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第2話:秩序を失くした世界でも、一人の涙がわからない

 ゾンビの出現から一夜明けた世界は、完全に機能を失っていた。街は静まり返り、徘徊するゾンビの影がそこかしこに揺れる。

 交通網は完全に寸断され、道路には放置された車列が無数に連なっていた。国の主要機関はすでにバリケードで封鎖され、機能停止状態。

 かつて賑わいを見せていた繁華街も、今や略奪と暴動の爪痕が残る、荒れ果てた廃墟と化していた。


「ドッグフードが残っているわ。食べられるから、持っていこう……」


 良子は荒らされたドラッグストアの棚を漁りながら、手に取った缶詰を淡々と確認する。

 食への関心は薄いが、生きるためには最低限の摂取が必要だという事実は、異星人である彼女にも等しくのしかかる。

 まして今は、満里奈という子供を連れている。こんな幼い子に、ひもじい思いをさせるわけにはいかなかった。


 だが、ドッグフードの缶を手に目を輝かせる良子の様子に、満里奈は小さく首をかしげ、不思議そうに尋ねた。


「それ、犬のごはんじゃないの?」


 満里奈は、まだ小学校にも上がっていない六歳の少女だった。

 成長の早い年頃にしては、満里奈の身なりはあまりに粗末だった。年季の入った服を着て、髪は伸びっぱなしのまま、無造作に短く切り揃えられている。まるで男の子のような外見は、長く苦しい暮らしを物語っていた。

 彼女は、同じ年頃の子どもたちが通う幼稚園や保育園にも行っていない。

 DVを振るう父親から逃れ、母とともに各地を転々としていた――その生き方は、どこか、人間社会から身を隠し続けてきた良子自身とも重なって見えた。


「この成分なら、人間が食べても害はないわ。むしろ、栄養価は高いはずよ。」


 感情の乏しい顔でそう言い放つ彼女に、満里奈は戸惑いを隠せなかった。自分がこれまで出会ったどの大人とも、彼女は明らかに何かが違っていたのだ。

 それでも不思議と、あの父親のようにいつ暴力をふるわれるかもしれないという不安は感じなかった。

 むしろ、一緒にいるとほっとするような、どこか安心できる空気があった。どうしてそんなふうに感じるのか、自分でもうまく説明できなかいが、彼女といれば心休まる。


「へぇー、お姉ちゃん物知りなんだね…」


 満里奈はそう言って、ぎこちない笑顔を見せた。それは嫌われたくないという思いから出た、作られた表情だった。

 彼女にとって、大人とは恐れるべき存在であり、母親だけが唯一の味方だった。

 苦しい日々を生き抜いてきた満里奈にとって、笑顔は心の底から湧くものではなく、“自分を守るための手段”にすぎなかった。


 そんな満里奈の笑顔に、良子はどこか自分と似たものを感じていた。

 長い年月、人間社会に溶け込むために、感情をなぞるようにして“ふるまい”を覚えた彼女にとって、引き攣った笑顔は自分に重なって見えたのだ。


「ああ、私も、同じように笑っていたかもしれない――」


 良子は、ふとそんなことを思いながら、満里奈への興味をさらに深めていた。


 その時だった。


 パキン、とガラスを踏み砕く音が、割れた自動ドアの方から聞こえてきた。直後、男たちの野太い声が店内に響いた。


「食べ物と飲み物を探すんだ。」


「残ってるかな……?」


 良子は素早く満里奈の手を取り、店の奥の棚陰へと身をひそめた。割れた自動ドアの隙間から現れたのは、スーツ姿のサラリーマン風の男たち。

 手に握られているのは、乾いた血がこびりついた金属バットだった。

 彼らは、まるで日常の延長のような足取りで、無造作に物資をあさり始める。


 ――この世界で、もっとも警戒すべきはゾンビじゃない。


 良子は、それを痛いほどよく知っていた。人間が秩序を失ったとき、理性は簡単に壊れる。

 追い詰められた者が守るのは、仲間でも弱者でもない。ただ、自分自身――それだけだ。


「みんなやってるから」「仕方ないから」

 そうして生まれるのは、思考の放棄と暴力の連鎖。かつて彼女が目にした幾つもの世界が、そうやって崩れていった。


 殴れば殴り返される。そんな単純な因果さえ想像できずに、自分の正当性ばかりを主張するのが人間なのだ。

 良子はそういう“愚かさ”を、戦争や災害で何度も目にしてきた。そして――心のどこかで、人間とはそういうものだと諦めていた。


「行こう。人と関わっても碌なことにならない…」


 小声でそう言うと、良子は満里奈の手を引いて、店の裏口から静かに抜け出した。その姿を見ながら、満里奈は不思議な気持ちに包まれていた。

 満里奈の知る“女の人”たちは、皆、男の人のそばにいた。

 ひとりでいるお母さんは、どこか不安定で――でも誰かのそばにいると、少しだけ安心した顔をしていた。

 それがどんな男であれ、頼らざるを得ない現実があったのだ。

 自分の母もそうだった。どれだけ父に酷い目に遭わされても、「生きていくには仕方がない」と、何度もそう言っていた。


 だけどこの人は、そんな男たちを必要としているようには見えない。守ってもらうことも、頼ることも、最初から頭にないような、そんな強さがある。

 それはきっと、良いことのはずだ。でも。


(それって、寂しくないのかな…?)


 良子の背中を見ながら、満里奈はふと、そんなことを思ってしまった。


「あの人たちに、助けを求めなくて良いの?」


「別に必要ない。それに、満里奈だって嫌でしょ?」


 良子は、ほんのわずかに目を細めた。自分が誰かに“嫌かどうか”を尋ねたのは、久しぶりのことだった。

 答えを聞かなくても、男たちの声がした時の怯えた様子で、それは分かっていた。それでもあえて言葉にしたのは――自分が味方であると、ちゃんと伝えたかったからだ。

 満里奈は何も言わずに頷いたが、その顔には、ほんの少しだけ安堵の色が浮かんでいた。小さな手が、良子の手をぎゅっと握りしめる。


「これから、どうするの?」


「当分の食料と水は確保できたから、今日は河原で過ごそう。……満里奈も、あの場所からは離れたくないでしょ?」


 その言葉を聞いて、満里奈は良子が“お母さんのこと”を察してくれているのだと気づいた。無表情で、まるで感情のない人形のように見えるけれど――その奥には優しさがあるのだと、胸がじんと熱くなった。


 けれど、良子にはそのつもりはなかった。ただ、この子のそばにいて、感情の変化を観察したかっただけだ。


 ――『必ず助けに来るからね……待ってて!』


 あの瞬間の満里奈の強さは、6歳の子どもとは思えないものだった。その姿が、良子の胸からいつまでも離れなかった。

 人間の子供は弱く見えるのに、誰もがあんなに強い意志を持ってるものなのだろうか。あの真っ直ぐな志は大人になって失くしていくものなのだろうか。

 夕暮になり辺りは薄暗くなっている。しかし、河川敷に設置された遊具を見て、満里奈は良子から手を放し、一目散に駆け出していった。


「痛っ!」


 満里奈が小さく叫んだ次の瞬間、良子は無意識のうちに走り出していた。彼女は鉄の遊具の脇に倒れ込む満里奈を見つけ、すぐさまその足元に目をやった。


「……切れてる。思ったより深い」


 擦りむいたどころではない。薄く錆びた金属板の角で、皮膚が裂けていた。血が溜まり、皮膚の下から白っぽい脂肪層が覗いている。

 それを見つめたまま、満里奈の唇がわずかに震えた。目は大きく見開かれ、何かを言おうとしても声が出ない。


「――縫うべきか。浅層だけなら圧迫止血でも回復可能……」


 無意識にそう呟いた瞬間、良子の脳裏に、あの忌まわしくも鮮烈な光景が蘇る。血と火薬の臭いが入り混じる仮設の野戦病院。銃声の余韻が残る中、若き軍医――アンブロワーズ・パレは、叫び声にも動じず、黙々と動脈を探り、結紮していた。

 さっきのドラッグストアで万が一にと取ってきた、アルコールと消毒液、包帯がリュックに入っている。

 裁縫道具は、彼女にとって“万が一”への最低限の装備だった。針は鋭く、糸は裂傷にも耐えられる強度がある。応急縫合には、十分すぎる性能だ。

 満里奈の足に手を伸ばしながら、良子は静かに言った。


「少し痛いけど、我慢して。すぐ終わるから」


 満里奈は青ざめた顔で、小さく震えながらも声を上げなかった。良子がアルコールをバシャバシャとかけると、満里奈の体がピクリと跳ね、歪んだ顔で「いたっ……」と漏らした。

 良子はすぐさま、リュックから取り出したハンカチを畳んで満里奈の口元に押し当てる。


「噛んで。大きな声を出すと、誰かに気づかれる」


 満里奈は戸惑いながらも素直に頷き、ハンカチを咥えた。良子の動きは迷いがなく、まるで最初からこうなるとわかっていたかのようだ。

 取り出した裁縫道具の中から、針を一本選び出し、ライターの火でじっくり炙る。その手つきは妙に慣れていて、とても普通の人間には思えない。


 ――この人は、なんでこんなことができるんだろう?


 満里奈の心に、静かな疑問が芽生えた。まるで場数を踏んだ外科医のように、良子の手裁きは見事だった。

 糸を通した針が肉を貫くたび、満里奈は声を殺し、ぽろぽろと涙を流した。けれど、思っていたほど痛くない。鋭く、深く、それでいてどこか優しい。

 痛みの奥にあったのは、震える手ではなく、静かに動く確かな手元だった。


「これで大丈夫よ」


 良子はそう言うと、傷口に消毒液をかけ、丁寧に包帯を巻いていった。


「……ありがと」


 かすれた声で満里奈がそう言うと、良子は一瞬だけ目を伏せ、無言で頷いた。

 助けることに理由はなかったが、目の前の子どもが傷ついているのを放っておけなかった――それだけだった。


「何で走ったりしたの?暗くなってきてるから危ないでしょ…」


「あのブランコで、いつもお母さんと遊んでた…」


 そう言って視線を逸らす満里奈の言葉に、良子の頭には夕暮時のこの場所で、2人で遊ぶ親子の姿が浮かんでいた。

 貧しく辛い生活をしていながらも、ここで2人で遊ぶのが、心温まるほんのひとときだったのだろう。


「そうかぁ…」


 良子は空を見上げた。夕闇が少しずつ色を変えてゆく。その中に、確かに誰かと誰かが笑い合っていたような声が聞こえた気がした。

 良子は何も言わずに、満里奈の隣に腰を下ろした。2人の間を、冷たい風が静かに吹き抜けてい風が吹き抜けた。良子の指先に、満里奈のぬくもりがまだ残っていた。








               ~to be continued~

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