紙が、同じ形で届くか確認します」
「承知いたしました」
「それから、社交界で流れている噂の出所を静かに追ってください。急がなくて結構です。誰が最初に“民に不満を言わせる”という表現を使ったか、知りたいわ」
「かしこまりました」
セラフィナが下がると、エレオノーラは窓辺に立った。
王妃宮からは、王城の中庭が見える。
よく整えられた庭。
刈り込まれた緑。
季節に合わせて植え替えられる花。
どれも美しい。
けれど、美しさだけで宮は回らない。
裏には、庭師の手配、花の仕入れ、支払い、下働きの交代、雨の日の補修、道具の保管がある。
華やかな宮ほど、見えない帳場を必要とする。
そのことを、王妃は知っていた。
しばらくして、最初の写しが届いた。
王太子府補佐官室からの要約紙。
エレオノーラは、それを開いてすぐに眉を動かした。
辺境側手順への過度な同調。
王太子府権限の相対化懸念。
帳場を中心とする現地支配体制。
言葉が強い。
強すぎる。
要約とは、本文を短くするものだ。
だがこれは、本文へ色を塗る紙である。
エレオノーラは、何も言わずに次の紙を待った。
監査局から届いた写しは、ずっと乾いた文面だった。
不備は多い。
改善事項も多い。
報告遅延は重大。
証拠保全に初期不備あり。
だが、横領、不正癒着、反抗的独立運営は断定できない。
白蔦会関連は継続調査。
証人保護は妥当。
町代表者の不満は存在するが、帳場が不満申告先として機能している。
エレオノーラは、そこまで読み、ゆっくりと椅子に背を預けた。
「ずいぶん違うものですね」
横に控えていたセラフィナが言った。
「補佐官室の要約とは印象が大きく異なります」
「要約紙は、所見を読む前に心を決めさせる紙です」
エレオノーラは静かに言った。
「誰が作ったのか確認を」
「はい」
次に王立書庫から届いた照合用控えが置かれた。
そこには、フェルナー監査官の所見本文だけでなく、いくつかの補足が含まれていた。
封箱受領記録。
ロイエン副使の異論所見。
補佐官室要約紙。
連絡官案への赤入れ。
町代表者聞き取り記録の抜粋。
そして、その抜粋の末尾に、小さく引用されている一文があった。
不満があることは、裏切りではない。不満を言える場所があることは、領地がまだ生きている証である。沈黙だけの忠誠より、記録に残る不満の方が、町を前へ進めることがある。
エレオノーラの指が、その一文の上で止まった。
しばらく、部屋には紙の擦れる音もしなかった。
セラフィナが静かに問う。
「王妃陛下?」
エレオノーラは、目を細めた。
「これは、誰の言葉ですか」
「北方旧所領帳場の追記として記録されております。おそらく、レティシア様の口述かと」
「……そう」
エレオノーラは、もう一度読んだ。
不満があることは、裏切りではない。
王宮では、この当たり前がよく忘れられる。
下の者が不満を言えば、忠誠が足りないと見られる。
女官が疲れを訴えれば、覚悟が足りないと言われる。
地方貴族が困窮を訴えれば、管理が悪いと切り捨てられる。
商人が不安を示せば、利益しか見ていないと笑われる。
けれど、不満は火種である。
隠せば、床下で燃える。
聞けば、暖炉へ移せる。
エレオノーラは、そのことを経験で知っていた。
若い頃、王妃になったばかりの頃。
宮の女官たちが次々に倒れたことがあった。
表向きには季節病とされた。
だが実際は、儀典準備の負担が偏り、若い女官たちが睡眠を削っていたためだった。
誰も不満を言えなかった。
上役に逆らうことになるから。
王妃の晴れ舞台に水を差すことになるから。
結果として、式典当日に二人が倒れた。
その時、エレオノーラは学んだ。
沈黙は、忠誠とは限らない。
時に、ただ逃げ場がないだけだ。
「セラフィナ」
「はい」
「北方旧所領の町代表者聞き取り記録を、全文取り寄せてください」
「全文でございますね」
「ええ。抜粋ではなく」
「承知いたしました」
「それから、王太子府連絡官案の最新版も」
「はい」
「ロイエン副使が候補と聞いています。監査中の非公式接触記録も添えて」
セラフィナは、少しだけ目を伏せた。
「陛下、かなり踏み込まれますね」
「踏み込むつもりはありません」
エレオノーラは紙を閉じた。
「ただ、読まずに語る者が多すぎるようなので、読みます」
その声は穏やかだった。
だが、セラフィナは長年の経験で知っている。
王妃がこの声になる時は、すでに何かを決めている。
夕刻、アルベルトの執務室へ王妃宮から一枚の紙が届けられた。
それは命令ではない。
付箋に近い、短い文だった。
しかし、王妃の筆跡で書かれている。
アルベルトは、その紙を見て眉をひそめた。
北方旧所領の監査所見および町代表者聞き取り記録を読みました。民の不満を聞く者を、民を煽る者と呼ぶ前に、あなたは自分の府の不満を聞いていますか。
アルベルトは、しばらくその紙を見つめた。
「母上は……何を」
隣にいたエドガルが、静かに視線を落とした。
来たか。
思ったより早い。
エレオノーラが所見を読むことは想定していた。
だが、彼女は単に読むだけでは済ませなかった。
アルベルトへ直接、問いを返した。
しかも、最も痛いところへ。
王太子府の不満。
アルベルトは、それを聞いているのか。
エドガルは、慎重に言葉を選んだ。
「王妃陛下は、北方旧所領の帳場運営に一定の理解を示されたのかもしれません」
「理解?」
アルベルトの声が低くなる。
「母上まで、レティシアを評価するのか」
「そう断じるには早いかと」
「だが、この文はそういう意味だろう」
アルベルトは紙を机に置いた。
置いたというより、押しつけた。
「民の不満を聞く者を、民を煽る者と呼ぶ前に……」
彼は苦々しく読み上げる。
「まるで俺が、何も聞いていないようではないか」
エドガルは答えなかった。
実際、聞いていない。
少なくとも、王太子府の下の者たちの不満を、アルベルトが自分から聞いたことはほとんどない。
執務の遅れ。
返礼の滞り。
女官の疲労。
補佐官室内部の派閥。
エミリアの失敗を誰が補っているのか。
それらは、アルベルトの耳へ届く前に誰かが処理していた。
かつては、その誰かがレティシアだった。
今は、処理しきれずに軋みが出ている。
アルベルトは、その軋みを不快に思っている。
だが、不満として聞いてはいない。
エドガルは、それを口には出さなかった。
「殿下。王妃陛下は、王太子府の体制改善を促されているのかもしれません」
「北方旧所領の話だったはずだ」
「辺境の件が、王太子府内の体制へつながったのでしょう」
「なぜだ」
アルベルトの声に、子どものような苛立ちが混ざった。
「なぜ、レティシアの話をすると、皆が俺に何かを問い返してくる」
エドガルは、ゆっくり頭を下げた。
「それだけ、レティシア様の件が多くの問題と関わっているということでしょう」
アルベルトは紙を睨んだ。
王妃の一文。
短い。
だが、監査所見よりも、ロイエンの異論所見よりも、彼の胸を刺した。
あなたは自分の府の不満を聞いていますか。
聞いているつもりだった。
いや、正確には、聞く必要がないと思っていた。
王太子府は、自分の府だ。
補佐官が整え、書記官が動き、侍従が支え、女官が準備する。
不満があれば、それぞれの上役が処理する。
王太子がいちいち聞くことではない。
そう思っていた。
だが、レティシアは辺境で聞いているらしい。
豆売りの不満。
荷車屋の不満。
夜番の不満。
油壺記録が面倒だという不満まで。
それを母は、統治の初歩だと見たのか。
「エドガル」
「はい」
「王太子府内の不満を調べろ」
エドガルの指が、わずかに止まった。
「どの範囲でございますか」
「全部だ」
「全部、でございますか」
「補佐官、書記官、侍従、女官。どこで何が詰まっているのか。母上に、俺が何も聞いていないと思われたままでいるのは不快だ」
エドガルは、ゆっくり頭を下げた。
「承知しました」
だが内心では、冷たい計算が走っていた。
これは危険だ。
王太子府内の不満を掘れば、必ず出る。
エミリアの実務不足。
レティシア不在後の負担増。
補佐官室の偏り。
エドガル自身の采配への不満。
下手をすれば、火が自分の足元へ回る。
しかし、断れない。
王妃の付箋が、アルベルトを動かしたのだ。
エドガルは、表情を変えずに言った。
「では、まず内部聞き取りの形式を整えます」
「形式?」
「無記名にするか、部署別にするか。誰が聞き取るか。記録をどこまで残すか。慎重に決めなければ、かえって混乱します」
アルベルトは、不機嫌そうに言った。
「また記録か」
「不満を聞く以上、記録なしでは後で揉めます」
エドガルは、自分で言っていて皮肉を感じた。
レティシアが辺境でしていることを、王太子府でもせざるを得なくなっている。
紙の外で火をつけたはずが、火は王太子府の内側へも回り始めた。
同じ頃、王妃宮では、エレオノーラが町代表者聞き取り記録の全文を読んでいた。
豆売りの利益不安。
荷車屋の支払い不満。
ガレスの「役はない方が楽」という発言。
鍛冶屋の「紙が多い」という不満。
井戸番の夜番負担。
エレオノーラは、そこで初めて小さく笑った。
「飾っていませんね」
セラフィナも頷く。
「忠誠を美化した記録ではありません」
「だから信用できます」
王妃は紙を閉じた。
「これは扇動ではありません。統治の初歩です」
その言葉は、茶会のどの噂よりも静かだった。
しかし、王妃がそう判断したという事実は、王都の空気を少しずつ変えていく。
北方旧所領の帳場は、遠い辺境の小さな部屋にすぎない。
けれど、そこで書かれた不満の記録は、ついに王妃の机へ届いた。
そして王妃は、それをただの噂としてではなく、統治の紙として読んだ。




