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第4話:千年を超えて初めて貰った、人のぬくもりは温かい

 良子の看護によって、ショッピングモールに避難していた多くの人々が救われた。

 それは単なる外傷の手当てではなく、この場にいる誰もが捨てざるを得なかった「希望」という感情を、わずかにでも思い出させるものだった。

 世界が壊れ、未来が見えなくなったこの状況に、彼らはすでに諦めを受け入れていた。

 けれどナイチンゲールを思わせる彼女の看護は、こんな世界でもどうにかなるかも知れないという、希望を人々の胸に湧き上がらせていた。


「……助かったよ。これくらいで、足りるだろうか?」


 そう言って食料と飲み物を渡すここのリーダーは、前島という男だった。少し後悔が滲んだその顔は、良子たちを引き留めておきたいという願望が現れていた。


「交換条件だから、お礼はいらない。……これで、1週間は大丈夫だ」


 良子はそう言いながら、淡々とリュックに食料を詰める。そして珍しく、得意げに満里奈を見つめた。

 食料の袋の中には、お菓子もいくつか混ざっていた。──それを満里奈に食べさせられると思うと、不思議と嬉しかった。

 人のために何かをして、こんな気持ちになったのは初めてだった。その顔には、かすかに笑みが浮かんでいる。

 満里奈もまた、お菓子など初めて見るかのように、目を輝かせて袋をのぞき込んでいた。良子の表情には相変わらず大きな感情の起伏は見られないが、二人の間には、傍から見ても明らかな温もりが生まれていた。


「……すぐに行ってしまうのか?」


 その穏やかな時間を破るように、前島が声をかけてきた。


「ああ……もう用はないからな」


 良子がそっけなく返すと、前島の顔が曇る。


「……実はな。もう何人か、アンタに見てもらいたい人間がいるんだが……」


 前島はそう言いながら、額からダラダラと汗を流している。視線を漂わせ、落ち着かないその様子に、良子の中に嫌な予感が生まれていた。


「……感染した人間がいるのか?」


 良子の鋭く静かな問いに、前島は返事をしなかった。その沈黙が、何よりも雄弁にすべてを物語っていた。

 そしてその言葉──「感染」という単語が、満里奈の心にも刺さる。お菓子の袋を嬉しそうに覗き込んでいた手が、ぴたりと止まった。

 満里奈の表情が陰り、良子はそれに気づくと静かに目を伏せた。


「ここに居る人間の家族なんだ……私の家族も居る」


 前島は涙を流しながら縋るように話すが、ゾンビをどうにかする方法など、今の良子には思い浮かばない。研究者としての知恵はある。だが、この避難所にあるのはわずかな食料と粗末な毛布、

 消毒液どころか、清潔な水すら満足に手に入らない。

 こんな場所で病原を研究するなど、土台無理な話だ。


 そんな時、良子の脳裏に一人の男が浮かんだ──ルイ・パスツール。


『病気は、目に見えぬ微生物の仕業だ』

 そう喝破し、顕微鏡と消毒という文明の光で世界を塗り替えた男。彼が挑んだのは、目に見えぬ敵だった。

 ならば自分も──目の前のこの、死してなお動く「何か」を理解できるのではないか?

 だが、そのためには何が必要なのか? 何が足りないのか? 満里奈の為にも、良子は自分がやらなければいけない気がした。


「感染者はどこだ?」


 良子が短くそう告げると、前島の顔に希望の光が差す。ついさっきまで恐怖の対象だったはずの女が、今では唯一の頼みになっている。

 その規格外の力、冷静さ、そして子供を守る姿──

 得体の知れぬ存在ではあるが、「もしかしたら」を託すに足る何かが、彼女にはある。


「──こっちだ」


 そう言って前島が歩き出す。良子は無言で頷くと、満里奈の手を握り、静かにその後を追った。

 前島に連れられて、ショッピングモールの奥へと進む。

 倉庫とスタッフ用通路を抜けた先、重たい金属製の扉の前で彼は立ち止まった。


「ここに……閉じ込めてある。元は、俺の嫁さんだった……」


 その手が震えている。ドアノブにかけた指先が、力なく揺れた。


「元に戻せるかは……わからない。けど、自分の嫁さんを見殺しにするなんて……俺には出来ない。他の奴らだって、そうだ……」


 良子は何も言わず、ドアの前に立つ。

 内側には仮設のロックが掛けられており、ドア越しに時おり微かな音が響いていた──爪で引っかくような音。そして、呻くような低い声。

 良子は慎重にロックを外し、ゆっくりとドアを開けた。


※ギィィ……


 その隙間から、微かな光が差し込む。埃が舞う薄暗い室内に、一人の女がロープで椅子に縛り付けられていた。肌は青白く、目はうっすらと濁っている。

 しかし、この女からは死臭が漂っていない。無数のゾンビを相手にしてきた良子は、一つだけ気付いたことがある。

 死臭がするものと、そうで無いもの。死臭のするものは完全に死んでいて、ワクチンができたとしても元には戻らないだろう。

 殺戮を繰り返してきたように見えるかも知れないが、良子の中には確かな「線引き」があった。死臭の有無、体温、反応──それらを瞬時に判断し、"希望の無いもの"だけを殲滅してきた。

 まだ戻れる可能性があると見れば、足や関節を狙って行動不能にとどめ、その命を“保留”していたのだ。


 良子はロープで椅子に縛られた女の様子を観察する。

 かすかに揺れる胸。浅く速い呼吸。唇の端に乾いた血の痕──しかし新鮮ではない。

 脈がある。体温も、極端には下がっていない。


「……まだ完全なネクロシス(壊死)は起きていない。生理反応は残ってる」


 良子は呟きながら、女の目をのぞき込む。濁ってはいるが、光に対してわずかに瞳孔が反応した。


「反射じゃない……意識の断片が、まだある」


 背後で見守る前島が、声をひそめて尋ねる。


「助かる……のか?」


 良子は答えなかった。答えられなかった。


 ただ、この場で自分がすべきことが何かは、はっきりしていた。

 ──これは、ただの看護では足りない。

 病理学、免疫学、神経伝達の全てを駆使しなければならない。


「この女……いや、患者はここで隔離を続けろ。可能なら、食塩水と綿、アルコール、体温計、それから──光源と記録用具を用意して」


「そ、そんなもんで何が……」


「……観察する。それが第一歩だ」


 それはかつて、ルイ・パスツールが試験管の中で菌を観察したように、誰にも理解されずとも、根気強く、一つ一つの事実を積み重ねる姿だった。

 良子の表情は、冷たくも、どこか静かな覚悟を宿していた。ここで何かを見つければ、それは──人類そのものへの希望となるかもしれない。


『満里奈、ここに少し滞在するが……良いか?』と言おうとしたが、良子は声を押し留めた。その前に満里奈には、自分の口から全てを話したいと思っていた。


「今日はもう遅い。私たちは先に休んでもいいか?」


 良子がそう言うと前島は目を輝かせた。


「それは、何とかなるっていうことか?」


「わからない……だが、私なりに全力は尽す」


 良子の力強いその言葉に、前島は何も返さなかった。だがその目には、どこか救われたような光が戻っていた。

 やがて彼は「空いてるところを好きに使ってくれ」とだけ言い残し、静かにその場を離れていった。


 満里奈は何も言わず、ただ良子の手を強く握り返していた。電気の通っていないショッピングモールは、薄暗く、どこか湿気を帯びている。

 良子は満里奈の手を引きながら、2人で落ち着けそうな場所を探して歩き始めた。

 たどり着いたのは、シャッターの下りたアパレルショップの一角。衣類の並ぶ棚の陰に身を沈め、ようやく腰を下ろす。


 リュックを開けると、良子はさっそくお菓子の袋を取り出した。


「食べたかったんだろ? 食べていいよ」


 封を切り、包みをそっと差し出す。満里奈は目を丸くし、そして、満面の笑みを浮かべてそれを受け取った。

 ゆっくりと一つを口に運び、嬉しそうに目を細める。その顔を見て、良子もまた、ほんの少しだけ唇を緩めた。


「少しここに滞在しようと思う。……満里奈は、それでいいか?」


 良子が問いかけると、満里奈は黙ったまま、小さく頷いた。今ここに留まることが、自分の母を助けるための最初の一歩なのだと──満里奈は、まだ幼いながらも、どこかでそう感じていた。

 お菓子を口にしながらも、時折、そっと良子を見上げる。その瞳には、確かな信頼の色が宿っている。

 良子はそんな満里奈の髪に、ゆっくりと手を伸ばし、静かに撫でた。


「……それと、満里奈にだけは、私のことを話しておこうと思う」


 いつもは何をするにも気だるそうな良子の顔が、そのときばかりは、不思議と引き締まっていた。

 真剣な眼差しが、満里奈の目をまっすぐに捉えている。


「実は……私は異星人なんだ……名前はハイドロ・マーメリック」


 一瞬、時間が止まったように静かになった。

 満里奈はお菓子を持ったまま、ぽかんと大きく口を開けた。大きな目をさらに丸くして、良子の顔をじっと見つめる。


 ──え? 何それ、冗談?


 そんな言葉が今にも口からこぼれそうな、なんとも言えない表情。信じたいけれど、どう受け取っていいのかわからない。

 それでも、良子の顔には、冗談とも、虚勢とも取れるような“逃げ”は一切なかった。

 まるで、命を賭けて真実を打ち明けているような、その目に──満里奈はただ、黙って見入っていた。


「ま、待って……異星人って……?」


 満里奈は思わず声を上げた。確かに良子のすごさには、ずっと“普通じゃない”何かを感じていた。ゾンビをいとも簡単に倒す力、冷静さ、判断力──。


 でも、“異星人”って……それって、あれでしょ?


 満里奈の頭の中で、タコのような宇宙人の姿がぽん、と浮かぶ。触手に大きな目玉、ぷよぷよした体……。


(じゃあ私……今まで、タコの手を握って歩いてたってこと?)


 想像した瞬間、満里奈の顔からみるみる血の気が引いていく。


「……た、タコじゃないよね……?」


 目を泳がせながら尋ねるその姿に、良子は思わず吹き出しそうになった。


「姿かたちも、身体の仕組みも、人間とほとんど変わらないよ。ただ……私たちの寿命は長い。二千年近く、生きてきた」


 笑いを堪えながら、良子は優しくそう言った。たった今まで、自分が異星人であることを告げるというのは、冷たい告白のように思っていた。

 だが、満里奈の表情がくるくると変わっていくのを見ているうちに、不思議と胸の奥が温かくなっていた。


 こんなふうに誰かと話すのは初めてだった。

 自分のことを、正直に、隠さずに──そして、それを怖がらずに聞こうとしてくれる相手がいることが、こんなにも心地よいなんて。


(人間って、案外悪くない)


 良子は、そんなふうにさえ思っていた。しかしその隣で──満里奈はいまだ軽くパニック状態に陥っていた。

 頭の中では「タコ星人」が触手を伸ばし、自分の身体をグルグル巻きにする妄想が止まらない。

 そんな時、良子は満里奈の両手を握りしめて、おでこをコツンと合わせた。その瞬間──満里奈はハッと我に返った。


「ここでゾンビを研究して、お前のお母さんを助ける方法を見つけてみせる。信じてくれるか?」


 握られた良子の手は、あたたかかった。見上げれば、いつも無表情だったはずの良子の顔に、人間らしい笑顔が浮かんでいた。

 無言のまま、見つめ合う二人。そこにはもう、種族も年齢も越えた、確かな信頼の糸が張られ始めていた。


「あの時から、ずっと信じてるよ。お姉ちゃんが『付いて来い』って言った時から……」


 満里奈はそう言って良子にニコっと微笑んだ。その瞳はまっすぐに良子を見つめ、疑いも不安もなく、ただまっすぐな信頼だけを湛えていた。


 トラブルを避けるため、ずっと正体を隠して生きてきた。けれど今、目の前のこの少女には──怯えも、恐れも、珍しいものを見るような好奇心すらない。

 その澄んだ瞳に見つめられているうちに、なぜだか── 良子の目から、ぽろりと涙がこぼれ落ちた。


「満里奈、私の全てを話そう。なぜ、私がこの地球に居るのか。なぜゾンビを恐れないのか。そして、私が持つ“能力”のことも……」


 口調こそ静かだったが、その声には胸の奥底から滲み出るような重さがあった。良子は震える指先で、満里奈の手をそっと包み込んだ。

 真剣な眼差しで語られていく良子の話に、満里奈は聞きこんでいった。聞いたこともない星の名前。墜落した宇宙船の話。千年前、旅の途中で地球に降り立ち、そこで事故に遭ったこと。

 そして、彼女の“人間離れした能力”は、その惑星の民が持つ──

 筋肉の動かし方から脳の使い方まで模倣できる、極めて高度な学習能力によるものだった。

 何事にも無関心な良子の星の生命体には、ゾンビなどという存在も、観測対象でしかなく、恐怖ですら無かったのだ。


 そんな話を聞いて、満里奈の心に一つの疑問が生まれていた。


「千年かぁ……寂しくはなかったの?」


「寂しい……その感情もよくわからない……」


 良子はそう答えながらも、一瞬だけ視線を遠くに泳がせた。

 遥か昔、地球の片隅でひとり身を隠しながら人間の暮らしを模倣し、ただ生き延びるだけの時間──それは確かに「孤独」と呼べるものだったのかもしれない。


「……ただ、誰かと手を繋いで歩いたことはなかったな。何かを食べて笑い合うことも、夜に誰かの寝息を聞くことも……」


 そう口にして、自分の言葉に少し驚いたように目を伏せる。


「それが……“寂しい”ってことだったのかもしれないな。満里奈と過ごしてから、身体のどこかが軽くなった気がする。地球で初めて、時間が“あたたかい”と感じた」


 静かな声だったが、それは満里奈の胸に深く染み入った。無表情だったはずの良子の顔が、今はほんのりと和らいでいる。

 満里奈は、そっと良子の肩にもたれかかった。まるで、寒い夜に寄り添う動物のように。


「お姉ちゃん、ずっとひとりで頑張ってきたんだね……わたしがずっと一緒にいるからね。母さんが元に戻っても、離れたりしないよ」


 その言葉を聞いた時、良子は初めて、自分の胸の奥に“熱”のような感覚が生まれていることに気づいた。

 それは、母星では一度も味わったことのない、人間特有の──「ぬくもり」と呼ばれるものだった。







                ~to be continued~

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