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第5話:壊れた世界でも、親子の絆は侮れない

 次の日から、良子は前島の妻──感染者となった彼女の観察を始めた。

 血液の採取、細胞の培養、身体の微弱な反応の記録。できる限りのことはしたが、ショッピングモールの設備だけでは、正直足りないものが多すぎた。

 かつては賑わいの象徴だったショッピングモールも、病院や研究施設に比べれば、簡易な実験台すらまともに揃わない、“ただの箱”に過ぎない。

 それでも良子は諦めずに手を動かし続けるが、手掛かりなど何も掴めないままだった。人間であれば、絶望や苛立ちが出てもおかしくない状況だが、彼女の表情は変わらなかった。

 ──いや、変わらなかったように見えるだけかもしれない。その無表情の裏で、彼女は別の問題に心を囚われていた。

 満里奈のことだ。


 彼女は良子といるとき以外はいつも一人で、誰に話し掛けられても、心を開こうとはしない。

 同じ年頃の子供たちが声をかけても、満里奈は笑わず、ただ軽く首を振って、すぐに目を伏せてしまう。

 周囲の大人たちは気まずそうに目を逸らし、子供たちは一度声をかけてから、それきり近づこうとしなかった。

 他人に対して強固な壁を作っているように見えるのは、父親のDVの恐怖が、未だに残っているからなのかも知れない。

 満里奈が避難民の中で一人でぽつんと、壁際に座っている姿を見て、良子はゾンビの観察どころではなかった。


(ここに留まったのは、間違いだっただろうか?)


 そう思いながらも、観察を続けて手がかりを見つけなければ、満里奈の母親を救うことはできない。

 脳の奥がじんわりと熱を帯びていく。情報が決定的に足りない──それはわかっている。

 それでも、どんな演算を重ねても、どれだけ冷静に状況を整理しようとしても、最後にはいつも満里奈の顔が浮かんでしまう。


 堪り兼ねた良子は、ついに仮設ラボの中へ満里奈を招き入れるようになった。それが根本的な解決策ではないことは、彼女自身が一番よくわかっている。

 それでも──


「大丈夫だよ」


 そう言って無理に笑う、あの作った笑顔を見るたびに、良子の胸はきしんだ。まるで、自分を心配させまいとしているようで、見ているのが辛かった。

 本当は、同年代の子供たちと元気に遊ぶ満里奈の姿を見てみたい。だが──それは、所詮無理な話なのかもしれない。

 ずっと一人だった満里奈は、どうやって同じ年頃の子供たちと接すればいいのかすら、きっと分からないのだ。


 長い逃亡生活の中で、彼女が気づいたのは──「誰かと親密になれば、決まって父親が現れる」ということ。

 誰かと仲良くなればなるほど、その噂を辿って、あの父親が見つけてくる。そしてまた、逃げる日々が始まる。

 その繰り返しの中で、満里奈は、孤独という選択をするしかなかった。母親もきっと気がかりだったはずだ。

 だが、そうする以外に、自分たちを守る手立てがなかったのだ。


「お姉ちゃん、持ってきたよ~!」


 小さな白衣を身にまとった満里奈が、そう言いながらビーカーを差し出す。その顔には、いつもの子供らしい自然な笑顔が浮かんでいた。

 もう、あの壁際でぽつんと座っていた姿は、どこにも見えない。

 もちろん、これで全てが解決したわけではない。だが良子は、自分が無理に手を差し伸べてはいけないことも、十分に理解していた。


 誰かと仲良くなりたい──そう思えるようになり、その糸口を自分の手で見つけるからこそ、本当の成長に繋がる。

 今、良子が手を貸せば、問題はすぐに解決するかもしれない。だが、それは所詮、一時しのぎに過ぎないのだ。


「ありがとう。やっぱり、満里奈は気が利くなぁ。いてくれて本当に助かるよ」


 そう言って微笑んだ良子に、満里奈は満面の笑みを返した。その顔はくしゃくしゃになっていて、心の底から嬉しそうだった。

 ──もしかしたら、満里奈は良子に、母親の面影を重ねているのかもしれない。

 だからこそ、良子は願っていた。父親の影になど怯えず、これからは──強く、生きてほしいと。


「満里奈、お前の母を……ここへ連れてこようと思っている」


 良子は言葉を選びながらも、満里奈の母親の話を唐突に切り出した。離れているよりも側にいたほうが、満里奈が安心できると思った。案の定、その言葉に満里奈の目に光が射す。


「そのためには、このゾンビと同じように拘束しなくてはならないんだ。……いいだろうか?」


 しかし、次の言葉で満里奈の表情が不意に曇る。視線をそらし、ぎゅっと唇を結ぶ。その仕草には、はっきりとした戸惑いとためらいが滲んでいた。


「……お前の母を、このままにしておくわけにはいかない」


 良子は満里奈の反応に、躊躇いながらも更に話を続けた。あのままでは、いずれ誰かを襲ってしまう。あるいは、逆に殺されてしまうかもしれない。


「元に戻す方法を、考えてはいる。だが……すぐには無理だ。それでも、そばに置いておけば、何かが掴めるかもしれない。そして、それが守ることにもなる。だから……」


 ゾンビになった母親の姿を見せるのは、満里奈にとって過酷なことかも知れない。それでも良子は、あえて厳しい選択を迫っていた。

『必ず助けに来るから』と言った、あの強い信念は、満里奈の心の奥底で今も燃え続けていると、良子は信じていた。

 千年も地球で暮らし、何事にも興味を示さなかった良子が──あの一言で、初めて心を震わせたのだ。


 満里奈は、一度ぎゅっと目を閉じ、それから静かに良子へと顔を向けた。


「私は大丈夫! お母さんを連れてこよう」


 そう言って良子を見つめる満里奈の姿は、あの時と同じ強い決意に満ちていた。

 あのときは──無理だ、無謀だ、どうせもう死んでいる──そう思って、満里奈の決意に呆れてすらいた。

 だが今は違う。

 良子の目には、確かに希望が映っていた。ゾンビと化しても、まだ“完全ではない”者が存在する。ならばきっと、救える命もあるはずだ。


「まずは前島に許可をもらってくる。満里奈、すぐ出発するぞ。支度をしろ」


 良子はそう言い残して、仮設ラボから足早に出ていった。

 残された満里奈の胸には、複雑な思いが渦巻いていたが──どんな形であれ母親に会えると思うと、心の奥底から熱いものが込み上げてくる。


 着ていた白衣を脱ぐと丁寧に畳んで、小さなリュックを背負う。

 ラボの椅子に拘束されている前島の妻──そのゾンビに目を向け、満里奈は静かに拳を握った。


(お母さん……きっと、助けるからね)


 ゾンビを見据えるその胸の奥に、今までとは違う決意が灯っていた。

 ショッピングモールの片隅で、ひとり壁際にぽつんと座っていたあの卑屈な姿は、もうどこにもなかった。


「満里奈、準備はできたか!」


 意気揚々とラボの扉を開けた良子の姿に、満里奈はふっと安堵の息を漏らした。

 前島は、そう簡単に許可を出さないと思っていた。だが、良子の様子を見るかぎり、交渉はうまくいったらしい。


「前島さん、許してくれたの?」


 満里奈が尋ねると、良子はどこか誇らしげに頷いた。


「ああ……こんなになった世界を、元に戻せるかもしれないのだからな。ダメだと言えるはずがない」


 人間離れした良子の力は、前島たちにとって──脅威であり、同時に最後の希望でもあった。

 たとえ“人間”でなかったとしても、彼女の持つ多彩な能力に、すがらずにはいられない。

 この世界が地獄に変わってしまった今となっては、たとえ悪魔に魂を売ることになったとしても……誰も、それを咎めることなどできはしない。

 異星人だという正体を知りながらも──満里奈だって、母の運命を良子に託しているのだ。


「準備はできてるよ。行こう、お姉ちゃん!」


 満里奈がそう言って小さな手を差し出すと、良子はその手をしっかりと握り返した。

 バリケードへ向かう二人の姿は颯爽としており、その背中に、避難してきた人々の視線が自然と集まった。

 見張りの若者たちには、すでに前島からの連絡が伝わっているのか、「大丈夫か?」と声をかけながら、二人のために静かに道を開けた。


「人の気配でも察してるのか……ずいぶん数が増えたな」


 良子がそう言って目を向けるバリケードの向こうには、道を埋め尽くすだけのゾンビが群がっていた。


「お姉ちゃん、大丈夫?」


 あまりの数の多さに、満里奈は不安げな顔で良子を見つめた。しかし、良子は「問題ない。危ないから離れていなさい」と言いながら薄っすらと微笑み、バリケードに使われていた鉄柱を、「バキィィッ!」という鋭い音を立てて引き抜いた。

 大勢の敵を前にして怯みもしないその姿は、まさに戦場の強者。

 鉄柱の一端を地面に叩きつけ、裂け目を尖らせて即席の穂先とする。重さを確認するように一度振ると、空気を裂くような唸りが辺りに響いた。


 その時、良子の頭の中には、一人の男の姿が浮かんでいた。

 ──「桶狭間の戦い」で織田信長の指揮のもと、最前線を駆け、豪胆に敵陣を切り崩した若き槍の名手、前田又左衛門利家。

 あの戦いに歩兵として紛れ込んでいた良子は、見事な槍さばきに魅了され、その動きを脳裏に焼きつけていた。


 ジーンズにTシャツ、ラフな格好でリュックを背負いながら、鉄柱をブンブンと振り回すその姿に、誰もが呆気に取られていた。


「──前田又左衛門利家、推して参る」


 そう言って得意げにキメたつもりだったが、隣の満里奈は目を点にして呆然としていた。


「前田……利家? 誰、それ?」


 戸惑いながら聞き返すと、良子は真顔でキッパリと言う。


「知らんのか? 有名なんだぞ」


 その真剣な表情に、満里奈は思わずきょとんとした。


「……いや、そうじゃなくて! お姉ちゃん、女でしょ?」


「ああ、私は女だ。異国では“ウーマン”とも言うな。……まぁ、その、あれだ。キメ台詞ってやつを、一度言ってみたかったのだ……」


 その言葉で満里奈は呆れたようにため息をついた。


「……いや、もういいよ。でもせめてカッコつけるなら“女武者”の名乗りにしてよね」


「むむ、女武者……では巴御前か? それも良いな、次はそうする! では、参るぞ。満里奈!」


 今までのおチャラけた様子が嘘のように、良子は掛け声と同時に、ゾンビに突進していった。

 ドンッ! という大地を蹴ると同時に、一閃。

 鉄柱が巨大な弧を描き、先頭のゾンビ三体を同時に叩き伏せた。さらにそのまま突き、振り払い、回転しながら一撃ごとに数体を吹き飛ばす。

 他の群れがそれに気づき、一斉にうねるように襲いかかってくるが、声なき咆哮とともに、鉄柱が左右に薙がれ、ゾンビたちの身体が宙に舞う。


「はあああああっ!」


 突き、払い、踏み込み、捻り。まさに戦場で鍛えられた武士のそれだった。


「……戦国武将みたい……!」


 その動きに満里奈は圧倒され、立ち尽くすしかなかった。


「ひ、人間じゃない……」と誰かが呟く。

 だがその異質な光景に、誰も恐怖ではなく──希望を感じていた。


「満里奈! 通れるように道を開く。ついて参れ!」


「う、うんっ!」


 良子の言葉に満里奈は思わず走り出した。そして良子が切り開いた細い突破口を、満里奈は必死に駆け抜けた。

 倒されたゾンビたちが足元で呻きながらのたうち回る。そのたびに、鉄柱がうなりを上げ、再び沈黙が訪れる。


「もう少し……こっちだ!」


 満里奈は、頭の中の地図を頼りに母のいた方角を思い出しながら、良子を背中を追い続ける。


「お姉ちゃん、あと二つ角を曲がったら──!」


「わかった!」


 その時、横道から不意にゾンビの群れが飛び出した。思わず足を止めそうになった満里奈の目に、変わり果てた母親の姿が映り込む。


「お……母さん……?」


 そう言って呆然と立ち止まる満里奈を横目に、良子は表情も変えずにリュックからロープを取り出した。


「満里奈! お前の母を拘束するぞ!」


 良子の短く鋭い声が響く。だが、満里奈は青ざめた顔で立ち尽くし、返事すらしない。

 足元から力が抜け、膝が震える。目の前の存在が、脳の認識を拒む。


 ──あれは……お母さんじゃない。


 唸り声を上げ、紫がかった顔に涎を垂らすその姿は、記憶の中の優しい母の面影を少しも残していなかった。

 手を伸ばせば抱きしめてくれたはずの温かな腕が、今は自分を殺すために伸びてくる。かつての母との記憶が、この“化け物”の出現で、ぐしゃぐしゃに壊れていた。


 膝が震え、視界が滲んだその時──後ろから、ポン、と肩を叩かれた。


「満里奈、シッカリしろ」


 低く、しかしはっきりとした声。振り向けば、良子の瞳が真っすぐに自分を見据えていた。


「お前の母は、まだ死んではいないんだ」


 その言葉で、満里奈はハッと我に返る。

 目の前で超人的な力を見せるこの良子が──『元に戻せる』と、迷いなく言ってくれている。


 胸の奥で、わずかに凍りついていた何かが溶けた気がした。

 今はこんな姿でも、母はもう一度あの優しかった頃に戻れるのかもしれない。

 ならば──まだ、諦めるわけにはいかないと満里奈は心の中で覚悟を決めた。


「……助けられるの?」


 そう言って満里奈が問いかけると良子は力強く頷く。


「お姉ちゃん、お願い! お母さんを拘束して!」


「よし! わかった」


 その瞬間、良子は腰を低く落とし、片手でロープの端を握りしめる。ギュッと音がするほど強く握り、反対の手で素早くループを作ると──シュルッ、と鋭い音を立ててロープが宙を走った。


「ぐぇぇー……」


 変わり果てた母親の口から、獣のような声が漏れた。

 同時に、宙を走ったロープがその身体に巻き付き、ギシギシと軋むほど硬く縛り付ける。


「……お母さん……」


 濁った目が、まっすぐこちらを見据える。そこには人間らしい生気もなく、ただ淀み切った暗闇だけが底なしに広がっていた。

 その視線に吸い込まれそうになった瞬間──背後から、良子の短く鋭い声が飛ぶ。


「満里奈! まだ終わっていないぞ!」


 良子はそう叫びながらロープを手繰り寄せて、他のゾンビたちを鉄柱で薙ぎ払っている。満里奈はいまだに動揺していたが、良子が必ず何とかしてくれると信じていた。


「帰るぞ……」


 良子はそう言いながら母親の口に猿轡を噛ませ、さらに縄を二重に締め上げる。


「よし……もう暴れられまい」


 そして、そう呟くと、肩に母親の体を担ぎ上げた。


「満里奈、前を走れ!」


「う、うん!」


 満里奈は必死に足を動かし、良子はその背中を守るように後退しながら鉄柱を振るう。鈍い音とともにゾンビが弾き飛ばされ、飛び散る破片が地面を叩く。

 息が詰まりそうな緊張の中、それでも──

 満里奈は背後から聞こえる、一定のリズムで響く鉄柱の音に、不思議な安心感を覚えていた。

 そして、見覚えのあるバリケードが視界に入った瞬間、満里奈の胸に温かな光が差し込んだ。──きっと、母と笑い合える日がまた来る。そう思えた。








               ~to be continued~

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