バハムートという現実
クレアをアヤコたちに預けた後、クロは、静かにギルドの扉をくぐった。
「もどりました」
受付カウンターにいたグレゴが、無言のまま端末のスキャン部分を指さす。いつものやりとりだ。
だが、今日は少し様子が違った。
「お前、一応気をつけろよ。良く思ってない連中が、妙な動きをしてる」
端末を操作しながら、グレゴが目線を上げる。その声には、どこか張り詰めた気配があった。
「わかりました。ただ――もしも向こうから攻撃してきた場合は、容赦しませんがいいですか?」
クロは淡々と返す。だが、その目にはわずかな光が宿っていた。
グレゴは、こめかみに手を当てながら、半ば呆れたように言った。
「いいわけねえだろっ! そこそこにしろ!」
その叫びにも、クロの態度は変わらない。むしろ――
「……止めないんですね」
ぽつりと落ちたその言葉に、グレゴは深くため息を吐いた。
「お前、自分が“既にやってる”自覚……あるか?」
じっと向けられた視線に、クロは目を逸らした。
「……自覚はあるみたいだな。いいか、そこそこだぞ」
グレゴは視線をそらしたクロの態度に、改めて釘を刺すように言った。
本当のところ、すでに“そこそこ”どころではなく、相手を完全に“消して”しまっていた――
だがそれを知る者は、クロと、クレアだけだった。
「わかりました。それと、三日ほど……休暇をいただいてもよろしいですか?」
クロが話題を変えるように静かに切り出すと、グレゴはあっさりと頷いた。
「いいぞ。というか、それはお前の自由だ。ある程度きちんと依頼をこなしてりゃ、こっちは文句言わねぇよ。ただな、一月以上ダラダラして“怠けてる”ように見えたら、さすがに口出しする」
「大丈夫です。お父さんの家に住むための準備ですので」
真面目な口調でそう答えるクロに、グレゴは少しだけ表情を緩めた。
「……そうか。シゲのところに住むのか。っていうか、まだ住んでなかったのか?」
「はい。ホテルには支払い済みなので、そこまでは滞在していようと思ってました」
「へえ、意外と――律儀なんだな、お前」
小さく感心したように呟きつつ、グレゴは端末の操作を続ける。依頼報告の確認処理を終え、入金手続きを済ませたその画面には、ある映像が再生されていた。
「……しかし、お前。今回はなかなかの大物を狩ったな」
「はい。いい狩りでした」
クロはあっさりと答え、既に報酬のことより次の行動に意識を移しているようだった。
グレゴは、ふぅと深く息を吐きながら、端末の映像に視線を戻した。
ホエールウルフとの戦闘記録――だが、それは単なる討伐映像ではなかった。ロボットとしてクロの機体に登録されているはずのバハムートが血を流し、ホエールウルフに飲ませ、輪を与えられた瞬間、獣が進化の兆しを見せるシーン。そして――擬態。クロの生身が姿を現し、“端末”を使ってホエールウルフだった存在に擬態させていく流れのシーン。
その一連の過程が、音声と映像で克明に記録されていた。
「…………お前は……」
眉間にしわを寄せ、グレゴは小さく呟く。言いかけた言葉は、そのまま喉に押し戻された。
「……いや、いい。とりあえず、入金は完了だ」
クロは軽く頭を下げ、静かにギルドを後にする。
その背を目で追いながら、グレゴは複雑な表情を浮かべていた。
「……どうやら、ジンの予想は正しかったってわけか。笑い話だと思ってたんだがな……一回シゲと話さないけないな」
椅子に背を預け、グレゴは再び端末の画面を見つめ直す。
そこに映っていたのは――宇宙空間を生身で行動するクロの姿。そして、ロボットでクロの機体であるはずの“バハムート”が、実体を持つ生身の存在であるという動かぬ証拠。さらには、新たな種――“バハムートウルフ”と名付けられた眷属が誕生するまでの記録。
それはもはや、“噂”や“仮説”などというレベルの話ではなかった。
そこに映っていたのは、まぎれもない――“クロが、バハムートそのものだ”という、覆しようのない“現実”だった。
「……なんだよこれ。漫画か、アニメか……わきが甘すぎるだろ」
重く落ちる呟きとともに、グレゴは静かに指を動かす。数秒後、端末上から映像ファイルは完全に消去された。
誰の目にも触れさせない。それが、グレゴの判断だった。
そして、低く言葉を漏らす。
「……こっちの生活に合わせる気があるなら、クロは“人”として扱うべきだろうな」
だが、その声色には明確な含みがあった。
「……ただし。周囲のサポートは、絶対に必要だ。あれは――下手につつけば、爆発する。超特大の火薬庫だ」
グレゴの眼差しは、暗転した画面をじっと見つめたまま、動かない。
その先にあるのは、理屈では測れない存在と、予定調和では語れない未来だった。
やがて、ぽつりと呟く。
「……しかし、まさか“バハムート”が、子供の少女だったとはな。……ジンは、よく見抜いてたもんだ」
グレゴの声には、驚きとわずかな畏れ、そして深いため息が滲んでいた。
この情報は――ギルマスに報告せざるを得ない。けれど、それは軽々しく口にできる話ではなかった。組織全体を揺るがす可能性を含んだ“存在”――クロ。その正体と力を、どう伝えるべきか。
「……ギルマスに報告しなきゃならんだろうが……」
苦い独り言が漏れる。眉間に手を当て、グレゴは思案の沼に沈みかけていた。
と、そのとき。
階段のきしむ音が、静かな受付に落ちた。聞き慣れた足取り。見上げれば、二階からジンが降りて来る。静かな微笑――だが、それは紛れもなく“予想が当たった者”のそれだった。
「……聞いてたのか」
グレゴの問いかけに、ジンは目を細めて頷いた。
「全部、ね。どう、私の言ったとおりでしょ♪」
静かに笑うその横顔に、グレゴはまたひとつ、深いため息をついた。