クレア、家族の匂いと湯に包まれて
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「はぁ……勝手に増やすなよ。ただ、犬ならまあ……許す。けど、臭ぇから――アヤコ、クロも一緒に……クレアだったか? 風呂入れてこい」
シゲルはそう言ってカウンターの椅子にどっかりと腰を下ろし、端末を開いて書類作成を始めた。
「営業はどうすんの?」
工具を片付けながら、アヤコが背中越しに声をかける。
「もう閉める時間だ。俺は一人で、ゆっくり店番でもしながら資料整理しておく」
「わかった。クロ、クレア。お風呂行こっか」
手を叩くようにして誘ったアヤコに対し、クロは首を軽く横に振る。
「いえ、クレアだけお願いします。私はこれからギルドに報告がありますので」
そして、クロは続けた。
「あと、クレアを――一緒に暮らすまでの間、面倒を見てあげてください……よろしいですか?」
その言葉に、最も驚いたのは、当のクレアだった。
「ク、クロ様!?」
クロの横で思わず声が上ずる。耳がぴたりと伏せられる。
だが、クロは振り返ることなく、静かに言葉を添えた。
「クレア。その間に、ふたりにこれまでの経緯を詳しく説明しておいてください」
それだけを告げると、クロは返答を待つこともなく、無言のまま転移した。
「……クロ様……」
残されたクレアが、小さく呟くように呼びかける。
沈黙の間を破ったのは、シゲルだった。
「あいつ……アヤコ、200万くらい、しれっと請求しとけ」
ため息交じりにそう言うと、カウンター越しにクレアへと視線を向ける。
「お前も、えらいのの家族になったもんだな」
皮肉とも同情ともつかぬ声音だったが、クレアはまっすぐに見返し、ほんの一拍の間を置いてから返す。
「……それは、あなた方も……では?」
その声には、かすかな困惑と――ほんの少しの誇らしさが混ざっていた。
アヤコは端末を操作しながら、にんまりと笑う。
「はい、請求完了っと。200万、ちゃっかり請求♪」
そう言い終えるや否や、ひょいっとクレアを抱き上げる。
「さ、行こっか。お風呂。……でも、犬用シャンプーないんだけど――ま、いっか♪」
「いえ。何が“いい”のかも、私にはまだわかりません。それに……私の主は、クロ様です」
クレアは抱かれたまま、控えめに、しかしきっぱりとそう言った。
だが、それを聞いたシゲルがさらりと応じる。
「なら俺は、クロの父親だ」
すかさず、アヤコも声を重ねる。
「私はお姉ちゃんだね」
その一言に、クレアはぴたりと動きを止めた。小さな耳がぴくりと揺れる。そして、抱かれたまま――ほんの少しだけ、身体を預けるように力を抜いた。
「では、将来の……お父様とお姉様、ということになるのでしょうか?」
どこか照れを含んだ声音で、クレアがそっと確認する。その言葉に反応したのは、シゲルだった。
「お前……クロと同じように人間?」
腕を組み、やや不思議そうに眉をひそめる。
「将来的な話です。ですが、今の私は――人間を知りません」
淡々と、けれど誠実な調子でクレアが答えると、アヤコがぱっと顔を輝かせた。
「えっ、なにそれ! 新しい妹がまた増えるってことじゃん!」
「お前にとっては……叔母が増えるって話なんだがな」
シゲルがぼそりと返すと、アヤコが振り向きざまに叫んだ。
「じいちゃん! そういうこと言わないの!」
アヤコはシゲルにべーっと舌を出すと、クレアを小脇に抱え、そのまま風呂場へと向かっていく。
「で、なんでクロの家族になったの?」
廊下を歩きながら投げかけた問いに、クレアは一瞬だけ考える素振りを見せ、丁寧に言葉を紡いだ。
「クロ様――いえ、バハムート様との戦闘になり、群れは全滅しました。私ひとりだけが残され、そして……戦いました」
「……よく死ななかったね」
アヤコは脱衣所に入り、手早くジャンプスーツを脱いでカゴに放り込んだ。作業着の下から現れたのは、整備仕事で自然と鍛えられた、引き締まった体。細身ながら芯のある筋肉のつき方は、日々重い部材を運び、工具を振るう中で培われたものだった。
赤髪のショートヘアが、湿気でふわりと広がる。いつもはワックスで跳ねている髪も、いまは素直に頬へとかかり、どこか無防備な印象を与えていた。
鏡を覗き込むでもなく、タオルを肩にかけると、クレアを抱えアヤコは浴室の戸を開けた。
「はい。今でも……なぜ生き延びたのか、自分でもよくわかりません」
クレアはその腕の中でそう答えながら、視線をそっと逸らした。アヤコの姿に、どこか安心感と憧れが混ざっていた。
「けれど……挑んだからこそ、バハムート様に認めていただけました。血を分け、腕輪を体内に取り込んで――私は“進化”したのです」
浴室に入り、アヤコはシャワーの蛇口を捻った。温度を確かめた後、何のためらいもなく、そのまま肩からお湯を浴び始める。
濡れた赤髪が額を伝い、首筋へと張りついていく。整備でついた微細な傷や工具痕が、湯気に包まれながら肌に溶け込んでいく。その姿は飾り気がなく、だからこそどこかしら色気があった。
「そして名をいただき、眷属として迎えられました。……私の本来の名は、ヨルハです」
「ヨルハ……ふうん。強くて綺麗な名前。なんか、あんたに似合ってる」
アヤコは髪をかき上げながら、にこりと笑った。その仕草は、仕事中の彼女には見られないような、年相応の柔らかさを帯びていた。
その様子に、クレアの目が思わず引き寄せられる。だがすぐに、ほんのわずか身を引いて、声を潜めるように尋ねた。
「……あの、アヤコ様。それで、私は……今から何をされるのでしょうか?」
その声音には、ほんのわずかな不安と、未知への警戒がにじんでいた。