琥珀の酒と世界樹と、休日の昼食
総合デパートを出て、家路についた帰り道。エアカーの運転席に収まったシゲルの顔は、どこから見ても満足そのものだった。
「ウィスキー……しかもレア物……はぁぁ~、たまらん……」
ラベルを食い入るように見つめながら、ほとんど夢見心地な口調で呟くシゲルに、アヤコがあきれ顔で言葉をかける。
「じいちゃん、まさか今すぐ飲む気じゃないよね?」
その一言に、シゲルはフンッと鼻を鳴らし、妙に神妙な顔つきで言い返した。
「飲むわけねぇだろ。もったいねぇに決まってんだろうが」
そう言い放ったシゲルの声は妙に真剣で、思わずクレアが首をかしげた。
「では……なぜ購入されたのですか?」
問いかけるクレアに、シゲルは胸を張って堂々と答える。
「観賞用だ。眺めるためにある。光の当たり方で琥珀色が変わるんだぞ? ラベルの印刷も職人仕事だしな。それを肴に一杯……いや、一杯は飲まんが、眺める。眺めて癒やされる。――それが“酒道”ってもんよ」
満面のドヤ顔で語るシゲルの姿に、アヤコが堪えきれず吹き出した。
「じいちゃん、それなら瓶だけ買えばよかったじゃん」
「馬鹿言え、中身があってこそのロマンだ! 空瓶じゃ只のガラクタだろうが!」
熱弁を振るうシゲルを前に、エアカーの中には不思議と柔らかな笑いが満ちていた。その空気の中で、クレアは肩の上から静かに呟いた。
「……なるほど。人間とは、非常に面倒で、しかしとても興味深い生き物です」
感心とも呆れともつかない声に、クロがさらりと注意を入れる。
「すべての人が“お父さん”のようなわけではありませんから、そのあたりは慎重に接してください」
「……はい、肝に銘じます」
クレアは素直に頷き、ふさふさと尾を揺らす。エアカーはなめらかに住宅区へと入り、やがて静かに停車する。まだ朝の光が残る玄関先で、クロはエアカーから降り、端末に軽く視線を落とした。
「家具の到着は、昼過ぎになる予定です。ちょうどいい時間に帰って来られました」
「おっしゃ、段取り通りってわけだな」
シゲルは玄関のロックを解除しながら、何気ない様子でクロを振り返る。
「なあ、クロ。お前の別空間って、収納した物は劣化するのか?」
その問いに、クロは少し考えてから、静かに首を横に振った。
「おそらく劣化はしません。この苗木が証拠です」
そう言って取り出したのは、手のひらに乗るほどの小さな苗木だった。見た目にはなんの変哲もない若木。しかし、その根元の土は湿り気を帯び、葉は青々としたまま。
「数百年前、私がいた惑星で採取したものですが……今まで一度も育たず、腐ってもいません。別空間内で保管していたままの状態です」
「……それは確かに、劣化してねぇな。よし、ならウィスキーもしばらく預ける。あれは管理が命だからな」
「じいちゃん、それって……観賞用に棚でも作る気でしょ?」
アヤコがあきれたように問いかけると、シゲルは口元を引き締めつつも、どこか楽しげな表情で返す。
「……まずは光の劣化を防ぐガラスの調達から、だな。輝く琥珀の色を見ながら一杯……いい感じだな」
「はぁ……やれやれ」
アヤコはため息をつきながらも、クロが手にした苗木へと視線を移す。
「それ、なんの木なの?」
「――世界樹です」
クロが淡々と答えると、アヤコは一瞬目を瞬かせてから、素直に感嘆の声を漏らした。
「へぇ……すごい名前だね。それ、珍しい植物なの?」
「そんなことはどうでもいい。クロ、絶対に壊すなよ」
シゲルは一転して真剣な表情になり、手にしていた高級ウィスキーのボトルを慎重にクロへ手渡す。クロは受け取ると、苗木――世界樹と一緒に別空間へと丁寧に収納した。
(……この世界では、世界樹という名称も、存在も知られていないらしい)
心の中でひとつ、確認事項を付け加えながら、クロは静かに踵を返し、自分の部屋へ向かおうとした。その背に、アヤコの声が飛ぶ。
「ねぇクロ、お昼どうする? ちょうど時間もいいし、買い物のあとでお腹空いたでしょ」
クロは足を止め、少し考えてから、いつも通り淡々と――けれどどこか楽しげに言った。
「そうですね……私は、ご飯と味噌汁にトンカツを。クレアは初めてですし、試しにサイコロステーキにしてみますか?」
「わかりませんが……クロ様のおすすめであれば、ぜひお願いします。お姉ちゃん」
肩の上でぴくりと耳を立てながら、クレアはまっすぐアヤコを見上げて言った。その小さな声と真剣な眼差しに、アヤコはふっと顔をほころばせ、軽く苦笑する。
「贅沢な注文だね~……でも、いいよ。今日はちょっとだけ張り切っちゃうから、楽しみにしてて!」
軽やかに宣言しながら、アヤコは台所へ行きプレートを準備し始める。その背を見送りながら、クレアは小さく「ありがとうございます」と呟いた。
すると、横から声が飛ぶ。
「アヤコ、俺は焼きそばな! バトルボール見ながらビールと焼きそば……それが休日の正しい過ごし方ってもんだ」
リビングへ向かいながら、シゲルはすでにモニターのリモコンを片手にしていた。その足取りには迷いがなく、目線はすでに冷蔵庫の扉へとまっすぐ向いている。
嬉々とした様子で冷蔵庫を開け、ビールのストックを確認するその背に、アヤコがやや呆れ気味に返す。
「はいはい、いつもの“野菜まし”のやつね」
「そうそう。屋台風の、あれな」
どこか嬉しそうなシゲルの声には、子どもじみた無邪気さと、大人の余裕が同居していた。その様子に、アヤコも苦笑しながら調理スペースへと向かっていく。
休日らしい、ゆるやかでどこか懐かしい会話と空気。昼食の支度とともに流れていく時間は、静かで、心地よく――どこまでも穏やかだった。