狼は分身に夢を見る
ヨルハの戦いには、ひときわ研ぎ澄まされた美があった。流れるような身のこなし、無駄のない軌道、そして刃の一閃に込められた意志――すべてが一幅の絵画のように映える。
対して、バハムートのそれは――暴力だった。殴る。蹴る。また殴る。ただ、それだけ。
そこに華やかさはない。そこに美しさもない。
けれど、それでもなお――もし、そこに誰かがいたのなら。その光景から目を逸らす者は、一人としていなかっただろう。
圧倒的な力。その奔流が放つ、否応のない説得力。華やかさも、美しさも必要ない。ただ、それは“力”という名の真実だった。
――力とは、これほどまでに、雄弁なのか。
「最後の一匹か」
バハムートの呟きとともに振るわれたのは、ただの手刀。熱も、怒気も、演出すらない。だが、その一撃で宇宙シャークの巨体は、迷いなく真っ二つに断ち割られていた。
静けさが戻る空間に、バハムートの声だけが響く。
「やはり、弱い。……ヨルハを見習え」
バハムートの言葉に、ヨルハの胸にふつふつと誇りが湧き上がった。
自分の戦いが、主に認められた。あの攻撃――あの巨大な力と暴威の奔流を、自分は紙一重でかわしていたのだ。その事実に、ようやく気づいた。
客観的に見れば、それは――もはや神業と呼ぶほかない所業だった。ただの生き延びではない。意図と感覚のすべてを極限まで高め、刹那の判断で“死”を越えていた。
自覚していなかった自分の域に、今、あらためて震える。
(……私は、そこまで至っていたのか)
誇りとともに、冷静な驚きが胸に広がっていた。
宇宙シャークの死骸が、無重力の虚空にゆらゆらと漂っていた。その傍らに、ヨルハが静かに佇む。血の気も動きもないその姿は、まるで戦いの余韻を溶かすかのように、無言のまま宙に浮いていた。
「よくやった。今日はこれで終わりだ」
背後から響いたバハムートの声に、ヨルハはわずかに振り返る。
「どうしますか? この死骸は。……よければ、食べたいのですが」
淡々とした問いかけに、バハムートは思わず苦笑を漏らした。
「いやいや。わざわざまずいものを食わなくてもいい」
そう言って、右腕を前方へと差し出す。掌の先に、漆黒の球体が静かに現れる。光も音も吸い込むような、底知れぬ黒。力が凝縮されたその核を、バハムートはひと言だけ告げて放った。
「――フレア」
次の瞬間、漆黒の球が空間を侵食し、宇宙シャークの死骸を――いや、その痕跡すらも、塵に変えた。
残されたのは、ただの静寂。
「……勿体ない」
ぽつりと漏らすヨルハに、バハムートは肩をすくめる。
「ヨルハ。お前も、もう“食わなくてもいい”体になったんだ。わざわざまずいものを口にする理由はないだろう」
「しかし、“美味い”ということを、私は知りません」
そう返すヨルハの声には、どこか素朴な響きが混じっていた。味覚も嗜好も、まだ“獣”だった頃のまま――そんなヨルハの中に、ふと芽生えた小さな疑問。それは、戦闘や進化では決して得られない、“生活”という営みに触れようとする兆しかもしれなかった。
「帰るぞ。肩に乗れ」
バハムートがそう言うと、ヨルハは小さく頷いて飛び乗る。これからの定位置になることになる右肩に収まりながら、少し首を傾げた。
「はい。……ところで、どこに帰るんですか?」
問いかけに、バハムートは口の端をわずかに緩めて答える。
「コロニーだ。転移するから、少しじっとしてろよ」
その言葉と同時に、空間が揺れる。転移の光がふたりの姿を包み込み、次の瞬間、静かな金属音と共に視界が変わっていた。
転移先は、いつもの貸ドック。だが――今日は、ほんの少しだけ事情が違った。
「……ぶつかりました」
ヨルハが低く囁く。狭い格納スペースの中、バハムートの巨躯とヨルハの小柄な体が微妙に干渉し貸ドックの設備に軽く触れていた。
「ヨルハ。……俺の腹の上に回れ」
バハムートの指示に、ヨルハはわずかに目を瞬かせるも、素直に従う。宙を滑るように移動し、バハムートの腹部の上へと移動する。そして、そっと伏せるように身を沈めた。
仰向けになったバハムートの上に、ヨルハの軽い体が乗る。互いの動きが吸収されるように収まり、狭い貸ドックの中では、それが最も安定した配置だった。妙な体勢ではあったが、不思議と落ち着く。
バハムートの胸元から、淡い光がじわりと滲み出す。やがてその輝きは形を持ち、小柄な少女――クロが現れる。
無言で立ち上がり、ヨルハの前へとすたすた歩いていくクロ。小さな体に不釣り合いな威圧感を纏いながら、バハムートの腹の上を当たり前のように踏み進み、ヨルハの正面で止まる。
「では、分身体を出す方法だが――」
くるりと振り返ったクロは、ほんの少しだけ唇をすぼめて言葉を選んだ。
「こう、なんというか……自分の中から“ポン”と出すような……そんな感じだな」
技術でも理屈でもない、まるで感覚だけで語るような説明。ヨルハはじっとクロを見つめたまま、ひとつ瞬きを落とした。
「……………」
肯定でも否定でもない。ただ、頭の中がついてきていないだけの、極めて素直な沈黙だった。
「わからないか? その、自分の“分身”を外に出す感じだ」
「申し訳ありません。……いまいち、掴めません」
言葉選びに気を遣いながらも、正直な反応を返すヨルハ。クロは少しだけ眉を寄せ、思案の間を挟む。
「うーん、説明って難しいな……あ、そうだ。“自分の内側にもう一人の自分がいる”って、そういうイメージはできるか?」
「……はい、それなら。なんとなく、わかる気がします」
ようやく腑に落ちたような返答に、クロの表情がふわりと緩んだ。
「よし。その“もう一人の自分”を、まずはしっかり形作る。それができたら……次は、それを体の外に押し出すんだ」
ヨルハは静かに目を閉じる。自分の内側に、もうひとりの自分を描く。どうせなら、少し可愛らしい姿で――そう思いながら、イメージを組み上げていく。
心の奥で、何かが“形”になった気がした。その何かを外へ押し出すように意識を集中すると、体の周囲に小さな違和感が生まれた。
次の瞬間、ヨルハはそっと目を開ける。
目の前には、クロ。そして、その横には――ころんと転がるようにして座り込んだ、小さな黒い狼。豆柴サイズで、つやのある毛並み。どことなく愛嬌がある。
「…………え?」
ヨルハの口から、思わず困惑した声が漏れた。自分でも意図しなかったその姿に、反応が追いつかない。
「……人型には、できなかったのか?」
クロが首を傾げると、ヨルハはきゅっと姿勢を正し、小さく頷く。
「もう一度、やってみます」
そう言って再び目を閉じ、意識を内へと向ける。今度こそ、と願いながら。しかし――結果は同じだった。
目を開けると、隣にはもう一匹、よく似た黒い豆柴狼がちょこんと座っていた。




