クレア、あたたかさに触れる夜
クレアの様子に気づいたアヤコは、椅子に腰かけながら、くすりと笑う。
「そんなに警戒しなくても大丈夫。こうやって体を洗えば、汚れも疲れも流れてくれるんだよ。……ほら、クレアにもしてあげるからさ」
泡立てた手で自身の体を洗いながら、アヤコは軽く視線を向ける。
「それと、呼び捨てでいいよ。敬語もなしでね」
そう言って肩をすくめた彼女は、湯気に包まれた空間の中で、ふと問いかけた。
「で、変わった感じって、どう?」
湯をまとった白い泡が肩から滑り落ちる音の中、クレアはシャワーから一歩退き、浴室の床を流れるぬるま湯にそっと手を伸ばす。
指先が湯に触れた瞬間、びくりと身をすくめた。
「……以前なら、手こずっていた獲物を、簡単に仕留められて驚きました。……それと、これ……」
床に広がる湯に目を向けながら、ぽつりと呟く。
「あたたかい……なんです、これ?」
その声には、獣としての感覚では触れたことのない、不思議なぬくもりへの戸惑いと、ほんのわずかな安らぎが滲んでいた。
「お湯だよ。……知らないの?」
そう尋ねたアヤコに、クレアは首を傾げながら、正直に答える。
「知りません。宇宙にはありませんし、これは……血に濡れたときのような不快感が、ありません」
アヤコは思わず手を止め、目を瞬く。
「……表現が、ちょっとえぐいね」
苦笑しつつも、肩から滑り落ちる泡を手で払い、最後に軽くシャワーで流し終える。
そしてタオルを取る前に、クレアのほうへ振り返った。
「まあでも、体験すればすぐわかるよ。最初はぬるめにしておくから、もし不快だったらちゃんと言って」
その口調には、どこか姉のような優しさと、相手を気遣う自然な温もりがにじんでいた。
アヤコは湯船のそばで、お湯を前足でピチャピチャと触っていたクレアをそっと抱え上げ、そのまま自分の前に座らせた。
「ちょっとびっくりするかもだけど、大丈夫だからね」
そう声をかけながら、アヤコはシャワーの向きを確認する。
「お湯かけるよ、ゆっくりね」
まずは、お尻のあたりから優しくシャワーを当てていく。クレアの体が一瞬びくりと揺れたが、すぐに落ち着きを取り戻した。
「……濡れるって、こんな感じなんですね」
声には驚きと、どこかくすぐったさの混ざったような響きがあった。
「血で濡れたときとは、違います。これは、不快じゃない」
アヤコはくすりと笑いながら、クレアの背中をなでる。
「そりゃよかった。お湯ってね、あったかくて、気持ちいいんだよ」
クレアは小さく首を傾けたまま、真面目な顔で言った。
「“気持ちいい”というのが……わかりません。私は、気持ちいいということを、知らないです」
その言葉に、アヤコはほんの一瞬だけ手を止めた。そして、優しく微笑みながら、ふたたびシャワーを手に取った。
「じゃあ、今からちょっとずつ覚えていこう。最初は、ここからね」
アヤコはシャワーの角度を調整しながら、ゆっくりとクレアの全身にお湯をかけていった。尻尾、背中、脚先まで――湯気が舞い、ぬるま湯が静かに流れていく。クレアの小さな身体が、次第にその温もりを受け入れていくのが、手からも伝わってくる。
「どう? ……なんか、ホッとしない?」
柔らかく問いかける声に、クレアはしばらく黙っていたが、やがて静かに答えた。
「……そうですね。あたたかいのは、わかります」
そして一度、小さく瞬きをしてから、ぽつりと続けた。
「……何か、群れと一緒にいたときの感じに……少し似ている気がします」
その言葉に、アヤコの手が一瞬止まり、目線だけでクレアを見やる。
「……クロが、ごめんね」
それは、きっと理由も知っているし、立場も理解している。でも、それでも“誰かの側”にいたかったであろう気持ちを思っての言葉だった。
クレアは小さく首を振った。
「いえ。……仕方のないことだと思っています。クロ様からは、ちゃんと説明を受けました。だから、納得はしています」
その声は穏やかで、責める色は一切なかった。けれどそこには、どこかひっそりとした“名残”のような感情が宿っていた。
「そう……そっか。じゃあ、顔にお湯かけるよ。目、つむっててね」
アヤコは声の調子を少しだけ柔らげ、タオルを手にシャワーの向きを変える。
クレアが素直に目を閉じたのを確認すると、ぬるめの湯を、そっと額から流すようにかけていった。細い鼻先を伝う水が、あたたかな雫になって頬をつたう。クレアの耳が一瞬だけぴくりと動いたが、すぐに落ち着きを取り戻す。
「よし……きれいになった。じゃあ次、アワアワにするよ」
アヤコは、タオルで泡立てた手をひょいと掲げ、小さく笑いながら釘を刺すように言った。
「なめたらダメだからね。これは食べ物じゃないから」
クレアは目を開けて、不思議そうに泡を見つめた。
「……なめないように、気をつけます」
真面目な表情で頷くその仕草に、アヤコはくすっと笑いをこぼした。
泡をたっぷり手に取り、アヤコは黒い毛並みに優しくなじませていく。撫でるように、包むように。滑らかな毛が泡に覆われていくうちに、どこかポメラニアンのような丸っこいフォルムが浮かび上がってくる。
「ふふっ……なんか、すごくかわいいことになってるよ、クレア」
くすくす笑いながら、アヤコは手を止めずに言った。
「じゃあ、顔も覆うね。ちょっと我慢してて。息苦しかったらすぐ言って。ごめんね」
優しく声をかけると、クレアは素直に頷く。そして、淡々と――けれどまるで当たり前のように、こう返した。
「大丈夫です。呼吸は必要ありませんので」
その一言に、アヤコの手がぴたりと止まる。
「……え、そっか。……え?」
思わず二度聞きしてしまい、アヤコは苦笑しながらシャワーを手に取り直す。まだまだ知らないことが多いな、と心の中で呟きながら。アヤコはシャワーの温度を確認しながら、クレアの体についた泡を丁寧に流していった。白く覆われていた毛並みが次第に元の艶を取り戻し、ぬるま湯とともに滑らかに流れ落ちていく。
その最中、クレアがふと呟いた。
「……そうか。この、撫でられる感覚……これが、“気持ちいい”ということ、なんですね」
その声音には、どこか納得と驚きが混ざっていた。
アヤコはにっこりと笑って、声をかける。
「おっ、わかってきたね。初めてにしては上出来じゃん」
最後の泡が流れ落ちると、そこには見違えるほど綺麗になったクレアの姿があった。その姿は、豆柴ほどのサイズながらも、しなやかに引き締まった四肢と鋭い耳――まさしく、狼の姿をした“小さな獣”だった。黒い毛並みは艶やかに整い、匂いもすっかり取れている。
クレアは湯気の中で、自分の体に鼻先を寄せ、くんくんと確かめるように嗅いだ。
「……以前の私なら、匂いが消えるのは恐れていました。でも今は、特に嫌ではありません」
「動物にとっては、匂いって大事だもんね」
アヤコが頷くと、クレアは小さく目を伏せながら続けた。
「はい。でも、今の私は……それを“嫌だ”と感じていません。不思議です」
その言葉には、変化を受け入れつつある自分への、どこか戸惑いと静かな喜びがにじんでいた。
「じゃあ、最後に湯船に入って、あったまろっか」
アヤコが湯船の縁をぽんと叩きながら笑うと、クレアは小首を傾げる。
「……これがお風呂ではなかったんですか?」
「お風呂でもあるけどね、本命はこっち。お湯がたまってるところに、どっぷりつかるのが“お風呂”なんだよ」
そう言って、アヤコは湯気の立ち上る湯船にゆっくりと浸かっていく。肩まで沈めて「ふぅ」と息をついたその様子は、まさに至福の顔だった。
その様子を見たクレアも、恐る恐る湯船の縁に飛び乗り、前脚から慎重に中へ身を滑らせていく――が。
「っ……!?」
足がつかないことに気づいた瞬間、クレアの体がぷかりと浮き、そしてそのまま、ずぶりと沈みかけた。
「くっ……これ、沈む……!? 浮かない……!?」
あわてて足をばたつかせ、四肢で水をかくように暴れ始めるクレア。バシャバシャと水音が響き、湯面が大きく揺れる。
「わわっ、ちょっと待って、落ち着いて!」
慌てて湯船から立ち上がろうとしたアヤコの前で、クレアは自力で縁によじ登り、ばしゃんと音を立てて脱出した。全身から湯を滴らせながら、浴室の隅へとぴたりと身を寄せ、小さく震える。
「……死にますか?」
ぽつりと落ちたその一言に、アヤコは思わず吹き出しかけたが、すぐに苦笑に変えて返す。
「死なないってば。大丈夫だよ、あれくらいで」
そう言って、手近な桶を手に取り、ぬるめのお湯をそっと注ぐ。クレアに差し出しながら、穏やかな声で続けた。
「これなら溺れないよ。入ってみて?」
クレアは警戒を浮かべたまま桶をじっと見つめ、前足をそろりと差し入れる。沈まないことを確認すると、少しずつ、慎重に身を滑り込ませていく。
やがて全身がすっぽりとお湯に浸かり、黒い毛並みが湯面にやさしく浮かび上がる。湯気に包まれたその姿は、濡れた漆黒のぬいぐるみのようで、どこか健気だった。
「……今のが、“溺れる”ということなのですね……しかし、これは……」
クレアは目を細め、鼻先だけをぬくもりの中に預けながら続ける。
「……これも、気持ちいいです」
その声には、まだ慣れない感覚への戸惑いと、ほんの少しの嬉しさがにじんでいた。