第7話:知らずにいた人の感情は、意外に興味深い
病院の内部に足を踏み入れた瞬間、その場の空気は一変した。
白いはずの壁は経年の黄ばみと染みでくすみ、湿った薬品臭に混じって線香のような匂いが漂っている。
避難者たちは全員、同じ白装束に身を包み、祈りを捧げるように頭を垂れ、口の中で何かをぶつぶつと唱えていた。
その光景に、良子は絶句し、わずかに表情を険しくする。
本来なら誰もが違和感を覚えるはずの状況を、彼らは当たり前のように受け入れている──その事実こそが、最も不気味だった。
良子は、改めて満里奈を連れて来なかったことに安堵した。心の中で日に日に存在感を増していく満里奈を、こんな得体の知れない集団の影響下に置くわけにはいかなかった。
門番たちは良子を病院の中へと案内し、避難者たちを温かく見守っていた女たちのもとに引き渡した。
彼女たちは一様に幸薄そうな顔をしており、淡い表情の奥にかすかな影を宿している。それでも整った目鼻立ちは隠しようがなく、静かな美しさを漂わせていた。
「辛かったでしょう……すぐに、ここの避難所を取り仕切る教祖様の元にご案内いたします」
感情の色を欠いたその女の顔は、どこか良子と同じ匂いを纏っていた。良子はか弱い生存者を装い、震える声を上げながらその女に泣きついた。
「ここに来るまでに、家族ともはぐれてしまったんです! 助けてください!」
「大丈夫ですよ。隆元様がご家族の方もここにお導きなさってくれるはずです」
隆元という言葉を耳にした瞬間、良子の瞳がわずかに輝きを帯びた。──それが、この異様な集団の頂点に立つ者の名だろう。
ここが病院であるということは、入院患者もいるだろうし、当然医者もいるはずだ。
そして、その病院がカルト教団に占拠されているということは、医者たちも元々教団の信徒であるか、あるいは力に屈して軍門に下ったかのどちらかだろう。
今の状況において医者という存在は、命を握る鍵であり、同時に力の象徴にもなり得る。良子の目的は機材や物資の調達だが、医者が関わっている以上、それらを容易に手に入れることはできないだろう。
上階への階段を上りながら女たちは淡々と、隆元という男の素晴らしさを語り続けた。
──こんな世の中になったのも、人々の愚かさが招いたカルマの報いであり、教祖こそがそれを打開できる唯一の希望なのだと。
ここには自家発電装置があるらしく、節約こそされているが電気も生きていた。
日常のライフラインがすべて途絶えたこの世界において、電力の確保は医者と同じく力の象徴であり、人々を従わせる最大の道具にもなり得る。
彼らの指導者は間違いなく狡猾だ。世界がこう変わったからこそ、かつて当たり前だったものがどれほど価値を持つかを理解し、それを武器にして人々を支配している。
だからこそ必要なものを、交渉や懇願で手に入れるのは不可能──良子はそう悟った。
となれば、残された道は二つしかない。隙を突いて盗み出すか、力ずくで奪うかだ。どちらも危険極まりないが、それでもやらねばならない。
「隆元様とは……どんなお方なのですか?」
良子はわざと怯えた様子で尋ねたが、女たちは彼の偉大さを繰り返し語るばかりで、具体的な人物像には一切触れない。しかも、その言葉が心からの尊敬ではないことは、表情の端々に滲んでいた。
感情を抑え込んだ慎ましい微笑みの奥に、かすかな恐怖と諦めが同居している──良子はそう見抜き、隆元の人物像を推測していた。
「隆元様、新しくここへ来た避難者をお連れしました」
そんな考えを巡らせているうちに、一行は病院最上階の特別室へと辿り着く。女の一人が扉の前で姿勢を正し、恭しく声を掛けた。
「入りなさい」
低く響く声が部屋の奥から返ってくる。その瞬間、空気がわずかに張り詰めた。女は「失礼します」と呟き、音を立てぬよう静かに扉を開ける。
そして中に足を踏み入れた途端、良子は異様な光景を目にした。
長椅子には恰幅のいい五十代ほどの男が、背もたれに深くもたれ堂々と座っている。視線を向けられただけで、室内の空気がさらに重く感じられた。
その周囲には幹部と思しき者たちが、まるで忠誠を示すかのように床で胡坐をかいて並んでいる。三十代から五十代ほどの男女──その中には化粧を施した女の姿もあり、皆一様に主の言葉を待つ獣のような目をしていた。
良子は怯えた様子を崩さぬまま、その視線の裏で一人ひとりを鋭く観察する。
「こちらに来なさい……」
恰幅のいい男は、目を細め、湿った声でぼそりと命じた。
良子が近づくと、男はソファからゆっくりと立ち上がり、値踏みするように視線を全身に這わせる。
「どこから来たんだい?」
「○○市です……」
返答の直後、男はわざとらしく鼻を鳴らし、クンクンと匂いまで嗅いだ。そのねちっこい仕草に、良子の背筋に冷たいものが走る。だが良子は表情は崩さず、怯えた小動物を演じ続けた。
改めて思えば、良子の外見は実に平凡だった。千年もの間、目立たぬように生きてきた習性が、髪型から服装、身のこなしにまで染みついている。
目鼻立ちは、ここへ案内してきた女たちに比べれば見劣りするし、体型だってほっそりとしているが、女性らしい曲線は乏しい。
それにもかかわらず、この男は明らかに良子を“女”として値踏みしていた。むしろ、平凡さの奥に潜む何かを嗅ぎ取ったかのように──。
「救いようのない世の中になってしまったが、私がいれば希望はある……信徒となり、私を崇めなさい」
隆元はそう告げると、良子の肩に手を置き、二の腕をゆっくりと撫で回した。作り笑いを浮かべる額には、脂ぎった汗が滲んでいる。その湿った掌の感触に、良子の背筋を嫌悪が這い上がる。
──すぐにでも振り払いたい。しかし、そんな素振りを見せれば、たちまち警戒されるだろう。
「……信徒になれば、はぐれた家族にも会えますか?」
「もちろんです。私を信じなさい」
良子は怯えた小動物のような表情を保ちながら、内心では冷ややかに相手を観察していた。
欲望を隠そうともしないこの男は貫禄と弁舌はあるが、目の奥には浅ましい計算しか見えない。
持ち上げられて権力を握ったと勘違いし、疑問も持たずに欲望のままそれを振りかざしているのだろう。
本当に厄介なのは彼ではない。取り巻きの中に、獲物を狙う鷹のような視線を送ってくる者が何人もいた。賢そうな顔立ちの男や女が、良子の仕草ひとつひとつを観察し、何かを測っている。
良子はこの時、組織のリーダーが隆元ではないことを見抜いた。隆元の存在は顔であり、飾りでしかなく、実際に教団を纏めているのは何人かの幹部たちのようだ。
目の前で女を品定めするこの男は、欲に溺れた傀儡でしかないのだ。
ならば、これを利用しようか? ──良子の頭の中にそんな考えが過った。しかしその時、一人の女が立ち上がり、良子を魔の手から守るように口を挟んだ。
「私が施設の中を案内するわ」
女は30代半ばほどに見え、年齢の割には落ち着きと品を兼ね備えていた。背筋の伸びた所作と、控えめな微笑み。その目には幹部たちの顔色を窺いつつも、良子を気遣うような色が混じっている。
白衣を纏い、聴診器を首から下げた姿に、良子はこの女が医者であることを瞬時に理解した。
その時、隆元の表情がわずかに曇る。思惑を邪魔されたことへの苛立ちが、目の奥に一瞬だけ浮かんだ。
だがその隙に、女は良子の腕を軽く取って歩き出す。通路に出る直前、ほとんど唇が動かないほどの小声で囁いた。
「貴女、医者でしょう? 薬品の匂いがするわ」
良子は歩調を乱さず、目線も変えずに答えた。
「……そんな匂いが、まだ残ってたのね」
女の目が一瞬だけ細まり、何かを測るように良子を見た。その視線は、隆元や周囲の者たちとはまるで違う──打算よりも、生き残るための計算を秘めた目だった。
「ここに来たのは間違いよ。直ぐに逃げなさい。ここは貴女が思っているような安全な所じゃないわ」
女は前を向いたまま、まるで天気の話でもするかのように淡々と告げた。不穏な言葉とは裏腹に、その口元は微動だにしない。
まるで、この廊下のどこかに監視カメラがあり、それを意識しているかのようだ。
良子は一瞬で理解した。この女は本心を隠し、状況を読んでいる。「……この女になら話してもいい」──直感がそう告げていた。
「私は研究者よ。ゾンビの感染源を特定し、ワクチンを作りたいの……そのための機材と物資がいるわ」
その言葉に、女は思わず良子の顔をハッと見た。
一瞬だけ、信じられないといった色が表情に浮かび、唇がわずかに震え、目の奥には焦りと希望が入り混じっていた。
だが次の瞬間、女は呼吸を整え、感情を押し殺したように前を向いた。視線は揺るがず、口元には冷静さを取り戻した微笑みさえ浮かべている。
「無理よ。この国の優秀な科学者たちでさえ、それを特定できていない。研究途中にパンデミックが広がってこんな有様になったのだから……」
淡々とした口調に隠されたその一言に、良子の胸に小さな違和感が走る。──研究途中に、パンデミックが広がった?
それは医者という立場だけでは知り得ない情報だった。
良子は女の横顔をじっと見つめた。彼女は気付かぬふりをして前を向き続け、口元にはあくまでも穏やかな微笑みを浮かべている。だが、その瞳の奥には言葉にできぬ重荷を抱えているのが見えた。
「……貴女、何か知ってるの?」
良子はそう問いかけながら、頭の中で目まぐるしく彼女の情報を組み立てていた。表情のわずかな硬直、言葉の端々に滲む焦燥、そして冷静を装った後の呼吸の乱れ。
彼女の無意識下の反応は、その生い立ちや隠している秘密までも語っていた。
──ジークムント・フロイトの周囲にいたほんの短い間、良子は患者や被験者の観察記録を手伝う程度の雑務を任されていた。
だが、彼が記す走り書きや、患者が漏らす断片的な言葉を、良子は一つ残らず吸収していった。
人間なら何年もかけなければ身につかない理論や技法も、良子の前ではただの「断片情報」に過ぎなかった。
彼女の異質な学習能力は、それを瞬時に統合し、体系的な理解へと昇華させる。
フロイトにとっては雑用係の一人に過ぎなかった女が、実際には誰よりも深く精神分析の原理を理解していた──。
「……父が政府の研究チームにいたの。感染源を調べていた。でも、消息は途絶えたわ」
良子は沈んだ声で語る彼女の言葉に、ただならぬ事情が隠されていることを瞬時に見抜いた。
顔を向けずとも、今の彼女がどんな表情をしているのか容易く想像できる。良子は前を向いたまま、静かに口を開いた。
「貴女がここに居るのは、何か事情があるのね」
落ち着いた口調で話す良子の言葉に、女は改めて驚きを見せた。ただの避難民ではないと感じていたが、その鋭い洞察力は自分の理解を遥かに超えている。
女は目を泳がせながらも、良子に掛けてみようと覚悟を決める。そうするだけの希望が、彼女の姿から滲み出ていたからだ。
「私の名前は伊藤静香……教団側に娘を人質に取られている」
その言葉に、良子の眉間に微かに皺が寄る。頭の中には、ショッピングモールに置いてきた満里奈の姿が浮かんでいた。
以前の良子ならば、気に留めることすらなかっただろう。しかし、満里奈という存在が心の中で大きくなったことで、娘を人質にされているという事実が他人事だとは思えなくなっていた。
「娘さんの年齢は?」
「6歳……こんな事にならなければ、来年小学校に上がる予定だったわ」
静香の声はかすかに震え、唇を噛む仕草に母親としての痛切な想いが滲んでいた。良子は偶然だとは思いながらも、何か運命的なものを感じていた。
6歳という年齢に、またしても満里奈の姿が重なる。その言葉を聞いた以上、放って置く訳にはいかなかった。
良子は一瞬だけ目を伏せ、胸の奥でざらりとした感情が広がるのを感じた。──もし満里奈が人質に取られたら、自分は冷静でいられるだろうか?
考えただけで背筋に冷たいものが走る。
「……わかった。貴女の事情、少しだけ話してもらえる?」
良子の声音には、先ほどまでの探りではなく、確かな共感が混じっていた。静香は医者である自分が何故、カルト教団にいるのかを淡々と語り始めた。
「娘は生まれた時から肝臓が弱く、移植手術が必要だった……。でも、移植のめどは立たず、入退院を繰り返して……今回も意識を失ってこの病院に運ばれてきたの」
静香の声は努めて冷静だったが、握りしめた拳が母としての痛切な思いを雄弁に物語っていた。
「私は内科医だから、薬の処方で症状を抑えることしか出来なかった……。この病院で手術の腕を頼れる外科医は一人だけ──それが教団幹部の牛島だったの。私が言うのも変だけれど、あの人の腕は本物よ……だから娘を託すしかなかった」
「そして、あのゾンビ騒動……。ここにいた医者や看護師のほとんどは逃げ出した。残ったのは牛島と、同じく信者であるわずかな医者や看護師たちだけ。私は……意識を失っている娘を置いて逃げ出せるはずがなかった」
静香は苦い息を吐き、声を落とす。
「隆元も元々ここに入院していた。呼び寄せた幹部たちや牛島と共に、混乱に乗じて病院を掌握した。……あの連中、頭がいいのよ。こうなった時に、何が力を持つのか気付いていた」
「そして……何も出来ずに娘を見守っている時、隆元に言われたの。娘を助けたければ信者になれ、と。ちょうどその時、娘に適合する肝臓が見つかったのよ。でも、その肝臓は本来なら別の患者に回されるはずだった……」
彼女の握った拳が震えた。
「私は娘の命と引き換えに信者になった。──このままでは娘は一年も持たないんだよ!」
良子が低く問いかける。
「奴らは、なんでそこまでしてアンタを取り込みたかったんだ?」
静香は一瞬目を伏せ、それから苦々しく笑った。
「さっきも言ったでしょ。……父が政府の研究チームにいたの。奴らの狙いはワクチンよ。私にも、その研究情報が伝わっていると思っているのね」
良子は短く頷き、視線を逸らさずに問いかけた。
「だいたいの話はわかった。──で、アンタはどうしたい?」
静香の瞳に迷いはなかった。
「娘のためなら、何でもやるわ。本当は医者として患者を救うのが私の義務……でも、娘の命には代えられない!」
その言葉には鋼のような力が宿っていた。良子の胸の奥で何かが震えた。
──この響きは知っている。
ゾンビになった母親に「必ず助けに来るからね……待ってて!」と叫んだ、満里奈の決意と同じもの。
千年も地球にいながら、人と関わらぬようにしてきた自分には決して生まれなかった感情。
だが今なら理解できる。人間が「大切な人の為に何かをしようとする決意」──それこそが強さであり、歴史を動かす原動力なのだと。
数々の文明が栄えては滅びたのも、この小さな決意の連なりの果てにあったのかもしれない。
良子はそれを満里奈を通じ、そして今この女を通じて気付き始めていた。
胸の奥に、かつて覚えたことのない熱が芽生えている。それが何なのか、良子自身まだうまく言葉にできない。
「……私が協力してあげようか?」
そう言って静香を見据える良子の目には寸分の迷いもなかった。
これまで煩わしいものだと思っていた人間の感情が、今は不思議な力となって彼女を突き動かしていた。
その言葉を聞いて呆然としている静香を見て、良子は薄っすらと笑みを浮かべた。
それは人間らしさを帯びた、彼女にとってまだ不慣れな微笑みだった。
だが、その瞬間には確かに──静香の娘を助ける筋書きが、良子の頭の中に鮮やかに描かれていた。
~to be continued~