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幻日を巡る四季

作者: Ono

 ――冬


 劇団『幻日(げんじつ)』の稽古場は古いビルの三階にあった。冬の底冷えがコンクリートの床から這い上がってくる。

 古びた倉庫を改装したその場所は、暖房器具が唸りを上げているのにどこかひんやりとしている。

 その冷たさは心地よい緊張感となって体を刺激した。


 スカウトされて偶然出演することになった映画の撮影現場で玄野夏雄に誘われるという奇跡が起き、右も左も分からぬままに飛び込んだ演劇の世界。

 俺は台本を片手に、稽古場の隅で呼吸を整えていた。そこに一人の男が近づいてきた。

「『天塚(あまつか)志季(しき)』って、本名なの?」

 穏やかな雰囲気の青年だった。手にはバインダーと、使い古されたストップウォッチ。確か、劇団の何でも屋のようなポジションのスタッフだ。始めに稽古場を案内してくれたのも彼だった。

「……ああ」

 愛想笑いの一つも浮かべられない自分に苛立つ。玄野夏雄は「それも役者としての個性になる」と言っていたが、人として明らかな短所だ。


 彼は俺の素っ気ない態度を気にする風もなく、ふわりと笑った。

「いいね、華があって覚えやすくて、すごく役者向きだ」

「……どう、も」

 容姿を褒められたことはある。演技の勘が良いとも言われた。だが、名前という自分ではどうしようもない部分、そして存在そのものを肯定するような言葉をかけられたのは初めてだった。

「俺もそこそこ印象的な名前なんだけどね。なんて名前だと思う?」

 無理だろ。

「ヒントは女の子と間違われることがある」

 いや、無理だって。

「……(つかさ)、とか?」

 完全に彼の手にあるバインダーで司書を連想してしまっていた。


 俺の答えになぜか嬉しそうに、彼は「はずれ~」と笑う。

「正解は玄野(くろの)深雪(みゆき)。一応セカンド助監督だけど、まあ、ここの雑用係やってるよ」

「玄野……?」

 SNSやネットニュース、電車の吊り広告でよく見る名前だ。父は演劇界の重鎮、玄野夏雄。俺にこの劇団を紹介した男だ。そして兄は今をときめくミュージシャンの玄野太陽。

 華々しい血筋を持ちながら、深雪には有名人の息子が纏いがちな気負いや傲慢さが感じられなかった。


 深雪は不思議な男だった。肩書きは『幻日』のセカンド助監督だが、実際は舞台監督の怒号を浴びながら稽古場を走り回り、衣装のほつれを直しては大道具の釘を打ち、時に役者として舞台に立つこともある。

 休憩時間にはノートパソコンで何やら書き物をしていた。とにかくいつ見ても何かしら働いている。


 ある日の稽古後、手持ち無沙汰に機材の片づけを手伝いながら、つい疑問を口にしていた。

「深雪さんは……」

「呼び捨てでいいよ。ほぼタメみたいなもんでしょ」

 深雪はコードを巻きながら笑う。

「……深雪は、なんで劇団員をやってるんだ?」

 玄野夏雄の息子なら、もっと大きな舞台に立つ道だってあったはずだ。あるいは兄のように、まったく別の世界へ行くこともできただろう。

 忙しいわりにギャラもほとんどない、こんな小さな劇団にいなくても。チケットノルマだって厳しい。


 深雪は特に考える素振りもなく、即答した。

「父さんにやれって言われたから」

 それはあまりに主体性のない、そして意外な返事だった。

 世間では玄野家の親子関係は複雑だと言われている。息子たちに演劇の道を歩ませたい夏雄と、そんな父に反発して音楽をやり続けた太陽の確執は有名だ。客観的に見れば、弟の深雪があおりを受けた形だった。

「べつに『やりたくない』わけでもなかったし。兄貴が断ったから、じゃあ俺がやってもいいかなって」

 まるで夕飯のメニューを決めるような軽さで言う。

 よく分からないやつだと思った。世界に知られた父親という巨大な存在を、重荷として背負うわけでもなく、七光りとして利用するわけでもない。ただ普通の父として淡々と受け入れている。


「同じ業界に入るプレッシャーとか、ないのか?」

「べつに? 父さんの名前はどこの世界に行ってもついてくる。だったら同じ世界に入ったほうが簡単だろ。いい師匠が最初からついてくるんだから」

 深雪はコードを綺麗に巻き終えると、「見て見て」と自慢げに掲げてみせた。

 素直で従順。柔軟でいて強か。冬の空気のように澄んでいて、けれど掴もうとすれば指の間をすり抜けていく。

 それが深雪に対して抱いた最初の印象だった。


『幻日』での日々は映画の現場とはまるで違っていた。

 小さな劇団だからこそ役者一人一人に目が行き届く。深雪の指導は的確で、でも決して厳しくはなかった。玄野夏雄の息子とは思えないほど優しく丁寧だ。

「志季、今の抑揚は最高。怒りのほうを強めたらもっと良くなる」

 褒めるのがうまい人だった。悪い気はしない。もっと褒められたくて無意識に脚本が求める自分へと向かっていく。


 冬の稽古場は寒かった。古いビルで断熱も悪い。それでも身体を動かしていれば自然と温まってくる。暖房の効きの悪さにも意味があったわけだ。

 深雪が稽古の合間に書いているのは、脚本だった。時々キーボードを叩く手が止まって、じっと目を閉じる。そしてまた打ち始める。

 彼の横顔を見ていると不思議な気持ちになった。

 俺は演技が好きだ。でも演劇について詳しいわけじゃない。ただ与えられた役を演じるだけで、それ以上のことは考えていなかった。

 深雪は違う。演技も、演出も、脚本も。芝居のすべてに関わろうとしている。


「好きなのか」

 無意識に口をついて出た言葉に、振り向いた深雪以上に俺のほうが驚いた。今のはすごく、誤解を招く言葉だった気がする。

「その……芝居が……好きなんだな、と思って」

「ああ、なんだ。うん、好きだよ」

 一片の雪がコンクリートに落ちてきたみたいに、深雪の一言がじわりと染みていった。


 ――春


 桜が咲き始めた頃、俺は早朝ランニングを日課にしていた。体力づくりのためだ。舞台は映画と違って毎日同じパフォーマンスを続けなければならない。体力がなければ話にならなかった。

 まだ人のまばらな公園。桜並木の下を走っていると、ベンチに座る人影を見つけた。膝の上にノートを広げて、ボールペンをくるくると回しながらぼんやり空を仰いでいる。

「何やってるんだ?」

 息を整えながら近づくと深雪が振り返った。

「あ、志季。おはよう。脚本を書いてたんだけど詰まっちゃったから息抜き。あったかくなってきたねえ」

 詰まっているようには見えない、呑気な笑顔だ。


 一陣の風に舞った花びらが深雪の髪にふわりと着地した。それを指摘しようとして言葉を飲み込む。

 朝日を浴びて薄紅色の花を飾った横顔が、妙に艶っぽく見えてしまった。


 どんなホンを書いているのだろう。気になるのに、聞けない。

 雑談は苦手だ。興味を持っていることをうまく伝えられない。相手がどこまで踏み込むことを許しているのかよく分からなくて……怖かった。


 俺が黙り込んでしまったことを特に気に留めた様子もなく、深雪が首を傾げる。

「志季って彼女いる?」

「え……いや、いない」

 不意打ちの問いに、動揺を隠して答える。

「俺もいない。ロマンスって苦手なんだよな」

 恋愛ものを書いているのだろうか。

「今書いてるのはミステリーなんだけどさ」

 違った。

「犯罪の動機に恋が関わってるのに、恋する気持ちが分からない……。なぜ人は罪を犯せるほど誰かに対して熱くなれるのだろう」


 ふざけたような口調。なのに髪についた花びらを取ることもしないまま遠くを見つめる彼の視線は、どこか遠いフィクションの世界を見ているようで、胸の奥がざらつく。

 次の瞬間、深雪が視線をこちらに戻してにやっと笑った。

「志季、デートしよっか」

「はあ?」

 思わず素っ頓狂な声が出た。

「恋のお勉強」


 週末、「デート」という単語に無駄に緊張していた俺が連れ出されたのは貸し切りができる個室のシアタールームだった。男二人で入るのはなんだか少し物悲しい。

 いつも通り気楽そうな深雪と、テーブルに山積みになったスナック菓子、再生待ちの映画リスト。

 古典的なロマンティックコメディから、十代の青春純愛もの、エロティックな禁断の恋、果てはラブロマンス要素のあるSFや西部劇まで。ありとあらゆる恋愛映画を貪るように消化していく。

 モニターの中で何組ものカップルが愛を囁き、別れ、結ばれる。見ている俺の頭の中までピンク色になりそうだった。


「……あのさ」

 もう何本目かも分からないエンドロールが流れる頃、隣の深雪をじっとりと見つめる。

「これ、勉強になってるのか?」

「なってるなってる。あのキスシーンのタイミング、よかったな。台詞の盛り上がりどころじゃなくて別れ際の静けさで。照明の当て方も絶妙」

 ポップコーンを頬張りながらスマホにメモを取っている。苦手だと言っていたくせに、深雪はどの作品も楽しんでいた。物語の構造、役者の表情、演出の意図。それらを分析し、貪欲に吸収している。


「……何でも見れるんだな」

 目と頭のための休憩時間に俺は素直な感心を零した。

「何でも勉強ですから。結構いろいろアイデア湧いてきたよ」

 父親に言われたから始めた、なんて言っていたけれど。この男こそ根っからの演劇人なんじゃないか。

 画面の光を受けて輝く深雪の瞳は、どんな恋人たちよりも雄弁に、物語への愛を語っていた。


 映画が終わってシアタールームを出る。春の夕暮れが柔らかく街を包んでいた。

「ありがとな、志季。付き合ってくれて」

「べつに。俺も勉強になった」

 それは嘘じゃなかった。様々な恋愛を見て、様々な感情の機微に触れた。それだけじゃない。

 深雪と一緒に過ごす時間が快かった。映画を観ながら、時々その横顔を盗み見る。集中している時の真剣な表情。感動した時の、少し開いた唇。

 気づけば、映画よりも深雪を見ている時間のほうが長くなっていた。


「次はどんな映画観る?」

 深雪が訊いてくる。

「お前の書きたいものに合わせればいいんじゃないか」

「じゃあ、志季が観たいものを書こうかな」

 そんなことを言いながら深雪は不意に俺に向かって手を伸ばした。

「花びらついてた」

「あ……、ありがとう」

 自然な触れ合い。映画で観たような、恋人同士のような。だけど俺は躊躇してしまったことを、深雪は難なくやってのけるのだ。

 心臓がいつもより少しだけ速く鳴っている。


 ――夏


 アスファルトが溶け出しそうな猛暑日だった。

 稽古場への道中、あまりの暑さに目眩を覚えてコンビニエンスストアに一時避難する。

 冷房の効いた店内で息をついていると、雑誌コーナーの前に立ち尽くしている深雪を見つけた。


「深雪? 何してるんだ」

 声をかけると、深雪はスローモーションのように振り返る。

「あ、志季……。今日のメニューはエチュードと、感情表現ワークがメインで……」

「ここ、コンビニだぞ」

 焦点が定まっていない。顔が赤い。

「なんか体調悪そうだな」

「え、そう?」

 つい、彼の額に手を当てる。熱い。

「お前、熱あるぞ。風邪引いてるんじゃないのか?」

「え……暑いだけかと思って、アイス買いにきたんだけど……」

 ふにゃりと笑ったまま倒れそうになる体を慌てて支えた。結構な重症だ。自覚がないのが一番まずい。


 グループトークで稽古場の皆に事情を説明してから、二人分のアイスとスポーツドリンクを多めに買って、深雪を背負うようにして彼のマンションへ向かった。幸いここから歩いて十分もない距離だ。

「ごめん、世話かけて」

「いいから」

 深雪の部屋は混沌としていた。足の踏み場もない、というわけではないが、情報の密度が異常だ。

 壁一面の本棚には古今東西の小説、戯曲、専門書がぎっしりと詰まっている。棚に入り切らないブルーレイやDVD、VHSの塔が建ち並び、足元にはレコードとCDの山。そして彼が今まで観劇してきたであろう無数の公演パンフレット。

 これだけの物語をすべて、この頭と体に取り込んでいるのか。趣味が手広すぎて深雪が何を好むのかが分からない。つい自分を振り返る。俺は芝居に、これほどの情熱を捧げられるのだろうか。


 風邪を自覚したせいか急速に具合が悪くなったらしい、深雪は部屋の真ん中に敷きっぱなしの布団に倒れ込んだ。

「なんか、お粥でも作ろうか」

「えー……志季、料理できるの?」

 布団に埋もれながら、深雪が鼻声で聞いてくる。

「一応自炊してる。自分でうまいと思ったことはない」

「じゃあ食いたくねー。アイスちょうだい」

「わがまま言うな」

 風邪薬を飲む前に何か腹に入れておいたほうがいいだろう。


 買ってきたアイスを冷凍庫に入れ、昼食を探して冷蔵庫を開けた。中はほとんど空っぽに近い。ミネラルウォーターとビールと栄養ドリンクしかない。

「どんな暮らししてるんだよ……」

 呆れながらキッチンに向かうと幸いレトルトの白米がある。レンジで温めている間に鍋で湯を沸かし、ありあわせの調味料で粥を作る。


「普段ちゃんと食べてるのか?」

 丼を持って戻ると、深雪は体を起こしてぼんやりしていた。

「んー、まあまあ。外食ばっかだね」

「体も作れないやつに舞台に立つ資格はない」

「あは、夏雄大先生の名言集」

 ため息を吐きつつ、タオルを敷いて粥を膝の上に乗せてやる。最初は渋っていたが、一口目から先は黙々と食べ始めた。

「……うまい」

「そうか」

「志季ちゃんはいい奥さんになりますね」

「夏風邪は馬鹿が引くとはお前のことだ」

 けらけらと笑う深雪の頬は熱で赤く染まっている。

「家で一人で食べるのってつまんないじゃん。だからつい忘れちゃうんだよな」

 あまりにもあっけらかんと言うものだから聞いている俺の胸のほうが詰まった。


 一人で食べるのがつまらない。

 そういう本音を、無防備に口にする。深雪はいつもそうだ。淋しさも弱さも隠そうとしない。俺とは真逆だ。

「……あとでなんか買いに行ってくる」

「優しいねえ。財布からお金持ってって。お釣りはお小遣いにしていいよ」

「いらねえよ」

 結局、近くのスーパーで食材を買い込んで、晩飯用に簡単な雑炊を作った。体調が回復するまでという名分で今日は泊まっていくことにする。


 深雪は夏が苦手らしい。名前にぴったりだ。雪は熱に触れれば溶けて消える。気体とも、液体とも、固体ともつかない。何かになる前の、曖昧な存在。掴みどころのない、ふわふわした男。

 眠っている深雪の額から汗ばんだ前髪を払ってやると、気持ちよさそうに息を吐く。無防備な表情が脳裏に焼きついて離れなかった。

 うだるような暑さの中で、俺の心に何かが芽生え始めていた。


 ――秋


 気づけばしょっちゅう深雪の部屋に入り浸るようになっていた。理由は「飯を作ってやるため」だったが、実際はそれだけではなかった。

 深雪と一緒に映画を見て、音楽を聴き、本を読む。感想を言い合う。深雪の視点はいつも鋭くて意外で、そして優しい。俺は演技以外の感情表現が苦手だったが、深雪の前でならいつしか素直な言葉が出てくるような気がした。


 深雪による演技指導も日課になった。

 彼の部屋で、彼が書いた短い台本を演じる。彼の指摘は的確で、父親譲りの厳しさがあるかと思えば、演者に寄り添う温かさもあった。


 劇団の次回公演が決まった。

 俺に与えられた役は、身分違いの恋に落ち、破滅へと向かう男だった。

 稽古は難航していた。

「志季、まだ理性が残ってる。もっと溺れて」

 監督の叱咤が飛ぶ。

 相手役の女優とのキスシーンもある。最初は気恥ずかしさが邪魔をしているのかと思った。だが、何度繰り返しても、気持ちが乗らない。

 ホンの中の彼女を愛せない。恋焦がれる感覚が、どうしても掴めない。


 夜、深雪の部屋で自主稽古に励む。

「じゃあ、別れのシーンから」

 深雪の顔からそれまでの柔和な空気が消え失せて、俺の眼前には悲劇のヒロインが立っていた。声色は地声のままなのに、纏う空気が、視線の潤みが、完全に女性のそれだった。

『わたくしは春の淡雪、夏の逃げ水。どうかお忘れになって。わたくしたちは、出会わなかったのです』

 深雪の台詞が鼓膜を震わせる。息が苦しい。水底で藻掻いている感覚だ。

 春の雪のように、夏の逃げ水のように。いつも俺の手をすり抜けていく、この曖昧な存在が、永遠に失われる恐怖に支配される。

 ――嫌だ。

 それは役としての感情ではなかった。天塚志季としての、痛切なまでの拒絶だった。


「嫌だ。俺は……」

 台本にはない、嗚咽じみた声。衝動的に深雪の肩を掴む。女優の華奢な体つきとは違う硬い感触が現実を突きつける。なのに。

 逃したくない。繋ぎ止めたい。そのまま強く引き寄せて、唇を重ねる――深雪のまつ毛が震えているのが見えた。

『俺はあなたをこの腕に留める。たとえ地獄に落ちてでも』

 長い沈黙の後、ゆっくりと体を離した。心臓が早鐘を打っている。


 じっと俺を見つめてから、深雪が真剣な顔で呟く。

「今の、一番よかったな。かなり真に迫ってた。何か掴んだ?」

 違う。掴まれたのは俺のほうだ。

 窓の外では秋風が街路樹を揺らしている。俺は自覚してしまった。この胸を焦がす熱の名前を。

 俺は、玄野深雪に恋をしている。


 それからの日々は苦しくて甘かった。

 深雪といると感情が溢れ出し、理性が焦がされる。こんなことを誰にも知られてはいけないのに、離れていると無性に会いたくなる。

 俺は感情が薄い人間だと思っていた。演技の中でしか激しい感情をなぞれない、つまらない人間だと思っていた。だが違った。俺の中にも燃え盛る業火があったんだ。

 深雪を見つめる。深雪の声を聞く。深雪に触れる。もっと欲しい。でも、言えない。

 才気あふれる若い俳優、男が男に惚れている。今の俺では、ロマンスではなくただのスキャンダルとして大衆に食い潰されるのが現実だ。


 街路樹の葉が風に舞い落ちる。秋が深まっていく。

 この想いを、どうすればいいのか分からない。


 ――冬


 季節は巡り、またしても大きな仕事が舞い込んだ。映画の出演依頼だ。

 玄野夏雄の名がついて回るせいで、どうしても鳴り物入り扱いされる。俳優・天塚志季としての真価が問われることになるだろう。

 一方で『幻日』の次の公演も決まった。俺はクランクアップまで舞台には立てないが、深雪は今回、裏方ではなく主に役者として芝居に加わる。

「父さんにそろそろ表にも出とけって言われちゃってさ。巷じゃ真のジュニア対決なんて言われてるぞ」

 玄野夏雄の息子と、玄野夏雄に見出された若手俳優。メディアは面白おかしく書き立てている。稽古場のストーブの前で、深雪は何の気なしに笑っていた。


 あの秋の夜以来、俺の演技は変わった。確かな手応えがあった。感情の蓋を開ける術を知ったのだ。その源泉にあるのは、深雪への恋だった。

 まだ想いを伝えはしない。

 彼は雪だ。触れれば溶け、放っておけば消えてしまう。だが、俺は知っている。雪は降り積もれば景色を一変させる力を持っている。

 吐き出せずにいるこの恋は、今は役者としての糧にする。焦がれるような渇望も、独占欲も、すべてを表現に変えて。


「深雪」

「んー?」

「この映画で、俺はお前の兄貴も父親も越えてやる」

 きょとんとしながらも深雪はすぐに笑顔になった。いつものように、ひらりとかわすような軽やかな表情だ。

「頼もしいな、主演男優さん」

「お前も本気を出せ。『幻日』ごとお前のものにしろ。玄野夏雄の名前を、『あの玄野深雪の父親』にしてやれ」

「俺はそういう柄じゃないんだけど」

 視線の僅かな揺らぎだって見逃しはしない。深雪の穏やかな瞳の奥に演劇を愛する静かな闘志が灯ったことを、俺だけが感じていた。


 台本を握りしめ、幕が上がるのを待つように前を見据える。

 この冬を越えれば、また次の季節がやってくる。道はおそらく果てしなく遠い。それでもすべてを焼き尽くして手を伸ばす覚悟がある。

 軽やかに人の懐に降り積もっておきながら、今さら逃げられるとは思ってくれるな。

 誰にも文句を言わせないだけの存在になってやる。そして俺は、お前をこの腕に留める。たとえ地獄に落ちてでも。


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