群れを喪い、家族を得る
クロはクレアを抱き上げようと手を伸ばしかけて――ぴたりと止まった。
「……くさいな」
ぽつりと落ちた言葉に、クレアが目を瞬く。
「えっ?」
「クレア。鼻が慣れてて気づかなかったが……お前、けっこう臭うぞ」
クレアは、くん、と自分の体に鼻を寄せた。
「……臭くはないですが」
「いや。獣臭がすごい」
クロは鼻をひくつかせながら、真顔で言い放つ。
「本体はここで洗浄できたはずだが……お前はシャワーに入れてやらんとな」
“シャワー”という言葉に、クレアは小さく首を傾げた。それがどういうものかは、まだ知らない。だが、何より――
「……くさい」と言われたこと自体が、じわじわと胸に染みていた。
クロは続ける。
「今から、家族の元に行く」
「……はい。……臭いですか……」
答える声は小さく、どこかしょんぼりとしていた。
「しょんぼりするな。転移するぞ、肩に乗れ」
クロの一言に、クレアはわずかに耳を伏せて小さく呟いた。
「……くさい……」
自分で言ってさらに沈み込みながらも、彼女は無重力の貸ドックを泳ぐように進み、クロの肩へと乗り移った。
光の揺らめきと共に、ふたりの姿は空間から消え、次の瞬間にはコロニーの居住区へと転移していた。
そのままクロは、まっすぐにジャンクショップを目指して歩き出す。肩の上では、豆柴ほどのサイズの黒い“犬”――クレアが、きちんとバランスを取りながら乗っていた。
その姿は、通行人の目を自然と引き寄せる。
「うわ、肩に犬乗ってる……かわいっ……!」
「えっ、めっちゃお利口じゃん……あれ、訓練された警備犬か何か?」
「ていうか……可愛いんだけど、ちょっと……なんか獣っぽいにおいしない?」
「うん、かわいいけど……風下は避けよ。ちょっときついかも」
褒める者もいれば、顔をしかめる者もいた。中には足を止めて見惚れる者さえいたが、クロは気にも留めず歩き続けている。
しかし、クレアは違った。すれ違いざまの視線や囁きが、耳に届いていた。中には嬉しい声もあったが――匂いに言及されるたびに、胸の奥がじわりと痛んだ。
(……やっぱり、私……くさいんですね)
肩の上で、クレアはそっと体を縮める。耳を寝かせ、鼻先を軽く伏せ、視線を落とした。まるで、風に乗って匂いが届かないようにと祈るかのように、息を押し殺す。
ジャンクショップの前に立ち、クロは静かに扉を押し開けた。中からは、低く唸るような機械音と、金属を切断する高周波の音が響いてくる。
奥で何かを製作しているのだろう。店内は照明こそ点いているものの、誰の姿も見当たらない。
「こんにちは。お姉ちゃんいますか?」
クロが声をかけたが、返事はなかった。作業音が止まる気配もない。どうやら聞こえていないようだった。
クロは軽くため息をつき、肩のクレアを一度押さえながら、奥の作業場へと足を踏み入れる。防音の仕切り越しに、内部の様子が目に飛び込んだ。
アヤコとシゲルが、何か大型のパーツを解体していた。ビームカッターの光が断続的に迸り、断面からは白い蒸気が漏れている。
その様子をしばらく見ていると、先に気づいたのはシゲルだった。
視線を向けたまま、手を止めることなく大声を張る。
「クロか、ちょっと待ってろ! 今、手が離せん!」
続けてアヤコが顔も上げずに叫ぶ。
「えっ、クロ!? ちょっと待ってて、今マジできつい!」
叫ぶというより、叫ばざるを得ない、といった声だった。煙と火花の中で奮闘するふたりを前に、クロは肩をすくめると、仕方なさそうに店内の隅へと腰を下ろした。
作業音が続く中、クロは肩のクレアをそっと降ろすと、自分の隣にちょこんと座らせた。クレアは素直に従い、脚を折りたたんで大人しく座る。
ビームカッターの光が散り、煙が小さく舞う。そして数分後――最後の溶断が終わり、大きな装甲板が外されると同時に、場に静けさが戻った。
「すまなかったな。待たせた」
作業用ゴーグルを外しながら、シゲルがゆっくりと歩み寄ってくる。額の汗をタオルで拭いつつ、穏やかな笑みを向けた。
「今日はどうした? 部屋は片づけておいたが……今日から住むのか?」
「いえ、それは明後日からになります。一応ホテル代を支払っていますので、それまではそちらに」
クロが静かに答えると――
「ク〜ロ〜っ♪ し・は・ら・い♪」
どこか呪文めいた調子でアヤコが現れた。端末を手に、にやにやと悪戯っぽい笑みを浮かべながら迫ってくる。どうやら「まだ払わないんじゃないか」と思って、からかい半分で出てきたらしい。
だが――
「そうですね。払います。……2,500万Cでしたね」
クロの即答に、アヤコの足が止まった。
「……え!? マジ?」
「マジです」
そう淡々と返しながら、クロは自分の端末を操作する。数秒ののち、アヤコの端末に“支払い完了”の画面が表示された。
「うわ……ほんとに払った……」
呟くアヤコの声に、後ろから覗き込んだシゲルが肩をすくめた。
「それで、支払いできたわけじゃないよな。……大方、そこの犬か?」
アヤコが軽く腰を屈め、クロの横にちょこんと座る黒い豆柴サイズの犬に目を向ける。目を丸くして、そのまま顔を近づけ――
「えっ、かわい〜……けど、ちょっと匂うね」
その一言に、クレアの耳がぴくりと動く。彼女はそっと視線を伏せ、クロの横で小さく身を縮めた。
クロはそれをちらりと横目で見ながら、平然とした声で答える。
「そうです。簡単に説明しますと――家族が増えました」
言葉を区切るようにして、クロは小さく息を吸った。
「元はホエールウルフ。現バハムートウルフのヨルハ。そしてこの子は、その分身体――クレアです」
アヤコはしばし口を開いたまま、目を瞬かせた。
クロの説明に、シゲルは「またか」とでも言いたげに頭をかきながら、無言でため息をつく。もはや驚く気力も尽きたといった風だった。
一方でアヤコは、ぽかんと口を開けたまま、目を何度も瞬かせている。
「貸ドックの映像をご確認いただければ、そこにしっかり映っていますが……」
とクロが続けると、アヤコとシゲルは勢いよく首を横に振った。
「いい! 聞いてもわからないし、見ても混乱する気しかしない! で――その、クレアって喋れるの?」
その問いに、クレアがピクリと反応する。ぴんと立てた耳を揺らし、クロの肩の上で姿勢を正した。
「はい。私は喋れますが――クロ様、この方々は?」
声は澄んでいて可愛らしいが、言葉遣いは極めて丁寧だった。その小さな声に、アヤコは思わず「おおっ……」と唸るように漏らした。
「私の家族です。そして――クレアの家族にもなります」
クロの言葉は、淡々としていながら、どこか深く柔らかかった。その響きが、クレアの小さな胸に、じんわりと染み込んでいく。
けれど、それをすぐに受け止めるには――あまりにも時間が足りなかった。なにせ、彼女が“バハムートウルフ”として生まれてから、まだ数時間しか経っていないのだ。
新たな名を授かり、新たな姿を得て、分身体として今、クロの隣にいる。それだけで、世界が一変していた。
(……家族)
その言葉に、ふと心の奥から浮かび上がってきたのは、かつての記憶。ホエールウルフとして生きていた日々。牙を重ね、背を預け、群れで狩り、生き抜いた仲間たち。
だが、そのすべては――バハムートとの戦いで散った。
(失った、群れのみんな……)
ほんの一瞬、クレアの尾がしゅんと下がる。胸の奥に、過去の痛みがよぎった。
(でも――)
いま、自分の傍らには、名をくれた主がいる。「クレアの家族にもなる」と、何のためらいもなく言ってくれた。
それがどれだけ、救いになる言葉だったか。生まれ変わってまだ間もない自分にも、それだけははっきりとわかった。
(……また、群れができた)
目を細めながら、クレアはそっとクロの体に身を寄せる。ほんのわずかに耳が伏せられ、そしてまた静かに立ち上がる。
(……許してくれるだろうか。こんなにも早く、新しい群れを得てしまって)
言葉にはならない思いが、静かに胸を満たしていく。それでも――クレアの耳は、クロの声のする方へぴたりと向いていた。そこにあったのは、言葉ではなく――確かな、信頼のかたちだった。