初めての風呂と湯けむりの距離感
夜の静けさが家を包み込み、夕食を終えた頃。クロはアヤコに軽く促されて、風呂へ入ることになった。
「パジャマは、私のお古だけど置いておいたから。クレアと一緒に入ってきなよ」
声をかけられたクロは、すぐに隣のクレアを見やる。
「クレア、行きますか?」
その問いかけに、ホログラムのバトルボールに夢中だったクレアが、ぴくりと耳を動かして反応する。そして、何のためらいもなくクロの足元へすり寄ってきた。
「はい。あたたかいのは、好きです」
その声は少しだけうわずり、どこか期待と嬉しさが滲んでいた。クロとクレアは並んで浴室へと向かっていく。背中にパジャマを抱えたクロに、アヤコがひと声かける。
「洗濯物はそのまま洗濯乾燥機に入れておいて。うちのはすごいよ? 改造済みで“自動折り畳み機能”付き!」
その言葉に、すかさずシゲルがツッコミを入れた。
「そのせいでサイズがでかくなっただろうが。今の時代、小型化が主流だっつーのに……まったく本末転倒だわ」
「でも、楽だよね? じいちゃん、自分でたたむ?」
「……いや、楽ってのは正義だな。良い物は、でかかろうが正義だ。あー、ビールうまっ」
あっさりと意見を翻し、満足げに一口。アヤコは苦笑しながらも、軽くクロたちに手を振った。
「行ってらっしゃい。ゆっくりしてきて」
そう言って、アヤコは再びモニターへと視線を戻す。脱衣所に入ったクロは、制服を脱いで洗濯機へと向かう。その目の前には、明らかに“規格外”なサイズの多機能ユニットが鎮座していた。
「……大型化、と言いますが、私の遥か記憶ではこれが“普通サイズ”だった気がします。技術の進化とは……恐ろしいものですね」
クロのぼやきに、隣で洗濯機をじっと見つめていたクレアが身を縮めた。
「クロ様にも……恐ろしいものがあるのですね……」
その声は半分冗談、半分本気のようでもあった。クロは肩をすくめるように笑い、そっとクレアの頭に手を置いた。
「ええ。私にも、恐ろしいものはあります。そして……それが“当たり前”になっていくのが、この世界の一番怖いところかもしれませんね」
その言葉に、クレアは首をかしげたまま小さく呟く。
「……よく、わかりません」
「私も言ってて、よくわかっていません」
クロは苦笑を浮かべながら、脱衣所の扉を開け、浴室の中へと足を踏み入れた。湯気が立ち込めるなか、二人は体を洗い終えると、クロが湯船のふちへと手をかけ、クレアを入れようとした。
――その瞬間だった。
「ク、クロ様っ! ダメですっ! 溺れますっ! 足がつかないんです、沈みますぅ!」
湯船に差し掛かったクレアが、前足をバタつかせて暴れ始めた。その動きはまるで、小さな子どもがプールの水に驚いてしがみつくようで――クロは一瞬目を瞬かせてから、口元を緩めた。
「……そうですね。無理に入れるのはやめておきましょう。では、桶にお湯を汲んで、お風呂にしましょうか」
クロは手早く桶を取り、湯船からすくい上げる。ぬるめの湯をつくりながら、肩をすくめるクレアに優しく声をかけた。
「クレアは小さいので、こっちの方が落ち着きますね」
クロはそう言いながら、桶にお湯を張り、優しくその中へクレアを移した。
「……はい。すみません……お湯が、思ったよりも深かったので」
ぬくもりに包まれながらも、クレアは少し肩をすくめて言葉を続けた。
「いえ、謝ることではありません。でも、クレアは息を止めなくても大丈夫なのですから、本来は問題ないはずなんですが」
「いえいえいえ、そういうことじゃなくて……!」
クレアは思わず声を上げ、桶の中で前足を小さくばたつかせた。
「その……どうすればいいかわからないのが、怖いんです。足が届かない場所で、何をすればいいのか分からないまま沈むって……すごく、不安で……」
その言葉には、単なる恐怖とは異なる、未知への戸惑いと慎重さがにじんでいた。クロは黙って頷き、そっとクレアの頭に手を添える。
「……宇宙と似ていると思うんですが、そうですね。わかりました。今度、泳ぎを教えましょう。少しずつ慣れていけば、大丈夫ですよ」
「……はい。お願いします、クロ様」
桶の中でお湯に身を沈めたクレアは、徐々に呼吸を落ち着けながら、目を細めてほっとしたように肩の力を抜いた。その姿に、クロの視線も自然と和らぐ。浴室には、湯気とともに静けさが満ちていく。それはまるで、遠い過去に置き忘れてきた“家族のぬくもり”を、ひとつずつ丁寧に拾い上げるような、穏やかな時間だった。
(――しかし、待ちに待ったお風呂。めちゃくちゃ、いい……。これだけでも、人間社会に出た価値がある)
クロは目を閉じ、心地よさに身を委ねる。体からじわじわと解けていく疲れ。湯の熱が、内側まで染み渡る感覚。ひと息つける、静かな安らぎ。
だが、次の瞬間。
「ところでクロ様。なぜ、クロ様はアヤコに比べておっぱいが小さいんですか? シゲルにもありませんけど、クロ様も小さいです。アヤコは大きかったのに」
――静寂、崩壊。
クレアの爆弾発言に、クロの心地よさは文字通り遥か彼方に吹き飛んだ。
「…………クレア。それは、絶対に尋ねてはいけません」
静かに、しかしはっきりとクロは言う。眉ひとつ動かさず、それでいて冷気すら帯びた口調で。
「私は“本体”が雄なので気にしませんが、それを他人に向かって口にすると――それは宣戦布告。場合によっては、即座に襲撃されても文句は言えません」
「……そ、そんなに危険なことだったんですか?」
「ええ、命にかかわる場合もあります」
クレアは言葉を失い、小さく体を縮めた。桶の中でちょこんと身を寄せるその様子に、クロは静かに息を吐く。
「……よく覚えておいてください。“胸”という話題は、取扱注意です」
お湯の音が、ぽこぽこと静かに響いた。緊張と緩和とが奇妙に交錯する浴室で、ふたりは再び湯気に包まれながら、互いの距離を少しずつ近づけていった。
湯上がりの空気はやわらかく、どこか眠気を誘うような温度だった。脱衣所に戻ると、クロはまずクレアの体をタオルで優しく包む。すると、タオルに触れた途端、毛並みに残った水分がすうっと消えていく。瞬時に乾いたクレアはふわりと尻尾を揺らし、心地よさげに小さく伸びをした。
クロもまた、同じようにタオルを軽く体に滑らせる。髪の先から服の奥の水分までもが、熱反応素材によって瞬時に蒸発していった。ドライヤーを必要としない――この時代では、それが“普通”だった。
ふたりは用意されたパジャマに袖を通し、静かに脱衣所を出ると、そのままリビングへと戻っていく。
リビングに戻ると、アヤコがモニターに目をやりながら、ふたりの姿に軽く振り返った。その視線が、クロの着ているパジャマに止まり、にやりと笑みを浮かべる。
その笑みに気づいたクロは、パジャマの袖口に視線を落とし、少し首を傾げた。
「アヤコ。この柄は……なんですか?」
クロのパジャマには、ネコやクマ、ウサギといった小動物たちが、デフォルメされた姿でちりばめられている。目が大きく、手足が短く、愛嬌のある表情が生地いっぱいに描かれていた。
アヤコは満足そうに頷く。
「可愛くない?」
あっさりと断言するその口調に、クロは少しだけ戸惑いながらも、視線をもう一度パジャマに落とした。
「……判断が難しいですね。可愛いというより……にぎやかです」
「まあ、クロなら似合うかなーって思って。サイズもぴったりだったでしょ?」
「はい。着心地は問題ありません。ですが……これは、外に出る用途ではないですよね?」
「もちろん! 部屋着用。完全な“癒し特化”仕様だよ!」
得意げに言い切るアヤコに、クロは静かにひとつ頷いた。
「……なるほど。では、これは“癒し”ということで、受け取っておきます」
そう応じたクロの声はどこか真面目すぎて、逆にアヤコの笑いを誘った。
リビングの空気は、すっかり温かく柔らかいものに変わっていた。




