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第6話:誤解されたままの、胸の痛みは結構きつい

 良子は早速、連れ帰った満里奈の母の身体を調べてみた。

 白衣をまとった満里奈が不安そうに見守る中、良子は身体中の欠損や負傷がないか念入りに確認したが、最初に噛まれた肩の傷以外は見当たらなかった。

 良子はこれまでの戦闘である法則を見つけていた。死臭のするゾンビと、そうでない者の違いは、人間と同様に致命傷を受けているかどうかにあった。

 首を噛みきられて千切れそうな状態でも、頭と身体が繋がっていればゾンビは動いて人を襲う。死んだ状態になっても、何かが脳の命令系統を支配して信号を送っているのだろう。


 幸いなことに、満里奈の母はそれ以外の部分は無傷で、死に至るような傷は見当たらなかった。


「満里奈、まだ希望はあるぞ……」


 良子がそう言うと、満里奈の瞳はみるみる輝きを増した。目の前にいる変わり果てた母親が、元通りになるとは信じられなかった。だが、その言葉は満里奈の胸に微かな希望を灯した。

 自分の娘すら完全に忘れ、人間の感情も失ったこの“生き物”が母親だとは思えなかった。

 それでも、姿かたちには確かにその面影が残っている。

 父から逃げ続ける中で、自分にだけは優しくしてくれた──あの母の思い出が、不意に胸の奥から蘇る。

 目の前で縛られている母を見つめ、満里奈の胸は複雑な感情で渦を巻いていた。


「お姉ちゃん……本当に、お母さんを元に戻せるの?」


 声はかすれ、何度も同じ問いを繰り返している自覚はあった。満里奈はそれでも、聞かずにはいられなかった。


「ああ……必ず元に戻す」


 良子はきっぱりと言い切ったが、その瞳の奥には一瞬、計算するような色がよぎった。


「ただ……今ここにある機材だけでは、正直、足りないものが多すぎる」


 それは慰めのための言葉でもあり、同時に事実でもあった。

 良子は満里奈の不安を理解している。だからこそ、安易に嘘はつけない──だが、希望を奪うこともできなかった。


「そこで……私は隣町の総合病院に行ってみようと思うんだ」


「でも……あそこは……!」


 満里奈の顔がみるみる曇る。毎日のようにここを訪れる避難民の中には、あの病院から逃げてきた者も多かった。

 そんな彼らの証言は、どれも似通っている。──そこには、あるカルト教団が築き上げた“王国”が存在し、難民を歓迎しているが、信者になることを強引に勧めてくるという。

 最初は優しい対応で彼らの胸に希望を抱かせる。温かい食事、寝床、安全な場所──藁にも縋る思いの人々は、迷わずその手を取ってしまう。だが、そこからが地獄の始まりだった。


 教団の中では、教祖と呼ばれる一人の男が“神”として崇められていた。幹部たちがそれを取り巻き、命令は絶対。逆らえば「再教育」という名の拷問が待っていた。

 瞑想部屋と呼ばれる小さな暗室に閉じ込められ、外部からの情報は一切遮断される。食事も水も与えられず、ひたすら教を唱え続けなければならない。

 四六時中、見張りが監視し、睡魔に負けて目を閉じれば──スタンガンの罰が下る。

 やがて彼らの自我は削られ、ただ命令に従うしもべと化す。


 成人の男たちはゾンビを迎え撃つ戦闘員や、物資調達の要因として駆り出され、子供たちは小間使いとして幹部連中に奉仕させられる。

 力のない女たちは夜の相手を強いられ、新たに避難してきた人々の勧誘まで担わされた。

 それでもなお疑問を抱く者は、容赦なく追放される。──ショッピングモールに逃げてきたのは、そんな人たちだった。


 良子にとってそれは、かつて見てきた秩序を失った世界の「終わりの始まり」を意味していた。

 こんな世界になって人は何かにすがりたくなる。だが、彼らはそんな人の弱さを利用し、人々の心を巧みに操っていた。

 “神”という絶対的な存在がいるならば、今の人々の希望となるだろう。しかし、それが紛い物ならば、“権力”を行使する道具に過ぎない。


 教祖という人間がどんな人物かはわからない。だが秩序を失った世界では、そんな仮面などあっけなく剝がれるだろう。

 そうなれば、人間同士の争いが起こり、内部から崩壊していくのは時間の問題だ。

 関わりたくはない──本来なら近づきたくもない場所だ。

 だが、満里奈の母を救うためには、病院にある機材がどうしても必要だった。


「大丈夫だ、満里奈……私は強い」


 確かに良子には、どんな力にも打ち勝つだけの強さがある。

 だが、この時の満里奈は胸の奥でざらつくような嫌な予感を拭えなかった。


「私も行くよ!」


 満里奈の意気込む声に迷いはなかったが、良子の表情はすぐに曇った。

 ゾンビよりも、悪意を抱く人間の方が遥かに恐ろしい──そんな場所に、満里奈を連れて行くわけにはいかなかった。


「満里奈、気持ちは嬉しいが……お前が行っても足手まといだ」


 良子は穏やかな口調で、しかしはっきりと告げた。


「それに、お前がいなくなったら誰がお母さんの面倒を見る?」


 言葉は冷静に選んだつもりだった。だが、満里奈の視線は一瞬も揺れない。その奥底には、固く燃える決意があった。


「……それでも、行く」


 小さく呟いたその声には、何よりも強い意志があった。だが、それでも連れて行くわけにはいかないと──良子は決意を固める。

 このときはまだ、その選択が深い後悔に変わることを、知る由もなかった。


「頼む。満里奈、私はお前が心配なんだ」


 そう言って満里奈を見つめる瞳には、我が子を案ずる母のような思いがまざまざと現れていた。

 普段は見せない温かな眼差しに、満里奈の気持ちが微かに揺らぐ。しかし、その揺らぎを悟られまいと、彼女は何も言わずに視線を逸らす。

 短い沈黙のあと、椅子を引く小さな音だけを残し、満里奈はラボから静かに出て行った。


 良子は、その背中に言葉を投げかけることができなかった。満里奈の胸に渦巻く思いを知りながらも、何と言っていいかわからなかった。

 静かに閉まるドアの音だけが、ラボに残った。


 深く息を吐き、良子は椅子から立ち上がる。──迷っている時間はない。

 すぐさま前島の元へ赴き、満里奈のことを頼む。そして車を貸してくれるよう手配してもらった。

 前島も総合病院に行かせるのは気乗りしなかったが、「自分の妻を元に戻せるかもしれない」──その一縷の望みに賭け、渋々了承した。

 ショッピングモールの入り口には、黒いワゴン車が横付けされ、荷台には工具や空のクーラーボックス、燃料缶が詰め込まれている。

 無言で立ち尽くす若者たちの間を抜け、良子は運転席に歩み寄る。


「……良子さん、気をつけて」


 短く、それでも何かを言いかけて飲み込んだ声。

 その視線に見送られながら、良子は車に乗り込み、ドアを重く閉めた。エンジンを唸らせ、アクセルを踏み込む。

 ショッピングモールの入口に組まれたバリケードは、鉄パイプと廃材で固く閉ざされていたが、見張りの者たちが素早く動き、車一台がやっと通れる隙間を作る。

 外の空気が、わずかな隙間から流れ込み、冷たく肌を撫でた。


 良子はそこを一気に通過し、ミラー越しにバリケードが閉じられていくのを確認する。そのままハンドルを握る手に力を込め、隣町へ向けてスピードを上げた。

 エンジン音に反応したゾンビたちが、一斉に首をもたげ、唸り声を上げながらこちらへ群がってくる。

 腐った肉が揺れ、骨が剥き出しになった腕を振り回し、車道へなだれ込んでくるが、追いつけるはずもない。


 良子はハンドルを小刻みに切り、路肩に放置された車の間を縫うように走り抜けた。サイドミラーに、必死で追いすがるゾンビたちの影が小さくなっていく。

 まるで現役のレーサーさながらの滑らかなシフトチェンジが、彼女の冷静さを際立たせていた。しかし良子は運転免許を持っていないどころか、車に乗ったことすらない。

 身につけた“運転技術”は、世界中を転々としていた頃、暇つぶしに繰り返し見ていた深夜のF1再放送を、頭の中でなぞっているだけだった。

 脳内では、アイルトン・セナやミハエル・シューマッハの走りが寸分違わず再現され、それを自分の手足にトレースしている。

 それは万能の学習能力を持つ良子だからこそできる芸当で、普通の人間には到底真似できないものだった。


 しかも良子は、その正確無比なハンドル操作と並行して、これから向かう病院での作戦を練っていた。

 バイオセーフティキャビネット、インキュベーター、遠心機、抗生物質──必要なものなど数え切れないほどある。

 それらが無傷で残っている保証はなく、たとえ見つけても、簡単に持ち出せるとは限らない。

 噂を聞く限り、病院内にいる人間たちがまともであるとは思えないし、彼らが機材や試薬の重要性をどこまで理解しているかも不明だった。

 むしろ、それらを力の象徴として独占し、他者を支配するために使っている可能性すらあった。


 彼らの頭がカルト教団の教祖であるならば、やはり信者になったふりをするしかないのだろうか。

 しかし、信者になったからといって、そんなモノを持ち出すのは怪しまれるだろうし、簡単に許可するとも思えない。

 下手をすれば、その場で拘束され、二度と外へは出られなくなる──それは満里奈を置いてきた意味すら失わせる結果だった。


 やがて、灰色の空の下に目的の総合病院が姿を現した。窓のほとんどは黒く塞がれ、外壁には風雨に削られた汚れがこびりついている。

 良子は深く息を吐き、覚悟を決めるとハンドルを切って道を外れ、車を近くの茂みに押し込むように隠した。

 後部座席からリュックを引き寄せ、背負い直す。肩に掛かる重みは、これからの危険を予告する鎖のような重圧があった。


 車を離れ、音を立てぬよう病院へと歩を進める。まずは内部に潜入し、彼らがどんな人間かを探るつもりだった。

 不気味なほど静まり返った周囲には、ゾンビの影すら見えない。──その静けさが良子の背筋を冷たく撫でていった。

 病院の門は、侵入者を拒むかのように厚い鉄製ゲートで硬く閉ざされている。良子は息を整え、いつもの覇気のない表情に切り替えると、助けを求めるように声を張り上げた。


「助けてください! ゾンビから逃げてきたんです!」


 その声色は、恐怖で喉が震えているかのように見事に演じられている。

 本当の姿を誰も知らない──それが、良子に“か弱い生存者”という仮面を被らせる最大の武器だった。

 ゲートの前には、白装束で身を固めた門番が立っていた。良子の声にすぐさま反応し、ゆっくりとこちらへ歩み寄ってくる。


「大変でしたね。ここに来れば、もう安全ですよ」


 薙刀のような長柄武器を構えた男たちは、口元だけで笑みを作っていた。だが、その目は氷のように冷たく、笑ってはいなかった。

 白装束の裾から覗く靴は、血でまだらに汚れており、乾ききっていない赤黒い染みがこびりついている。

 良子は怯えたふりを続けながらも、その細部を見逃さなかった。か弱いふりをしたまま、男たちの後に続いて敷地の中に入る。

 その顔にはまるで勝ち誇った笑みが、うっすらと浮かび上がっていた。


 彼女はまだ知らない──この病院の奥に、想像を遥かに超える“異様”が待っていることを。







               ~to be continued~

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