ただいまの場所
ホテルを出る朝、クロは最後の身支度としてシャワーを浴び、部屋を見渡して忘れ物がないかを念入りに確かめた。小さく息を吐き、一階のロビーへと降りる。
カウンターには、初日に顔を合わせた男が立っていた。
「おはようございます」
クロが声をかけると、男は慌てたように背筋を正した。
「おはようございます、クロ様。あの……チェックアウトでよろしいのでしょうか。もし違っていたら、大変失礼を……」
その声音には、どこか恐縮したような響きが混ざっていた。
――どうやら、勘違いはまだ解けていないらしい。
この男の中で、クロは今も天涯孤独な旅人であり、頼る者もいない少女のまま。初日に端末の操作に戸惑いながらも、ひたむきに礼儀正しく対応していた姿が、彼の中に妙な感情を芽生えさせた。帰る場所のない孤独な少女――そんな物語が、いつの間にか彼の中で出来上がっていたのだ。
「大丈夫です。家族ができましたので」
その一言が、引き金になった。
男の表情がぐしゃりと崩れ、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちる。
「そ、それは……本当に、良かったです……!」
肩を震わせながら絞り出した声には、安堵と感動が入り混じっていた。
クロは困惑した。なぜ泣くのか、見当もつかない。
それでも、やるべきことは変わらない。淡々と端末を取り出し、宿泊アプリから鍵データの返却操作を済ませる。
「いいホテルでした。それに……端末の操作を教えてくれて、ありがとうございました」
その礼に、男はさらに嗚咽を強めた。
ついにはその場に膝をつき、嗚咽を堪えきれず声が漏れる。
「う……ううっ……!」
騒然とした空気に気づいた同僚のスタッフが慌てて駆け寄り、クロの対応を引き継いだ。
クロは、静かに一礼する。そして、何も言わずにホテルを後にした。
「おい、お前なんで泣いてるんだよ。しかも、大号泣って……まさか振られたのか?」
呆れたような声が背後から飛ぶ。
だが、男は首を横に振り、なおも目を潤ませたまま答えた。
「違う……天涯孤独だった子が……家族ができたって……それを、笑って言ったんだ……!」
その瞳は、もはや遠くを見ていた。彼の脳内ではすでに、壮大な感動ストーリーが完成していたらしい。
「お前な……その妄想癖、いい加減直せよ」
あきれ顔の同僚がため息まじりに言う。
だが、男は震える声で否定した。
「違う!これは妄想なんかじゃない……真実なんだ……!」
その熱量に、同僚は絶句した。現実と幻想の境界線が、彼の中でとうに溶けてしまっていることに、まだ誰も気づいていなかった。
ホテルを出たクロは、そのままジャンクショップへと歩を進める。これから――自分の家になる場所へ。
(転生者……うん、面倒だから、関わらない)
昨日の出来事を思い出しながら、クロは心の中で結論を下す。深入りはしない。それがいちばん楽だった。
そうして辿り着いた扉の前で、深く息を吸い、小さく吐く。そして、ドアを押した。
「クロ様!」
扉のすぐ内側。声とともに黒い影が飛び出してきた。
だが、クロは一瞬、足を止める。
そこにいたのは、見違えるほどに変わったクレアだった。艶やかな黒の毛並みは光を柔らかく反射し、近づいても臭いはしない。爪先も整えられ、どこか気品すら漂っている。
「クレア。見違えましたね」
素直な感嘆が、思わず口をついて出た。
「はい。お風呂というものを初めて知りました。あれは、良いものですね」
胸を張って答えるクレアの表情には、どこか誇らしげな色が浮かんでいた。しっぽがわずかに揺れ、嬉しさがにじみ出ている。
「そうですか。食事はどうでした?」
クロが続けて尋ねると、クレアは小さく首を横に振った。
「まだ食べていません。……クロ様と一緒がよかったので」
その言葉に、ふいに背後から別の声が飛んだ。
「頑固だったんだよ。ほら、『せめて最初に食べるときはクロと一緒がいい』って、きかなくてさ」
姿を見せたのはアヤコだった。
いつものジャンプスーツ姿ではなく、今日はラフな服装だ。緩めのTシャツにジーパンという、飾り気のない格好。可愛らしさはないが、その分、彼女本来の快活さが引き立っている。
その様子を横目に見ながら、クレアはクロの肩にぴょんと飛び乗った。そして、頬を摺り寄せながら、やや拗ねたような声を上げる。
「ひどいです。なぜ置いて行ったのですか」
「仕方がありません。ホテルは動物禁止なので」
クロは、まるで当然のことのように淡々と答えた。その口調に、どこか申し訳なさも、悪びれた様子もない。
クレアは小さく鼻を鳴らしながらも、名残惜しそうに頬を寄せてきた。
その様子に目を細めながら、アヤコがクロへと声をかける。
「クロ、支払い追加しておいたから、よろしくね♪ それと――おかえり」
その言葉に、クロは思わず目を見開いた。
(おかえり……そうか。そうだ、私は――)
胸の奥に、温かなものが静かに広がっていく。
「――ただいま。お姉ちゃん」
素直に、心の底から言えた言葉だった。
その呼びかけに、アヤコはほんの一瞬、驚いたように目を見開く。けれどすぐに、照れたような笑みを浮かべ、ポンとクロの頭を撫でた。
「……うん。おかえり、クロ」