ギルドとバハムートの共存
「……話は終わりだな。じゃ、俺は帰る」
シゲルがそう言いながら、ソファーから腰を上げた。そして、ドアへ向かおうとしたその時――ふと思い出したように足を止める。
「そうだ、近いうちにマーケットに行く。必要なもんがあったら、リストにして送っとけ」
背を向けたまま、軽く片手を振りながら言い残すと、そのまま執務室のドアをくぐって姿を消した。その背中を見送りながら、クロがぽつりと呟く。
「……マーケットとは?」
淡々とした問いだったが、その目にはわずかな興味の色が浮かんでいた。すると、グレゴが手を止めずに短く答える。
「クロには関係ない」
その返答に、クロは少しの間だけ沈黙したが、すぐに表情を緩めて小さく頷いた。
「……わかりました。では、海賊でも狩ってきます」
「……おいおい、そう簡単に言うな」
思わず漏れたギールの呆れ声に、クロは変わらぬ調子でさらりと返す。
「簡単ですから」
そのあまりにも平坦な言い方に、思わず言葉を失いかけたギールだったが、彼女が“バハムート”であることを思い出し、妙に納得してしまった。事実、彼女にとってそれは本当に“簡単”なことなのだろう。
「いいか、物資と資材は忘れずに持ち帰れよ」
グレゴが真顔で念を押す。その言葉にクロは素直に頷くと、静かに扉へと向かう。だが、その背中にギールが慌てて声をかけた。
「ごめん、クロ! 屋根裏のベッドとか私物には、できれば触れないで。ちょっと……大事な場所だから」
「わかりました」
あっさりと返し、そのまま扉の向こうへと消えていくクロとクレア。扉が閉まった瞬間――執務室に残された三人のうち、グレゴとギールが同時にため息を吐いた。肩を落としたギールが、半ば呻くように漏らす。
「……グレゴ。帰ってきて早々、なんなのこれは。目の前には少女の姿をしたバハムートがいて、その肩には――バハムートウルフ? 聞いたこともない種族なんだけど?」
「映像はもう消しちまったがな。あれは“ホエールウルフ”だった。バハムートの血を飲んで――進化したらしい」
グレゴの口調は淡々としていたが、その内容は常軌を逸していた。
「……ジン、これマジ?」
ギールが信じきれないという顔で振り返る。だが、唯一疲れの色を見せないジンは、コーヒーカップを持ちながら小さく微笑んだ。
「ええ、マジよ。ね? 面白いでしょ。あの“バハムート”が、私たちのギルドにいるのよ。しかも――シゲさんの“養子”として。もう、それだけでひとつの物語になるわ」
その声は愉快そうで、どこか楽しげですらあった。けれど――その空気の中で、グレゴは真面目な口調でぽつりと呟いた。
「バハムート……いや、クロが“人”として生活するなら、俺たちは“クロ”を一人の人間として扱うべきだ」
その言葉には、迷いも恐れもなかった。ただ静かに、けれど確固とした信念が宿っていた。
「ギルドでの特別扱いは必要だろう。だが、それ以外は――いつも通りでいい。バカをやれば叱る。頑張ったなら褒める。相談されたら真剣に向き合う。……それが、俺たちのやり方だろ?」
一つひとつ、当たり前のように語られる言葉が、部屋の空気に温度を与えていく。ギールはしばらく黙ってから、ふっと苦笑を浮かべた。
「それしかないよな。……実際、俺がいない間に何か起きたってわけでもないだろ?」
その問いに、グレゴはすかさず、無表情のまま返す。
「いや、一組バカをやって捕まった」
「え、誰!?」
ギールの声が裏返った。驚きと混乱が入り混じったその反応に、ジンはカップを傾けながら、あくまで落ち着いた様子で答える。
「アレクたちよ。クロに、いやらしい目的で接近したの。結果は――ビンタ一発でのされて、壁が犠牲になったわ」
その語り口は、まるで他人事のように淡々としていた。だが、内容はあまりに衝撃的だった。しばし、執務室に沈黙が流れる。ギールはぐったりとソファに体を沈め、天井を見上げながら呻くように漏らした。
「……アレクの奴……ほんと、バカなことを……」
「だが、おかげでこのギルドの一番の“癌”は消えた」
隣のグレゴが、どこか清々しげな表情でそう言い放つ。ギールはその言葉に半ば呆れながらも、頷きを返し――そしてふと、我に返る。
「……そうだけどさ、戦力ダウンじゃ……いや、待てよ」
ぽんっと手を打ち、ギールが素で呟く。
「……むしろ、めちゃくちゃ戦力アップしてるわ……」
「ああ。おかげで、今年予想されてる災害にも対処できそうだな」
グレゴの言葉に、ギールは小さく頷く。
「今年は多いって話だったしな。そう思えば、むしろ運がいいか……よし。仕事、仕事……俺はちょっと休むけどね」
軽く手を振りながらソファに崩れかけたギールを、グレゴが苦笑しながら止めない。
「バカ……とは言わん。今日一日でいろいろありすぎたからな。しばらく寝とけ」
ぽんと肩を叩いて労いの意を込めると、グレゴは背を向けて扉へ向かう。
「おやすみ」
ジンもそれに続き、ひとことだけそう言って出ていった。執務室にひとり残されたギールは、ソファに体を横たえ、天井を見上げる。
「……いきなりすぎる……ついていけん……」
疲れ切った声でそう呟くと、そのまま毛布を引き寄せた。
「もう寝る。現実逃避モード、突入……」
そうして、ギルドマスターは静かに目を閉じた。嵐のような一ヵ月が、ようやく終わりを告げた。