猫の導きと転生者の真実
クロは、囲まれていた。猫に――しかも、大量に。
その少し前、ロック・ボムを出た直後のことだった。爆音が響く商店街の裏手で、不意に一声、猫の鳴き声がした。
振り返ると、白い猫が一匹、じっとこちらを見上げていた。見覚えのある顔――かつて助けた猫。間違いない、あれはシロだった。
「にゃ〜〜」
柔らかく揺れるその鳴き声に、クロは無意識のまま歩を向ける。導かれるようにして辿り着いたのは、都市の片隅にある静かな公園だった。
だが、そこで終わりではなかった。
シロのもとへ集まるように、植え込みの陰、塀の上、街路樹の影から――猫たちが次々と現れる。毛色も体格もさまざまな猫たちが、何かの合図に従うように静かに集まり、自然な流れで円を描くようにクロの周囲を囲んでいった。
気づけば、身じろぎひとつ許さぬような視線に、全身を包まれていた。不思議と恐怖はなかった。ただ、説明のつかない状況が、じわじわと現実を侵食してくる。
そして、ようやく言葉が追いついた――
「これは……どういう状況か、説明が欲しいんですが?」
その中心に、シロがぴたりと立ち、静かに振り返った。
「……ついてこい、ってことか」
クロは小さく眉をひそめ、けれど足を止めることなく歩き出す。シロを先頭に、列をなして進む猫たち。その真ん中を無言で歩く少女――その奇妙な光景に、街行く人々は驚きと興味を隠せなかった。
「なにあれ、猫が……整列してる!?」
「え、ちょっと可愛すぎない……?」
通行人のざわめきが耳に届いても、クロは気にする様子もない。
(……嫌な感じはしない。けど、これは普通じゃないな)
街の喧騒から離れ、列は徐々に都市の外縁部へと向かっていく。舗装のきれた道を抜けた先――猫たちが導いた先にあったのは、郊外に広がる農業プラントだった。果樹と温室、そして人影のまばらな整備区画。その中央、入口の前で立ち止まったシロが、クロを見上げて静かに鳴いた。
「ここに……何があるんですか、シロ?」
クロは問いかけるように、けれど猫に返答を求めるわけでもなく、視線をその先の施設へと向けていた。施設の入口には、まだ明かりが灯っていた。無人のはずの農業プラント――その中央に、一人の男が立っている。
「にゃ〜〜」
シロが一声、短く鳴いた。その合図のように、周囲を取り巻いていた猫たちは、何かに従うように次々とその場を離れていく。一斉に、静かに、そして迷いなく。
残されたのは、クロと、その男だけだった。
「いや〜、ごめんね。こんな場所まで来てもらって」
穏やかな声だった。けれど、どこか引っかかる。目の前の男の輪郭が――はっきりと“認識できない”。
確かにそこにいる。立っている。話している。なのに、顔も、声も、体格すらも、掴めない。クロの思考が、ぬるりと滑るように絡みつく違和感に包まれていく。この感覚――以前、いや今日か、どこかで、似た何かを感じたことがある。けれど、それすらも曖昧に霞んでいく。
「……あなたは、誰ですか?」
言葉を搾り出すように問いかける。
「おや、警戒しないのかい?」
男は楽しげに首を傾げた。
クロは一瞬だけ沈黙し、それから真っ直ぐに答える。
「……シロが案内した、ということは。……危害がないと判断しました」
その答えに、男は大きく、楽しそうに笑い声を上げる。
「ははっ、君、いいね。なるほど――あいつが隠してたわけだ」
その笑みには、底知れない何かが滲んでいた。それが“何か”も、今のクロには、まだ見えていない。
「さて――あまり長居はできないんだ。だから、手短に話す」
男は静かに息を吸い、そして告げた。
「そのうち、君に迷惑をかける“転生者”が現れる」
淡々とした声。それでいて、どこか重たく響く響きだった。
「……私と、同じ存在ですか?」
クロは警戒を緩めず、低く問い返す。
男の口元が、ゆるく弧を描く。
「正解。まぁ、種族や能力は違うけどね。ただし、君とは違い……勘違いして好き勝手にやってる」
言いながら、男は肩を落とすようにして、ひとつため息をついた。
「まったく……何が“転生”だよ。どの口が言うんだか」
独り言めいた愚痴が、ぽつりと続く。
「君みたいな子なら、良かったんだけどね。自覚もあって、理性もある。……でも、勘違いした転生者ほど、厄介な存在はないよ」
「なぜ……転生を?」
クロの問いに、男は少しだけ視線を上げ、ゆっくりと答えた。
「世界の維持。それだけさ」
「……?」
「君がいたあの惑星――平和だったろう? まぁ、水面下では君、いろいろ画策してたけどね。本来、転生者というのは“そのため”に存在してる。均衡を保ち、役目が終わったらまた輪に戻り、次の世界に生まれ変わる……はずだった」
男の声には、どこか諦めにも似た響きがあった。まるで、計画が崩れたことに対する静かな苛立ちが、感情の底に沈んでいるようだった。
「その前に……“転生”に選ばれた理由を、教えてください」
クロは一歩も引かず、まっすぐに問いを投げかける。
男はぴたりと動きを止め、小さく目を逸らした。
「……怒らない?」
なぜか妙に慎重な口調だった。
「怒る……理由があるんですか?」
クロがほんのわずかに眉をひそめると、男は居心地悪そうに頬をかいた。
「……うん。いや、その……日本人ってさ。好きでしょ? 転生」
言葉の最後は、どこか開き直るように軽く投げられた。
クロの表情が、一瞬だけ凍りつく。
「…………それだけ、ですか?」
「……それだけ」
男は悪びれた様子もなく、肩を軽くすくめて答えた。そして、追い打ちのように続ける。
「だってさ、この世界の住人だと――君みたいな、特殊な種族とか能力とか……後付けできないんだよ」
言いながら、男は軽く手を開いて空を仰いだ。
「それに、これは事実として言っとくけど――どの並行世界を見ても、日本人の適応力って、ほんとに抜きん出てる。常識の切り替えが速いし、理不尽なルールにも折り合いをつけて飲み込める」
苦笑とも溜息ともつかぬ声が、静かに落ちた。
「……もちろん全員がってわけじゃないよ。でもね、日本って、昔から転生モノとかSFとか――いわゆる“異世界”を想像する文化が根付いてるんだ。だから、適応も早いんだよ。……あこがれ、って言ってもいいかもしれない。こっち側の存在から見ても、ああいうのはね」
クロは返す言葉を探しながら、無言のまま男を見据えた。
「…………言い返したいですけど、言い返せない自分がいます」
クロは少しだけ目を伏せ、淡々と吐き出すように言った。
それを聞いて、男は楽しそうに肩を揺らした。
「でしょ? でもね、君みたいに本当に“おとなしくしてくれる”転生者って、そうそういないんだよ」
ひと呼吸置いて、男は指を折りながら続ける。
「だいたい、“俺TUEEE”して多大なる迷惑をかけ生きるか、調子に乗って死ぬか……あるいは、自分を神と勘違いして独裁者になるか――そのどちらか」
クロはわずかに口を開きかけて、思わず言葉を挟む。
「……でも、私もしてますよ? “俺TUEEE”……」
その言葉に、男は思いきり手を振って否定した。
「いやいやいや、君は違う! 君のそれは“俺TUEEE”じゃない。“正しく強い”ってやつだよ」
男は目を細め、ひとつ頷いてから言葉を続ける。
「むしろ君は、“秩序”を守ろうとしてる。守るべき相手を見極めて、自分から外れない。言ってしまえば、ガーディアン。こっち側の言葉で言うならね」
クロは微かに首を傾ける。男はその様子を見て、にこりと笑った。
「ほんと、君は過小評価が過ぎる。もっと自分の在り方に、自信持っていいよ。――なんたって、数千年も耐え続けた猛者なんだから」
男は片眉を上げ、口元に笑みを浮かべる。
「それに感謝してね。……君を自由にしてやれって、女神相手にキレたの、他でもない俺なんだから」
さらりと放たれた言葉に、クロは小さく眉をひそめる。
「……もしかして、今朝見た夢は――」
問いかけた瞬間、男がにやりと笑う。
「ああ、多分それ。“君を解放した”ときの出来事だろうね。俺がここに来た時、恐らく君に干渉して、過去の断片が見えたんじゃないかな」
肩をすくめる仕草に、どこかあいまいな色が滲んでいる。しかし、ひとつだけ確かなのは――その夢に映った男の“怒り”が、本物だったことだ。
「……そこは、感謝しています。ですが――」
わずかな間を置き、言葉の調子を鋭く引き締めた
一拍、間を置いて、鋭く問う。
「……もしかして、私に転生者を“始末させよう”としてます?」
男はくすりと笑った。
「正解でもあり、不正解でもある、かな」
言いながら、男は空を仰ぐようにして息を吐いた。
「君には“自由”がある。……何をしてもいい。どこに住んでも、誰と過ごしても」
そして、声の調子をわずかに落として続ける。
「ただし――それでも、生きていれば“敵対”は避けられない。遅かれ早かれ、必ずぶつかることになる」
クロは視線を逸らさず、その言葉の先を待った。
男は苦笑するように、肩をすくめて言う。
「だから、その時は……ごめん、ってことで」
「……わたしも、ひとつ聞いていいですか?」
クロは少し間を置いてから、慎重に口を開いた。
男はにやりと笑みを浮かべ、肩をすくめる。
「いいよ。ただし――一つだけね」
「……なぜ、私は“女の姿”にしかなれないんでしょうか?」
静かながら、どこか引っかかるような声色だった。
男の笑みが、一瞬だけ止まった。
「……ほんとに、それ聞く?」
「……他に聞きたいこともありますけど、生活を邪魔されないなら、特に追求するつもりもありません」
クロは少しだけ首を傾け、ぽつりと続ける。
「ただ……本当は、イケメンの細マッチョとかがよかったんですが。どうやっても、この姿にしかなれなくて」
そのぼやきに、男は吹き出すように笑い、けれどすぐに真顔に戻った。
「それはね――“女神の因子”が関係してる。君のその姿は、彼女の“生き写し”みたいなもんだよ」
「……女神の?」
「本物と比べれば、まだずいぶん幼いけどね。でも、形としては――彼女が定めた型。だから君の意志じゃどうにもならない。魂に刻まれてるんだ」
男は遠くを眺めるように目を細めた。
「それが嫌なら、文句は――直接、あの女神に言ってくれ。俺は知らないから」
男の輪郭が、ふわりと揺らいだ。
空気に溶けるように、線が曖昧になっていく。
「……時間だ」
かすれた声が届く。
「バハムート――クロ。この世界は……好きか?」
その問いに、クロはほんの少しだけ目を細めた。
「……まだ、はっきりとは言えません。けれど……今は、気に入っています」
男の顔が、ふっと柔らかくほころんだ。その笑みには、どこか救われたような安堵がにじんでいた。
「……そうか。――よかった。ありがとう」
その言葉と共に、男の姿は光の粒となって静かに消えていった。
残されたのは、揺らぐ風と、ほんのわずかな余熱だけ。
クロはその場に、しばらく立ち尽くしていた。思考の中に、さっきの声が、あの曖昧な存在の気配が、微かに残っている。
(……もう、顔も声も、ぼんやりとしか思い出せない。けれど――ありがとう、か)
視線を落としながら、口元だけで小さく息を吐く。
(……本音を言えば、女神に一発、ビンタでもかましてやりたかったけど)
くす、と笑みが漏れる。
「……まあ、今の姿も――割と気に入ってるし。……大目に見てやるよ」
静かに言葉を置くように呟いて、空を見上げる。
「……もし、いつか会うことがあれば……そのときは――ちゃんと、お礼くらいは言ってやる」
クロはゆっくりと背を向け、風の吹き抜ける音だけが残る農業プラントを後にした。その歩みは確かな足取りながら、どこか遠くを見つめているようでもあった。
誰もいないはずのその場に、ひとつだけ気配が残っていた。
白い猫――シロが、ぽつんと立ち尽くしている。
その金色の瞳が、クロの背を静かに見送る。やがて、ひとつ瞬きをしてから、ゆっくりと尾を振る。
そして、音も立てずに身を翻し、街の影へと消えていった。