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第3話:脅威を感じる、人の弱さがわからない

 昨日はあまりにも多くのことが起こった。それで疲れ切っていたのか、満里奈は良子の膝の上で深く眠っていた。

 母の変わり果てた姿を目にした衝撃は、あまりにも大きかったのだろう。眠っている間も、満里奈の頬をつたって、静かに涙が流れ続けていた。

 良子は一晩中眠らずに、周囲を警戒していた。だがその目は、ときおり泣きながら眠る少女に向けられていた。

 この胸の痛みが何なのか、彼女自身にはまだわからない。ただ、確かなのは──この小さな命を守りたいという気持ちが、刻一刻と強くなっていたことだった。


『もしかしたらお前の母親を助ける手立てが見つかるかもしれない』


 あのとき、そう口にしてしまった。だが──その方法など、今の良子にはまったく思い当たらない。


 かつて訪れた別の惑星でも、同じような変異が起きたことがあった。だがその星では、感染は止まらず、生命は跡形もなく滅びていった。

 それが病原菌であれ、ガス兵器であれ、正体は不明だ。

 ましてや、何事にも干渉せず観察者であり続けてきた良子にとっては、なおさらその手がかりさえ掴めない。


 ……それでも、なぜあんな希望を口にしたのだろう? あの時、確かに「満里奈と一緒にいたい」と、強く思った。

 理由はわからない。けれど、心の奥にほんのりと灯ったような温かさが──ただ、心地よかった。

 それは計算や理屈では説明できない、不可思議な感覚だった。だからこそ、忘れたくないと思った。


「お母さーん!」


 良子の膝で眠っていた満里奈が、叫びながら飛び起きた。恐怖に顔を歪めたその瞳には、昨日の出来事の記憶がまだ焼き付いているようだ。

 良子は何も言わず、リュックから水のボトルを取り出し、静かに差し出した。無表情な良子の顔を見た瞬間、満里奈はほっとしたように力を抜き、水をゆっくりと口に含む。


「ほら、これも食べなさい」


 そう言って良子の手から差し出されたのは、またしてもドッグフードだった。缶詰を見つめる満里奈の顔に、一瞬わかりやすい陰が差す。

 人間の子どもにとって、この食べ物は“食事”ではない──その反応を見て、良子は小さく息を吐き、決意を固めた。


「それ食べたら、ちゃんとした食料を探しに行く。だから今は我慢して、食べて」


 リュックに入った水と保存食も、もう数日分しか残っていない。どこかの時点で、補給は必ず必要になる。

 良子の頭の中で、この辺の地図が浮かび上る。少し歩けば大型のショッピングモールがあったはずだ。そこにはまだ大量の物資が残っているかもしれない──だが同時に、それを狙っているのは自分たちだけではない可能性もある。


 人が集まれば、争いが生まれる。かつて別の惑星で見た、生存のための衝突。その記憶が、良子の中で静かに警告を鳴らしていた。

 満里奈が食べ終えると、良子はリュックを背負い、その手を取って立ち上がる。そして河川敷を後にし、ふたりは再び街へと向かった。


 市街地に近づくにつれ、ゾンビたちの数が増え、行く手を阻む。だが、良子は怯むことなく包丁一本で次々と敵をなぎ倒していった。

 その動きは流れるように滑らかで、まるでテレビの中で見るヒーローのようですらあった。満里奈に襲い掛かってくるゾンビたちも、手前で仕留められ満里奈を危険な目にも会わさない。

 昨日は動揺と混乱の中で見逃していたが、改めて目にした良子の戦いぶりに、満里奈はただ呆然と立ち尽くした。

 暴力を振るう父の姿を嫌というほど見てきたが、それとはまるで別物だった。

 怒りに任せた暴力なんかと比べるまでもない。無駄な動きを一切せずに、確実にゾンビを一撃で仕留めている。

 それは恐怖ではなく、守られているという安心感。そして何より、どこか憧れに似た気持ちが、胸の奥に芽生えていた。


「……カッコいい」


 思わず漏れたその一言も、良子は気づいていない。息一つ切らさず、邪魔になるものを排除していく姿は、洗練されたマシーンのようだ。

 ゾンビの一体を片手で壁に叩きつけたとき、良子の表情は終始変わらなかった。まるで、そこに感情というものが存在していないかのように──。


 満里奈はそっと、良子の手を見つめた。細くて白いその指は、自分と同じように華奢だ。けれど、さっきまでその手は、大人の男のゾンビを軽々と投げ飛ばしていた。

 小さな疑問が、満里奈の心にぽつりと芽生える。


(なんで、こんなに強いんだろう……?)


 満里奈は目を伏せ、良子の横顔を盗み見る。どこか遠くを見つめるようなその瞳には、人間らしい焦りも恐れも映っていなかった。

 あの包丁だって、どこかのキッチンで見たありふれたものだ。でも、良子が持つとまるで“アニメの中の剣士が持つ名刀”にしか見えなかった。


(この人、本当に普通の人なのかな……?)


 歩きながら、ふと良子の影が“人間”ではない何かに見えた気がして、満里奈はぶるりと身震いした。

 満里奈はそれでも──その手を離そうとは思わなかった。


「良子さんって、前は……何してたの?」


 満里奈の突然の問いかけに良子は不思議そうな顔をした。


「市場でアルバイトをしていた……いわゆるフリーターってヤツだ」


「えっ?」


 良子の答えに満里奈は一瞬ポカーンとした。聞きたかったのはそういうことじゃなく、強さの秘密だったからだ。

 なのに良子はゾンビを蹴散らしながらも真顔で答えている。冗談を言ってるんじゃないという、その真剣さが何故だかとっても可笑しくて、思わず笑っていた。

 満里奈は思わず吹き出し、そのまま笑いが止まらなくなった。自分でも何がそんなにおかしいのかわからなかったけど、きっと、緊張がほどけたのだろう。


「そっか、フリーターかぁ……強いフリーターさんだね」


 そう言って目元を拭いながら笑う満里奈を、良子は少しだけ不思議そうに見つめていた。


「なんで笑うんだ?」


「ううん……ごめん。ちょっと可笑しかっただけ」


 満里奈はそう言って、良子の手をもう一度しっかり握りしめた。

 夏の日差しは強く、アスファルトの上で死体の匂いがわずかに漂っていた。だが、その手の温もりだけが、今の満里奈を支えていた。


(やっぱり、変な人だな……でも──この人のそばにいれば、きっと大丈夫だ)


 そう思いながら顔を見上げると、良子は前を見据えながら不意に立ち止まる。視線の先はショッピングモールだが、車やカート、棚を積み上げたバリケードが敷かれ、ゾンビの行く手を阻んでいた。

 良子は少し目を細め、バリケードの構造をじっと見つめていた。車両やカートの積み方に、人間の気配が見えたのだ。


「……人間が組んだな。ゾンビじゃ、こんなふうにはできない」


「じゃあ、中に人がいるってこと?」


 満里奈の問いに、良子は頷きも否定もせず、そっと背後に手を伸ばした。満里奈を守るように、自分の背中へと隠す。


「何か動いた」


 その一言で、満里奈は息を呑んだ。音もなければ、気配すら感じなかったのに──良子には“見えた”のだ。

 良子は包丁の柄に手を添えたまま、視線を動かさず、口だけで呟く。


「静かに。こっちを見てる」


 そして──モールの屋上、陽炎の揺れるその向こうで、何かがスコープの光をきらりと反射させた。

 それと同時に、レシーバーを肩に掛け、クロスボウやゴルフクラブを手にした若者たちが、バリケードの上に一斉に姿を現した。


「止まれ! ここは立入禁止だ、何者だ!?」


 一人が緊張した声で叫ぶが、その瞳には良子への明らかな怯えが滲んでいた。

 包丁一本でゾンビの群れを蹴散らし、塵を踏みしめて静かに迫ってくるその女──どこにでもいそうな二十代半ばの女のはずなのに、そこには戦場を駆ける一騎当千の武将のような威圧感があった。


「私たちはここに長居するつもりはない! 食料を少し、分けて欲しいだけだ!」


 良子の叫びは、どこか機械的で感情の起伏がない。それがかえって、周囲の者たちの背筋を凍らせた。

 その場に居た誰もが、青ざめて顔を見合わせた。自分たちが恐れているゾンビを、目の前にいる女は全く恐れていない。

 それどころか、噛まれたら感染してしまうというのに、まるで自分には関係ないと言いたげに、躊躇なくゾンビに近付き仕留めていく。

 同じ人間とは思えない殺戮マシーンのような良子は、彼らにとっての脅威だった。固い絆で結ばれた味方ならば問題ないだろうが、自分たちに牙を向けられたら、ここはあっと言う間に壊滅してしまうだろう。

 若者たちの後ろからリーダーと思われる、40代くらいの男がバリケードの上に姿を見せた。


「ここには100人程度の人間が非難している……病人や負傷者もたくさんいるんだ……他の者に食料を渡す余力など無い……」


 男の声は微かに震えていた。目の前で繰り広げられる圧倒的な力の前に、良子の言葉は脅しとしか思えなかった。

 リーダーのように祭り上げられているが、自分から進んでなった訳じゃない。体育教師という職業上、自分が彼らを引っ張っていくしかなかったのだ。


「そうか……負傷者か……だったら私が見てやっても良いぞ」


 良子はそっけなく言った。本当は面倒だったが、それと引き換えに食料を分けて貰おうと考えていた。

 しかし、上から目線の良子の言葉に、彼らは唖然とする。目の前でゾンビの首を躊躇なく跳ね飛ばす女が、医者や看護師とは到底思えなかったからだ。


「お前は何だ!? 医者じゃないだろう!」


 若者の一人が叫ぶと、他の者たちも一斉にざわついた。無理もない。殺戮マシーンのようにゾンビをなぎ倒している女が、『治療もできる』などと涼しい顔で言っているのだ。


「ああ……医者じゃない。市場の八百屋でアルバイトをしている。でも、医療行為は学んでいるから、そのくらい出来るぞ」


 その言葉に彼らは混乱していた。何を言っているのか理解できなかった。地味で冴えない良子の見た目は、とてもそんな技術を持ってるようには思えない。

 しかし、その冴えない女が武芸の達人のように、ゾンビを軽くあしらっているのだ。

 そんな時、良子の背後から満里奈がひょこっと顔を見せた。誰もがそれに驚き、「子供?」と一斉に声を上げる。


「お姉ちゃんは凄いんだよ。私のケガも縫って貰ったんだ。ほら、ここ!」


 満里奈はそう言ってケガをしたところを見せるが、彼らは全く別のことに驚いていた。子供を守りながら人間離れした動きを見せて、息も切らしてないのだ。

 しかし、弱き者を守っていたという事実が、彼らの警戒を少しだけ解いていく。


「お姉ちゃん? 姉妹?」


 誰かがつぶやくと、満里奈は笑って首を横に振った。


「ちがうよ。お姉ちゃんじゃないけど……昨日、助けてくれたの」


 満里奈の声はまだ幼さを残しつつも、どこか誇らしげだった。

 その言葉に、一部の若者たちの顔に迷いが浮かぶ。人を助けながらここまで来た、という事実が、良子をただの脅威とは言い切れなくさせていた。


「わかった……交換条件だ。ケガ人や病人を見てくれたら、お前たちの分の食料を分けてやろう……」


 リーダーの男がそう言うと、バリケードの上の若者たちが不安げに顔を見合わせる。そして、「梯子を下ろしてやってくれ」という次の言葉で、若い男の1人が渋々、梯子を下ろそうとした。

 しかし、良子は「その必要は無い」と言って、満里奈をヒョイと抱えたままバリケードを軽く駆け上がる。その人間離れした身体能力に、またしても彼らはざわついた。


「……何者なんだ、あの女は……」


 リーダーの男が困惑気味に呟く。若者たちはざわつきながらも、良子の為に道をあけた。


「わからん……けど、あれだけの動きができて、子供を守り抜いてここまで来た奴だ。下手なことはできねぇよ」


 一人がそう答え、周囲も黙るしかなかった。

 良子はバリケードの内側に足を踏み入れると、満里奈をそっと降ろし、リーダーに向かって言った。


「診るべき人間はどこだ?」


 その冷静すぎる声に、男は一瞬返答をためらったが、すぐにうなずいて手を差し出した。


「ついてきてくれ。──正直、俺たちも手を貸してくれるなら助かる」


 引き攣った顔でそう話す男の後に続くと、良子はショッピングモールのロビーで、横たわる大勢の人間を目にした。

 その時、フローレンス・ナイチンゲールと共にした時の記憶が一時的に蘇る。仄かに漂う血の匂いと、あのナイチンゲールの後ろ姿、喧騒のなかで聞いたあの静かな声──。

 モールのロビーは、段ボールと毛布で仕切られた仮設の病棟のようだった。空気はこもり、消毒の匂いはしない。あちこちからうめき声が漏れ、誰もが疲れ切った目をしている。

 良子はしばらく黙って立ち尽くしたまま、人々の姿を見つめていた。血で濡れた包帯、擦れた皮膚、乾いた唇──そのすべてが、遠い記憶と重なる。



 ──暗い石壁の廊下、カンテラの炎が揺れる。

 血と膿の混ざった臭い。

 ナイチンゲールは静かに患者の枕元に立ち、口を開く前にまず手を洗っていた。

 その手が、すべてを語っていた。「あなたを人間として扱います」と。



 良子は一端息を吐き、埃まみれのバケツに水を汲むと、自らの上着を脱いで袖をまくった。


「──ここにいる全員、水が足りない。感染も拡がる。まず手を洗わせて」


 声は低く穏やかで、命令でも懇願でもない。ただ、確信に満ちていた。

 周囲の者が戸惑う中、良子は一人、傷の消毒と洗浄を始める。バケツの水を分け合いながら、一人ひとりにタオルを手渡し、名を尋ねることも忘れなかった。


「あなたの名前は?」


「……高田、貴也……です」


「高田さん、ここが痛みますか?」


 その手つきに、威圧も冷たさもない。ただ、機械的な正確さと、見落としのない観察力──そして何より、“人として扱う”という強い意志が込められていた。

 やがて、彼女の手際の良さと落ち着いた振る舞いに、周囲は少しずつ声を潜めていく。助けられている者も、見守る者も、「この人は信頼できる」と感じ始めていた。



 フローレンス──私は、あの時、あなたの背中を見ていた。

 あなたが人間の命を“戦場”で扱ったように、私もいま、ここでそれをする。



 良子の中で、戦士としてのスイッチは音もなく切り替わっていた。良子はロビーに置かれた古びた救急箱を開け、中身を吟味する。包帯、消毒液、針金、ガーゼ──限られた物資でも、やれることはある。


「この骨折、応急処置はされてるけど固定が甘い。誰か、板切れか厚手の雑誌を持ってきて」


 即座に指示を飛ばす良子。その声に、若者の一人が無言で頷き、モールの廃材置き場へと駆けていった。


「縫合が必要な傷は私が見る。感染の疑いがある人はこっちにまとめて」


 良子は、躊躇なく他人の血や膿を扱いながらも、一人ひとりに目線を合わせる。そのたびに名前を尋ね、容体を聞き取り、処置の前に必ずこう付け加える。


「痛いけど、ちゃんと終わらせるから。──あなたを見捨てたりはしない」


 その言葉に涙ぐむ女性もいた。周囲の目が少しずつ変わっていくのが、空気で分かる。やがて、良子の横に、満里奈が小さな医療バッグを手に現れた。


「お姉ちゃん、これ、さっき落ちてたの拾った。まだ使えるよね?」


「よく見つけたな。包帯と、これ……抗生物質か。助かる」


 良子は満里奈の頭を軽く撫でる。2人のやり取りを見ていた少年が、ぽつりと呟いた。


「……化け物じゃないかと思ったけど、ちゃんと“その子のお姉ちゃん”なんだな」


 誰かが笑い、また誰かが泣いた。リーダーの男が腕を組みながら苦笑する。


「すげえよ……。何なんだ、アンタは……? 普通の看護師だって、そこまで手際が良くないぜ……」


 良子は答えず、静かに包帯を締め直す。



 命を救うというのは、理屈でも義務でもない。

 “その人がそこにいる理由を守る”ことだ。

 ナイチンゲールがそうしたように。私は、そういう看護を選んだ。



 それは彼女にとって、戦いと同じくらい確かな使命だった。看護をするその姿に、絶望の狭間に居た、ここの人々に微かな希望が灯る。

 満里奈はそれを遠くから見つめながら、誇らしげに微笑んでいた。








               ~to be continued~

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