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第9話:愚か者の思考など、考えるに値しない

 移植手術を待つ静香の娘が隔離されているのは、教団幹部たちが独占する最上階の一室にあった。

 部屋の前には信者たちが二重三重に見張り、近づくことすら許されない。その事実が、静香がまだ完全には信用されていないことを雄弁に物語っていた。

 静香は幹部の一員として活動しているが、彼らの目は誤魔化せない。教団の教えを本心から受け入れていないことは、誰の目から見ても明らかだった。

 それも無理はない。──愛娘を人質のように取られているのだ。頭の回る静香が、この連中を心底信頼するはずがない。

 だが、疑念を悟られれば娘の命も、自分の命も終わりだ。なんとしてでも、娘だけは助けて見せる。そんな思いを胸に、静香はチャンスが来るのをひっそりと待ち続けていた。


 一方、良子は静香の信頼を得るために、信者の前で力を見せてしまった事を、間違いだったかも知れないと思い始めていた。

 あのオペを見た信者たちから話は広まり、既に隆元や幹部たちの耳に届いていた。

 それを境に、教団の空気は一変した。

 打って変わって信者たちは余所余所しくなり、今では誰も近寄ろうとしない。廊下ですれ違えば目を逸らし、言葉を交わす者もいない。

 利用価値があると判断している節はあるが、彼らにとって良子はもはや得体の知れない脅威でしかなかった。

 ただの気弱な小娘としか思っていなかったのに、人間離れした神技のオペを見せたのだ。警戒を通り越し、驚異の対象になるのは当たり前のことだった。


 そうなるのは覚悟の上だった。だが、静香まで疑われ、二人は常に監視下に置かれることになった。

 思うように動けないまま時が過ぎ、良子がこの病院を訪れてから三日が経とうとしていた。

 その三日間、背後に張り付く足音と、絶えず突き刺さる視線から逃れたことは一度もない。

 廊下を歩けば無言の影がつきまとい、食事は監視の下で取らされた。信者たちは一様に口を閉ざし、必要以上の言葉を交わさない。


 良子にとっては、その沈黙はむしろ都合が良かった。だが──どうしても、置いてきた満里奈の顔が頭に浮かぶ。

 あの子と過ごした時間は、千年の地球生活の中でも特別だった。

 側にいるだけで、穏やかになれた。──その存在の大きさを、今さら思い知らされていた。


 一刻も早くここを抜け出し、満里奈のもとへ戻りたい。

 しかし、この病院で必要な機材と物資を確保しなければ、ここへ来た意味がない。

 満里奈の母を救うためにここまで来たのだ。──何の成果もなく帰るなど、あの子の信頼を裏切ることになる。

 良子は焦りながらも、この三日間で収集した情報を脳内で再構築していた。監視の配置、出入りする物資、幹部たちの動き──その全てを繋ぎ合わせ、戦略図に描き変えていく。

 思うように動けないなら、こちらから動かせばいい。彼らを内部から分断させ、必ず隙を作り出す。

 だが、時間は残されていない。静香の娘は、いつ容態が悪くなってもおかしくはないのだ。


 幸い、監視といってもそれほど厳重ではない。

 彼らは信仰を拠り所にした素人の集まりだ。軍でも諜報組織でもない。ならば──揺さぶれば簡単に崩れる。

 良子は廊下を歩きながら、三百年以上前の夜を思い出していた。

 山陰の山城、凍える風の中で焚き火が薪を弾かせる。その炎の向こうで、頬に刀傷を刻んだ白髪の翁“毛利元就“が低く笑った。


「力で縛れば、力で裂ける。だが欲で結べば、人は互いに手を離せぬ」


『力を捨てよ、と?』若い良子が問うと、翁は炎を見つめたまま、口の端をわずかに吊り上げた。

 あれから幾世紀を経ても、あの言葉は錆びていない──。

 良子は小さく息を吐いた。教団の結束は信仰で縛られている。ならば、その信仰を裏切る“欲”を植え付ければいい。

 戦わずして、彼らを裂く。そのやり方を、今度は私が使う。

 良子の脳裏に、ひとつの手順が組み上がっていく。最初に誰を動かすか、何を餌にするか──その答えは、すでに見えていた。


 この三日間で見えた教団の実態は、一枚岩とはほど遠い。

 隆元を頂点に構成されているように見えるが、実際の彼は旗印にすぎない。人を惹きつける弁舌は確かだが、支配の実務を握ってはいない。

 物資の流れを押さえるのは経理担当の“蓮司”。武装信者を束ねるのは元自衛官の“堂島”。静香を表舞台に引き上げた“京香”は、隆元の懐刀を自称しているが、その忠義は本物かどうか怪しい。

 信仰で結ばれた集団──その皮を剥げば、内側は権力と欲でぎしぎしと軋んでいる。


 そして、静香の娘を診る担当医の“牛島”。表向きは従順な医師だが、その眼差しの奥には、人をモルモットとしか見ていない冷酷な影が潜んでいた。

 そしてもう一人、目を離せない男がいる。元は国会議員の秘書をしていた“花岡”。派手さはないが、幹部たちの会議で最終決定を下すのは、常に彼だった。

 人心を読むのが異常にうまく、損得でしか物事を測らない目をしている。──内に秘めた大きな野望があり、何か大きなことを企んでいるのは、傍から見ても明らかだった。

 京香は権力を欲し、蓮司は金を渇望し、堂島は暴力でしか己を保てない。

 信仰で結ばれた鎖は、一見強固に見えるが、内側では欲望が軋んでいた。

 良子は悟っていた──ほんの一滴の疑念を垂らせば、この鎖は音を立てて裂ける。


 ならば、彼らの信じる価値そのものを揺さぶればいい。

 教団が静香を引き入れた理由──それは、ゾンビ化の原因が“ウイルス”であり、そのワクチンが世界を支配する鍵だと知っているからだ。

 ワクチンを握れば、教団がこの国を動かすほどの、権力を握ることすら造作もない。

 滅亡の影が迫る世界で、ワクチンは何よりも勝る力になる。

 良子は息を潜めた。最初の一滴を、誰に、どんな器に垂らすか──答えは、もう決まっていた。


 最上階の特別室、その前に立つ扉は、まるで城塞の門のように重厚で、金色の装飾が虚飾の信仰を物語っていた。

 良子は一瞬だけ手を止め、深く息を吐く。そして、ためらうことなく扉を押し開けた。


 不意に飛び込んでくる良子の姿に、室内の男が目を丸くする。そこにいたのは引き攣った顔をした教団の代表、隆元だった。

 豪奢なカーペットに沈む足音を、隆元は固唾を呑んで聞いていた。金の燭台、誰も見ない聖母像、贅沢な調度──すべては虚飾の鎧。だが、その鎧の下は、驚くほど脆い。

 良子がこの男を選んだのは、その単純さだ。欲にまみれ、野望も浅く、考えが浅い。花岡や蓮司のような狡猾さもない。


「──お忙しいところ、申し訳ありません」


 良子は笑みを貼りつけ、あえて低く頭を下げた。その一言で、隆元の背筋がわずかに硬直するのを見逃さなかった。


「何だお前は!」


 そう言って声を荒げ、強がった態度を見せてはいるが、隆元は確実に怯んでいた。教祖というまやかしの皮を被っているが、この男の本来の姿は小心者でしかないのだ。

 一躍、得体の知れない脅威となった良子に、今までの態度のままではいられない。その両手はわずかに震え、握った拳の親指が爪を押し込み白くなっていた。

 良子は一歩も退かず、静かに部屋を閉ざすように扉を閉める。その音に、隆元の喉が小さく鳴った。


「お前にいい話を持ってきた」


 そう言いながら良子は打って変わって隆元に冷酷な目を向けた。全く動じる気配すらない良子のその姿に、隆元はじんわりと額から汗を流した。


「いい話だと……?」


「ワクチンを独り占めしたいと思わないか? ……お前がそれを独占できれば、権力も地位も思うがままだ……」


「何を馬鹿な!」


 隆元は声を荒らげたが、その声には力がなかった。良子は意味深に口角だけで笑う。


「馬鹿じゃないさ。あんたらではワクチンの開発どころか、ウィルスがどんなものかも特定できない」


 そう言って隆元を見据える良子は余りに強気で、まるで自分ならばそれができると言ってるようにしか聞こえなかった。


「お前には、それが出来るとでもいうのか!?」


「ああ……私は研究者だからなぁ」


 良子の自信に満ちた言葉に隆元は息を呑んだ。得体の知れない不気味さと、自信満々な強気の態度は隆元の胸奥をざらつかせる。


「有名な学者たちが集った、国の研究機関でも出来なかったんだぞ……それでこんな事になったんだ」


 半信半疑ではあるが、隆元の目には良子の話を信じたいという欲望が見えていた。良子の話が本当であれば、教団での地位を不動のものにできるだけではない。

 国の中枢に入り込み、この国を意のままに操ることだって可能なのだ。欲望に実直なこの男にとって、それは千載一遇のチャンスでもあった。


「お前が信じようと信じまいとどうでもいい。しかし、私にはそれを可能にするだけの知識がある」


 良子の揺るぎない言葉に隆元は目を丸くした。その態度には、言ったことを成し遂げるだけの信憑性が見えていた。

 人というものを長年観察してきた良子にとって、この類の人間を操ることなど造作もない。


「何が目的だ?」


 低く絞り出したその問いには、もはや反抗の色はなかった。


「別に見返りなどいらない」


 良子は静かに言った。その声音には一片の濁りもなく、隆元に向けられた眼差しは、透き通るほど澄んでいた。


「私はワクチンで、ある人を救わなければならない」


 隆元は眉をひそめる。──そんな甘いことを言ってる人間が、一番信用できないと思っていたからだ。

 この女は、本当にそれだけなのか? だが、良子の表情には、動揺どころか何も浮かんでいない。

 何もかも飲み込む、暗闇のような得体の知れない気配に、隆元の背筋に冷たいものが走った。

 隆元はゆっくりと唾を飲み、躊躇いがちに口を開いた。


「俺は何をしたらいい?」


「静香の娘のオペを許可しろ。それだけでいい」


 まるで最初から決めていたかのように、良子は迷いなく言い切った。その一言で、隆元の顔色がみるみる変わる。血の気が引き、頬が引きつる。


「そ、それは……俺が勝手に許可を出せない」


 隆元の声はわずかに震え、明らかに動揺を隠しきれてない。

 静香の娘のオペは、教団にとってワクチンを手に入れるための最後の切り札。

 幹部会議でも最重要事項として決議され、勝手に動かせば、裏切り者として制裁は免れない。


 権力は喉から手が出るほど欲しい。だが命には代えられない。隆元は固唾を飲み、額から汗を流しながら、良子を睨みつけた。

 その視線の奥では──欲望と恐怖が、静かに綱引きを始めていた。


「わかった。では、この話は花岡にでも持っていこう」


 良子は何気ない調子で言った。椅子の背にもたれ、まるで興味を失ったかのような声音。

 だがその一言が、隆元の胸を鋭く抉った。


「ま、待ってくれ!」


 思わず声が裏返る。自分でも情けないと思うほどの狼狽だった。花岡──幹部の中で最も冷徹なあの男に、この話を持って行かれたら終わりだ。

 良子が本当にワクチンを作れるなら、頭の回るあの男はこの機を逃さないだろう。

 自分の地位を盤石にするどころか、救世主となって更なる権力まで手に入れるに違いない。

 今の教団だって奴が好き勝手にしてるのだ。それだけは絶対に避けなければならない。


「隆元……お前は、もう少し賢い奴だと思っていたが、見当はずれのようだな」


 良子の視線は、もはや期待ではなく冷徹な選別の色に変わっていた。『役に立たない駒は切り捨てる』──その無慈悲な光が、隆元の背筋を冷たく撫でる。

 息を呑む隆元に、良子はさらに低く、鋭く言葉を突きつけた。


「悩む理由がどこにある? ──教祖は、お前だろう? 花岡に、踏みつけにされたままでいいのか?」


 その声は、焚き火の熱に溶ける鉄のように重く、耳の奥に沈み込んでいく。

 俯いていた隆元の胸を、屈辱と怒りとが同時に焼いた。ハッと顔を上げたとき、脳裏には──ただの飾りに過ぎぬ自分の姿が、無様に浮かんでいた。


 良子の視線は静かだった。だが、その奥に潜む『利用価値の有無を計る刃』が、隆元の誇りを切り刻んでいた。


「取り戻せ。──お前の座を」


 そう言いながらも、良子は教団へワクチンを渡すつもりなど、欠片もない。この一言で男の胸に『疑念』と『欲望』の種を落とし込めば、それでいい。


「……わ、わかった」


 しばしの沈黙のあと、隆元は奥歯を噛みしめ、搾り出すように言った。


「──許可を出す」


 良子はその瞬間、静かに笑った。

 それは勝利の笑みではない。──これから始まる崩壊の鐘を、彼女だけが聞いていた。


 あとは、内側から崩れるのを待つだけだ──。オペさえ終われば、教団は疑念と欲望に喰われ、勝手に血を流し合うだろう。

 良子はその光景を、冷たい目で想像していた。






              ~to be continued~

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