正体の告白と家族の決意
クロの肩に留まっていたクレアが、ぴくりと耳を動かす。わずかに緊張を滲ませたまま、じっと室内を見つめ続けていた。その様子に気づいたクロは、そっと指先を伸ばし、クレアの柔らかな頭を優しく撫でる。ぴたりとした静けさの中で、グレゴが再び口を開いた。
「で――答えを聞こうか」
まっすぐな声音に、クロはゆっくりと頷く。
「ハッキリ申し上げましょう。……忘れていました。録画していたことを、今の今まで」
一瞬、場の空気が妙な具合に止まる。誰もが、理解するのに一拍を要した。
「忘れてた……?」
「はい。ちょっとうれしいことがあったもので……頭の中から、すっぽり抜けていたようです」
クロの口調は、どこまでも穏やかだった。その宣言に、グレゴは肩を落とし、ギールは絶句し、ジンだけがくすりと微笑んだ。
そして――
「クロ! お前なあっ! 俺の苦労、全部台無しじゃねえかッ!」
シゲルが立ち上がらんばかりの勢いで叫んだ。
「俺がどれだけ危ない橋を渡ったと思ってる! グレゴへの貸しを使い潰し、戸籍をひねり出して、履歴をごまかして……それが、あっさりバレるとか意味ないだろうが!」
魂の叫びのような言葉に、クロは首をかしげながら静かに返す。
「でも、報酬はちゃんと振り込んでいますので……シゲルさん、儲かっているのでは?」
「それとこれとは別だ!」
即答するシゲルに、クロはふっと目を細めて、穏やかに微笑む。
「……そうですね。けれど、そのおかげで私は“家族”を得ました。ですから、後悔はありません」
その言葉に、シゲルの肩がわずかに揺れた。クロは席を立たず、ただ視線を向ける――グレゴ、理解が追いつかず固まっているギール、そして隣で静かに湯気の立つカップを見つめるジンへ。
「うっかりでバレるとは思ってませんでしたが……」
ごく自然に、軽やかな声で続ける。
「私は――いや、“俺”はバハムートだ。いやあ……本当に、うっかりしてましたね」
その言葉には、威圧も誇張もなかった。まるで「今日の夕食はカレーです」とでも言うような、淡々とした口調。けれど、それは確かに、この場を一変させるに足る宣言だった。
その重さに、しばし誰も言葉を返せずにいると、ようやく口を開いたのはギールだった。
「……えっと、グレゴ?」
ぎこちなくグレゴの名を呼び、ギールは指先でこめかみを押さえる。
「説明が、欲しい。いや、マジで。状況が全然飲み込めてないんだけど……今、目の前の子が“バハムート”? 本気で?」
困惑というより、どこか現実逃避に近い調子だった。そして、ふと虚空を仰いで小さくぼやく。
「だったらさ……俺の一ヵ月は、なんだったの? 辺境に行って、暗い宇宙の中、鱗一枚拾って帰った俺の努力は?」
その言葉に、クロは少しだけ視線を落とした。罪悪感、というには浅く。けれど、ほんのわずかに気まずそうな色が、その瞳に差していた。
「……すみません。まさか、そんなことになってるとは思わなくて」
小さく息を吐きながら、クロはぽつりと口にする。
「見ます? 全身」
「やめろ!!」
即座にギールが叫んだ。
「市民をパニックに陥れる気か!? コロニーごと崩壊しかねんからやめて!」
その慌てぶりに、ジンがくすくすと笑い、グレゴは黙ったままコーヒーを啜った。クロの肩の上でじっとしていたクレアは、小さく耳を揺らしながら――あいかわらず、静かに警戒を解かずにいた。
その沈黙の中――ギールが、ついに口を開く。
「……えーと。君がバハムートであるとして」
言いながら、こめかみに手を当て、ぐっと考える仕草をする。
「なんで、そんな存在が“ここ”にいるの? ……いや、もっと言えば、なんで普通にギルドに登録して、ハンターしてるの?」
問いかけは真剣そのものだった。混乱と理性のせめぎ合いの果て――一番“現実的な疑問”が、ようやく口を突いて出た。
それに対して、クロはごくあっさりとした口調で答えた。
「生活するためですが? お金がないですし、稼ぐにはハンターが手っ取り早いかなって」
悪びれた様子は一切なかった。言葉の調子も、まるで買い物の選択肢を説明するかのように、ごく自然。
「…………グレゴ。この子、本当にバハムートなの? からかってるとか、冗談とか……じゃなくて?」
ギールは振り返り、わずかに涙目でグレゴを見る。だが、グレゴの表情は変わらない。
「そう言いたくなる気持ちは、よくわかる。……だが、事実だ」
グレゴの短く、重みのある一言が室内に響いた。その余韻とともに、場には再び静けさが戻る。静寂の中、クロがそっと口を開いた。
「……もう、いいですか? そろそろ狩りに出て、稼ぎたいんですが」
その言い方はあくまで淡々としていて、場の空気を特に気にしている様子はなかった。だが、それをやんわりと遮ったのはジンだった。
「まだだめ。もう少し、話が必要よ」
微笑みながらも、その声には確かな“制止”の力があった。一方、やや不機嫌そうにコーヒーを飲み干したシゲルが、重い腰を上げながらぼやく。
「……で? 俺がここに呼ばれたのはなんだ。こいつのバカのやらかしの穴埋めか? それとも、ただの公開処刑か?」
やる気ゼロの声音に、あからさまな“帰りたいオーラ”が滲み出ていた。それに対し、グレゴが低く、静かに言葉を重ねる。
「シゲ。協力しろ。……クロの存在を、これ以上外に漏らしたくないんだ。今ここにいる全員で支えてやらなきゃ、また――こいつはポカをやらかす。絶対だ」
その言葉に、場の空気がふっと引き締まる。クロは何も言わず、静かにコーヒーカップを見つめていた。
やがて、しばらくの沈黙のあと――
「……否定できねぇ」
シゲルがぼそりと呟いた。肩をすくめて観念したように天井を仰ぎ、そして、どこか諦めにも似た笑みを浮かべる。
「クロ~、お前はなぁ……ったく、なんでこう、自分からバレに行くポンをかますんだよ」
大げさに手を広げ、続けた。
「もう決定だ。お前、うちの大黒柱な。しっかり稼いで、俺に一生、酒とつまみを奢れ。もちろん上等なやつな!」
その無茶な宣言に、クロは思わず小さく笑みを浮かべた。
「酒とつまみと言わず……支えますよ、全部」
その声は冗談のようでいて、どこか本気だった。静かだった空気が、少しだけやわらいでいく。そのやりとりは、言葉の端々に冗談と皮肉を含みながらも――確かに、家族と呼ぶにふさわしい、温かさを纏っていた。