静かな執行者
クロは、静かに決意を固めた。
――もう、動くしかない。
足音を忍ばせるようにして展示台の前を離れ、カウンターに向かって声をかけた。
「店員さん」
しばらくして、奥から一人の男が姿を現す。痩せぎすの体躯に、気だるげな目つき。制服は着ているものの、どこか清潔感に欠けていた。
「はいはい。いらっしゃ……」
言いかけたその言葉が、クロの姿を目にした瞬間、濁る。
十二歳ほどの小柄な少女。高額な買い物をするような客には見えなかったのだろう。男の顔には、わかりやすい苛立ちと面倒くささが浮かび、口元が歪んだ。
「……何か用?」
ぞんざいな口調。視線も合わせようとしない。
クロはその態度に一切反応せず、淡々と告げた。
「この猫。返してください」
男の眉が跳ねた。視線を向けると、白い猫――シロを指さしている。
「は? 何言ってんの、お嬢ちゃん」
男は呆れたように鼻で笑い、手を振る。
「帰ってくれ。冷やかしは困るんだよね。ほんとに」
その態度は、最初から“取り合うつもりがない”という意思表示に満ちていた。けれど、クロの声色も、表情も、まるで揺れなかった。
「ギルドからの依頼で来た。この猫は――依頼者が購入した猫だ。なぜ、またここにいる?」
クロの声は静かだった。抑揚も、怒気もない。けれど、その言葉には確かな“力”が宿っていた。
「……はあ?」
男が目を見開き、数秒遅れて反応する。
「わけのわからないことを言うなよ、このクソガキ!」
声を荒らげ、前のめりに詰め寄る。顔を真っ赤にし、唾を飛ばしながら怒鳴り返す。
「証拠でもあるってのか?えぇ!?テメェの妄想で商売邪魔すんなよ!」
クロはまばたきすらせず、その怒鳴り声を受け止めたまま、まっすぐに言い放つ。
「血統書と、生態データ――ここで見せろ。今すぐ」
「断る!」
男は即答した。怒鳴り声はさらに一段階、低く濁る。
「てめぇな……これ以上ゴチャゴチャ抜かすなら、裏に来いや。なあ?嬢ちゃん」
口元に浮かぶのは、下品な笑み。明らかに“交渉”ではない、別の圧力だった。
「……もういい。黙れ」
クロの声は低く、冷たかった。怒鳴り返すでもなく、怒りをぶつけるでもない――ただ、命令のように静かに放たれた言葉。
次の瞬間、空気が変わった。
クロの身体から発せられる“圧”が、空間を支配し始める。目には見えず、音もない。だが、そこにいたすべての生き物が――本能で察した。
ケージの中でじゃれていた小動物たちが、いっせいに身をすくめる。鳥たちは羽を震わせ、鳴き声が止む。空間から音が消える。
生き物すべてが、沈黙した。
「……は?」
店員が言葉を詰まらせ、額に汗を浮かべる。何が起きたのか、理解が追いついていない。けれど、感じてしまっている。“ここにいてはいけない”と、本能が警鐘を鳴らしていた。
クロは一歩、静かに前へ出る。店員の目が、反射的にその動きにすがるように揺れる。
「最後に聞く。データを見せろ」
先ほどまで全体へ向けて放たれていた圧力が、今は――店員一人に集中している。
「……あっ、いや、その……ま、まだ確認が――」
言葉にならない。喉が震え、足が引ける。
「見せろ!!」
その一声は、咆哮でも怒鳴りでもなかった。ただ、拒否を許さない“絶対”の命令。
「……はい!」
店員は反射的に背を向け、端末を抱えて奥へ駆け出していった。
店員は反射的に背を向け、端末を抱えるようにして奥へ駆け込んでいった。その姿は、まるで追い立てられる獣だった。圧に押され、逃げることすら許されない。動ける唯一の選択肢――それは“従う”ことだけ。
店の奥。休憩スペースでは、数人の男たちがタバコの煙をくゆらせながら、今日の客がまたハズレだったと気怠げに談笑していた。
だが――
「おい……なんだよ、その顔。どうした?」
乱暴に扉を開けて飛び込んできた同僚に、一同が思わず動きを止める。息は荒く、顔は蒼白。汗に濡れた手には、店舗の管理端末。その異様な姿に、場の空気が一気に凍った。
「おい……何してやがる。その端末は……!」
ひとりが立ち上がりかけた瞬間――止める間もなく、店員はロッカーを開けて、中からデータを取り出した。
血統書。そして、生態データ。
「お前……まさか、それを――あのガキに渡すつもりか!? バカか!」
怒鳴りつける声にも、店員はひるまなかった。いや――ひるむ余裕すらなかった。
「うるさい!」
目を見開いたまま、錯乱したように叫ぶ。
「もう終わりだ……!見ただろ、あのガキ……いや、違う。アレはもう人間じゃねぇ……!」
声が震えていた。肩が小刻みに揺れ、端末を持つ手からは、力が抜けかけていた。
「もうだめだ……何もかもバレてる。もう逃げられねぇんだよ……!」
その様子に、他の男たちもざわめき始める。
「お前……まさか、何か弱みでも握られたのか?」
「だったらよ、こっちでケリつけてやる。ガキ一人、潰すだけだろ」
ざり、と床を擦る音。立ち上がった男たちは、各々の腰や棚から、ビームバットやスタンロッドを引き抜いていく。
「やめろ!」
店員が叫ぶ。喉が潰れるほどの声。それは、恐怖と警告と、取り乱した叫びが混ざった叫声だった。
「絶対に……手を出すな!あいつにだけは!」
「……お前、どうしたんだよ。本気で言ってるのか?」
仲間の一人が眉をひそめ、訝しげに店員を見つめた、そのときだった。
「遅い。早く寄こせ」
――その声が、背後から静かに響いた。
振り返れば、そこには少女の姿。クロが、無音のまま休憩スペースへと足を踏み入れていた。
男たちは一斉に武器を構える。スタンロッド、ビームバット、そしてビームガン。
だが、クロは眉一つ動かさず、告げた。
「抵抗するつもりなら、容赦はしない。……いいか?」
「それは、こっちのセリフだ!」
一人が吠えると同時に、ビームガンが火を吹いた。至近距離から撃ち込まれた高出力の光線が、クロの身体を正面から襲う――
だが。
煙が晴れた先にいたのは、微動だにしないクロの姿だった。服一つ、焦げ跡さえついていない。血も傷も、ない。
「……は? な、なんで……」
撃った男たちが愕然とする中、クロは平然と口を開く。
「お前たちから先に仕掛けた。これで、正当防衛が確定した」
その声は、冷たい。感情のない、ただ処理を遂行するかのような機械的な響きだった。
次の瞬間、クロが動いた。
ほとんど残像すら残さず――一人目の男の左腕を掴み、そのまま握り潰す。粉砕音。男が悲鳴を上げる間もなく、クロの左足が鋭く振り抜かれた。
膝から下が、吹き飛んだ。
まるで映画のワンシーン。けれど、そこに流れるのは特撮ではない“現実”の絶望だった。
二人目の男が息を呑んだ刹那、クロの手にビームソードが閃く。起動音とともに一閃。四肢が一瞬で切り裂かれ、倒れ込んだ男の身体は、二度と動かない。
三人目は、最も運が良かった。恐怖に呑まれ、攻撃する前に――その場で気絶していた。無様に崩れた身体を、クロは一瞥もくれない。
そして、ゆっくりと振り返る。
唯一動けずにいた、最初に怯えていた店員へと、まっすぐ視線を向けた。
「……データは?」
冷え切った声が、問う。その目には怒りも激情もなく、ただ結果を求める“静かな執行者”の光が宿っていた。
店員は、がくがくと肩を震わせた。
「お、まっ……」
「――早く」
その一言で、空気が凍りついた。