人としての初めての食卓とバトルボール
一階に降りると、すでにテーブルには料理が並べられていた。
クロの席には、ご飯と味噌汁、それに揚げたてのトンカツと、別添えのソース。どれも温かく、立ち上る湯気が食欲をそそる。隣の席には、クレアのために用意された浅い平皿に、ひと口サイズのサイコロステーキが一つひとつ丁寧に並べられていた。
どの皿にも、アヤコの気遣いと手間が滲んでいる。アヤコの前にも、クロと同じ料理が用意されており、すぐに食べられる状態だ。一方――テーブルの端では、シゲルが焼きそばを豪快にかき込みつつ、ビール缶片手に浮かぶホログラムモニターで“バトルボール”の試合を真剣な顔で観戦していた。
「……凄い光景ですね」
クレアが素直な声で呟くと、アヤコは吹き出しそうになりながらも、肩をすくめて笑った。
「これがじいちゃんの“いつものスタイル”よ。バトルボール観る時は、だいたいこのセット」
そう言いながら、アヤコはフォークを手に取り、いつものように自然に食卓の空気を整えていく。クロはゆっくりとソファに腰を下ろすと、肩に乗っていたクレアをそっと両手で抱き上げ、テーブルに座らせた。そして、クレアの前へと平皿をスライドさせる。
「クレア。熱いですので、気をつけてください。それと、これは初めての“人としての”食事です。まずは――ちゃんと食べられるか、確かめてみましょう」
クロの静かな声には、どこか優しさと責任が滲んでいた。クレアはこくんと頷き、前足を揃えて浅皿へ顔を寄せる。そして、サイコロステーキのひとつをそっと咥え、ゆっくりと口の中へ運んだ。
――その瞬間。
(……熱い。でも……なに、これ?)
ひと噛みしただけで、口の中に溢れ出す肉の旨味。じゅわりとした脂と、香ばしく焼かれた表面の歯ざわり。そこに、かすかに甘みを含んだソースが絡み合う。
(……わからない、なにが起きてるのか……でも――止まらない……!)
噛むたびに全身へ伝わってくる、今まで感じたことのない“快感”。それはまるで、体の奥底から何かが目覚めていくような感覚だった。脳裏に浮かんだのは、これまで狩りの末に食べてきた、生臭さの残る獣の肉。
(あれは……もう無理です……たぶん、クロ様が言っていた“まずい”って、ああいうことだったんですね……)
初めて知った“味”という概念。食事が“生きるため”だけではなく、“楽しむもの”であるということ――その意味が、ようやく理解できた気がした。サイコロステーキをひとつ飲み込み、間を空けずに次のひとつへ。まるで止まらなくなったように、夢中で食べ進めていく。
その様子を見守っていたクロとアヤコは、自然と目を見合わせ、揃って小さく笑みを浮かべた。
「……どうやら、わかってくれたようですね。良かったです」
クロがそっと言えば、アヤコも笑顔で頷いて返す。
「うん。じゃあ、私たちも食べようか」
そう言って、アヤコはクロに軽く声をかけると、自分の皿に手を伸ばした。フォークでトンカツをひと切れ刺し、ソースを軽くかける。そのまま口に運び、ひと噛みしてから、満足そうに頬を緩めた。
「……やっぱり揚げたては最高だね。ソースの甘さもちょうどいい」
アヤコのひとことに続くように、クロも席につき、手を合わせて小さく「いただきます」と呟く。そして箸をとり、まずは味噌汁をひと口啜る。
「……ゼリーのくせに、やはり美味いですね」
真顔のまま感想を漏らすクロに、アヤコは吹き出しそうになりながらも、肩をすくめて苦笑した。
「クロ~……しつこいってば。前にも言ってたよね、それ」
「事実ですので」
そんなふうにして始まった、家族そろっての昼食。笑いと香りに包まれながら、温かなひとときが、静かに流れていく。そのとき、リビングのモニターから、割れんばかりの歓声が響いた。クロは箸を止め、何が起きたのかと画面に視線を向ける。
そこには、どこか野球に似たスポーツが映し出されていた。だが、それを「野球」と呼ぶには、あまりにも異質だった。ピッチャーがボールを投げ、バッターがそれを打つ――ここまでは見慣れた光景だ。しかし、そこからが常識の斜め上を行っていた。
鋭く放たれた打球はセカンドへ。選手が華麗なダイビングキャッチを決め、立ち上がるなりファーストへ送球。通常であれば、アウトを告げるプレイ――のはずだった。
だが、そこから突如として試合は格闘戦へと様変わりする。ファーストが送球を受けると同時に、打者――いや、もはやランナーは、そのまま全力でファーストに殴りかかった。不意を突かれたファーストがよろめき、応戦しようと腕を振るが、ランナーはそれを鮮やかにかわし、逆に強烈なカウンターを顔面に叩き込む。
衝撃でファーストが意識を失い、その場に崩れ落ちる。すかさず、審判がグラウンド中央で腕を大きくぐるぐると回し――まるで誇らしげに、ホームランのジェスチャーを掲げた。
画面に表示される「カウンターアタックポイント+1」の文字。打者は悠々とベースを一周し、チームに一点が加算される。倒れたファーストは、空中を滑る担架に運ばれて退場。すぐに、次の選手が新たなファーストとしてフィールドに立った。
クロはしばし無言で画面を見つめた後、ぽつりと漏らした。
「……これは、スポーツなんでしょうか?」
シゲルは焼きそばを豪快にすすりながら、当然のように言い放つ。
「スポーツだぞ、これでも。ちゃんとルールもあるし、選手生命だって賭かってる。しかも今日はシーズン初日だからな。これでもまだ“紳士的”な方だ。……にしても、今のカウンターは見事だった。さすが四番クラッシャー!」
解説者気取りの熱量に、アヤコは呆れたように肩をすくめる。
「だからさ、じいちゃん。試合見ながら食べるのやめなよって、前にも言ったよね。味、わかんなくなるってば」
「わかってるわ。だがな、バトルボールはな……焼きそばと一緒に観るからうまいんだ」
まるで信仰のような持論を展開するシゲルに、アヤコは深くため息をつくだけだった。その横で、クロはひと言も発さず、ただじっとモニターに目を向けていた。
――スポーツ。娯楽。常識。
そこには、自分のいた世界にはなかった文化と感覚が、確かに根づいている。暴力と競技性、戦略とエンタメが一体化した異様な競技――“バトルボール”。クロは静かにまばたきをし、淡く視線を細めた。
この世界には、まだ知らない事が、いくらでも存在しているのだと。