【1-1】朝は来ないが厄介事はトコトコ歩いて来る
常識とは何か。案外説明することは難しいが、まず、常識というのはいとも簡単に瓦解するものだ、と言える。「人を殺してはいけない」なんて常識は、スラムを歩けば意味を成さないだろう。
子供は日々、常識の崩壊と再構築を繰り返し大人になる。大人でさえ、自身の常識が打ち破られることから目を背けることは出来ない。
それでも、ほとんどの人間が覆るなど微塵も考えないような常識もある。
例えば、「朝は必ずやって来る」―とか。
だがしかし、そんな常識が瓦解した時、人間、ひいては社会は何を信じ、何を疑うのだろうか?
今やそんな妄想は、妄想である必要が無くなった。もし知りたければ、玄関を跨いで外を歩くといい。
世界は永遠の夜を迎えつつあるのだから。
* * *
「ひぃぃ!!」
満月の光を淡く反射した、人通りもまばらな狭い路地。そんな薄明るい路地に、ガラスの割れる耳障りな音と男の悲鳴が響き渡った。通行人が思わず足を止めるが、見慣れた光景にまたか、と顔を顰めた。
路地の真ん中で、短パンに黒いキャミソールを着ているだけの金髪の若い女が、心底怠そうな顔で中年の男に馬乗りになっていた。しかも男の周りには、女が投げたのであろうガラス瓶の破片が散らばっている。
女は、苦悶の表情を浮かべている男の顔面に拳をめり込ませながら叫んだ。
「お前なぁ!何回言ったらアタシが娘じゃないってわかんの?失朝病だかなんだかしらねーけど、これ以上繰り返すなら特捜に突き出すぞ!」
「っぐぅ…はぁっ…わ、悪かった!悪かったから離してくれぇ…」
「もういっぺん来てみろ。次は迷わず両タマ消し飛ばしてやるからよ」
首を掻き切るジェスチャーをした女は乱雑に男から身体を離すと、男は鼻から流れる血を抑えながら慌てて路地を出て行った。
遠巻きに見ていた通行人たちは、口々に女に声をかけ始める。
「ヨナちゃん、そろそろマジで特捜呼んだら?」
「あーいうおかしな奴はね、病院にさっさと括りつけとくのが吉ってもんよ」
「あー、本当はその方がいいんだけどね。めんどくさいし、こっちのが穏便に済むかなって」
穏便とは。そこそこ物騒な発言に、通行人たちは諦めたような顔でその場を去っていった。
ヨナは、瓶の破片を塵取りで器用に集め、玄関のドアを潜り鍵をかけた。ガラス片をゴミ箱へ流し、明日の天気を告げるテレビの電源をオフにして、倒れ込むようにベッドへうつ伏せになった。明日は仕事がないので、一日中寝ているつもりだったのだが、夜中に例の男の襲撃に遭ったのである。
溶けるような睡魔がヨナを襲い、しばらく彼女を解放することはなかった。
「ヨ…」
頭が痛い。視界がぼやけている。
「ヨナ」
あれ?
「ヨナ、あのね、ここを抜け出したら、私とヨナの2人で好きなように生きたい」
私の好きな声がする。この声を私はよく知っている。とても甘くて、愛おしくて、失われた声。
「射撃だって頭の良さだって、ヨナには敵わないけど、ヨナを一番笑顔にできるのは私なの」
いや?今私は、確かにその声を聞いている、あぁ、なるほど。これは、趣味の悪い夢だ。
「ヨナは自由に生きるの。だってヨナは―」
ぼやけていた視界が徐々に晴れ、私は自分の右手に拳銃が握られていることに気づいた。同時に、1人の少女がはにかんでいるのが目に入る。その顔には、目がない。
「ねぇ、どうしてヨナだけ自由に生きているの?私は2人でって、言ったよね?」
「っ…化け物め…」
私はトリガーに指をかけ、少女の額に照準を定める。少女は異形へと変貌し、私に襲いかかろうとしたが、私は素早くトリガーを引いた。
「失せろ」
ドンッという発砲音と共に放たれた45ACP弾は、的確に異形の急所を貫いた。異形は音もなく霧散する。
徐々に視界が失われていく中で、私は誰かの啜り泣く声を聞いたような、そんな気がした。
いや、気のせいではない。夢から覚めたヨナはベッドから跳び起き、アタッシュケースから素早くサプレッサーと一丁の拳銃を取り出した。
啜り泣きは玄関の方から聞こえている。ヨナは拳銃にサプレッサーを取り付け、弾倉に弾が込められているのを確認すると、スライドを引き、壁に背を当てた。すぅ、と息を吐き、ヨナはパチンと指を鳴らす。すると玄関の扉はひとりでに勢いよく開かれた。
扉が開くと同時にヨナが銃口を突きつけたのは―桃色の髪を垂らし、膝を抱えて啜り泣く少女だった。
「ヨナさんんん…お仕事手伝っでぇぇ…ひっぐ…」
ヨナは銃口を下さず、込み上げる怒りを必死に抑えながら叫んだ。
「おまっ、今日は私休むって言ったよな?!このまま全て無かったことにしてやろうか?!」
「そんなぁ…ヨナさんと私は一心同体ですぅ…。私が困った時はヨナさんが助けてくれる、それだけの相互援助関係じゃないですかぁ」
「どこに相互要素があんだ?!おま、撃つぞマジ」
何故今夜に限ってこんなに厄介事がトコトコ歩いてくるのか。ヨナは銃口を下ろしながら片手で頭を抱え、長いため息を吐いた。
この少女の名はアキ・エイシーズ。一見人畜無害そうな少女だが、その本性はプロの傭兵である。それも、あらゆる戦闘に長けたヨナでさえ、近接戦闘においては手も足も出ない程の手練れだ。訳あってヨナとアキは「仕事」のパートナーとなっている。
「で?お前が泣きついて来たんだ。よっぽどのことがあったんだろ?」
時計の針は夜中の3時半を示している。家のソファーにアキを座らせたヨナは、アタッシュケースに銃を戻しながら尋ねた。アキは途端にぱぁっと笑顔になると早口で応えた。
「さっすがヨナさん!話が早いんだから〜。ヨナさんに服従を誓った私の目に狂いはなかったね」
「お前さては嘘泣きしてたな…?」
「ごめんごめん。ノックしても反応なかったからさ?泣いたら捨て子か何かと思って開けてくれるかなーって」
そう話していたアキは顔から笑顔をすぅっと消すと、周りを確認し、小さな声で話し始めた。
「リーメス地区の”マイナス”で、2時間前に特捜3人の死体が見つかった」
「は…?」
「見つけたのは定期パトロール中の境界警備隊、死因は失血死。推定死亡時刻は昨晩10時。隊長がヨナさんを呼べって私に言ったのも無理はないね」
ヨナの顔に動揺が広がっていくのをアキはじっと見つめる。アキも決して落ち着いてはいないことが、足の動かし方から伝わってくる。
これは、それこそ「朝は必ずやってくる」―そんな常識を覆すような、前代未聞の事件なのである。
ヨナは少しの間硬直していたが、素早くキャミソールと短パンを脱ぎ捨て、ベッドの下に置かれていた黒い戦闘服に着替える。更に、床の板を一枚外したかと思うと、その中から横長のアタッシュケースを2つ取り出した。
その様子をニコニコ眺めていたアキに、ヨナはロッカーの奥に隠された扉の鍵を回しながら話しかける。
「なぁ、うち、有給ってあるっけ?」
「んー?私は取ったことないし、無さそうだね?」
「労基違反で訴えんぞクソブラックが」
2人はロッカーの中に隠された地下への階段を開き、鍵を閉めると流れるように駆け降りていった。
* * *
80年前、貿易摩擦から発展した大国同士の戦争で使われた未知の兵器が、未曾有の災害を世界中にもたらすこととなる。
それは
「エリアコード・マイナス」
通称「マイナス」と呼ばれる災害空間である。世界の20%に広がったその空間は、外からでは判別不可能なものの、内部では永遠の夜が広がる異質な空間である。
更に、マイナス内部では特殊物質「アンブラ」が生成されるため、アンブラに対する耐性の低い人間はマイナス内にいるだけで身体に異常をきたし、最期には「アンバー」と呼ばれる異形体へと変貌する。
戦争の終結と共に現れたこの超常災害は、当初、人類に大混乱を引き起こした。しかし、人類はアンブラを使った発電方法や、マイナスを判別可能にする装置を開発したことで、マイナスとの共存という偉業を成し遂げることになる。
マイナスは膨張することも無かったため、マイナスは負の遺産ではなく、新たな人類発展の要として注目されるようになったのであった。
その発展が、一夜にして瓦解することになるとは、当時の人類は知る由もなかった。
6年前、突如として世界中で膨張を始めたマイナスは、たった一晩で世界の約90%を飲み込み、人類のおよそ8割が犠牲となった。この時、空からアンバーを含んだ黒い雨が降り注いだため、この大災害は「影の雨」と呼ばれた。
ヨナとアキの暮らすここ、フェニス地区は、6年前にファトム共和国の残存政府が指定した首都、その辺縁区に当たる。つまり、膨張と減退を繰り返すマイナス空間との境界線に位置している。
そんなマイナス空間の内部に秘密裏に侵入し、境界線の防衛にあたるのが、防衛軍の特務武装部隊「ノクターン」であり、ヨナとアキの雇い主である。
ヨナが労基について言及していますが、軍に労基は適用されていないので、これは彼女の妄言です。
現在の首都の都市システムが確立されるのにあまり長い年月はかかっていません。影の雨から3年も経つころには、労基が制定されていたようです。しかし、労基を守っているのは一部大企業のみであり、ほとんどの中小企業はそれどころではない、とガン無視しています。




