眠り姫の傍らで
デビットがリビングを後にすると、空気が静かに切り替わっていく。アレクたちはすぐさま出発準備に移り、戦艦内部のセキュリティを順次起動。各区画のロックとアクセス制限の確認を終え、装備の最終チェックに取りかかっていた。
その合間、クロたちは、メディカルポット室へと足を運ぶ。
室内は静かで、淡い青白い光がぼんやりと空間を満たしていた。中央に設置されたポットの中――治癒ナノマシンの液体に包まれた女性が、変わらぬ姿で眠り続けている。
「まだ……治療は完了しませんね」
クロが呟くと、すぐ隣でポットのディスプレイを覗き込んでいたエルデが応じる。
「そうっすね。ディスプレイによると、まだ60%っす」
エルデは表示されたデータの文字列を指でなぞりながら、淡々と報告を続ける。クロは無言でポットの縁に手を添え、眠る女性の顔をじっと見つめた。静寂の中、指先がそっと外殻を撫でる。
「眠り姫は……まだ起きないですか」
その一言に、肩にいたクレアがぴくりと耳を動かす。小さな頭を傾け、クロの横顔をじっと見上げた。
「……何でもないです」
クロは苦笑めいた声でそう返すと、名残惜しげに手を離し、無言のまま扉の方へと向かった。
エルデも両手を頭の後ろで組みながら、その背に続く。
「クロねぇ、どうするっす? まだ数日はかかりそうっすけど」
「どうもしませんよ。目を覚まさないと話は聞けませんから。なら、今やれることをやるだけです」
淡々とした口調ではあったが、その言葉には、揺るぎない意思が込められていた。
クロがリビングに戻ると、アレクたちはすでに携行装備の最終チェックを終えていた。クロの姿を確認するや否や、全員がぴたりと姿勢を正す。
「社長、準備できてます」
アレクが一歩前へ出て、代表するように報告した。
彼らが身に着けているのは、かつてロック・ボムに売り渡していた自前の装備だ。それをクロが買い戻し、再び彼らの手元へ戻したもの――新品ではないが、身体に馴染んだ装備はすでにそれぞれの癖に合わせて微調整が施されており、動きに無駄がなかった。
クロは一度だけ頷き、リビング内を一通り見渡すと、確認の声を上げる。
「戦艦のロックは?」
「完了しています。セキュリティも全系統、起動済みです」
「忘れ物は?」
「……お母さんみたいなこと聞きますね、社長。大丈夫です。ありませんよ」
アレクが肩をすくめ、苦笑交じりに答えると、周囲にわずかな和やかさが戻った。緊張感が完全に消えることはないが、それでも確かな連携と信頼がこの場を支えている。交わされるわずかな冗談は、これから向かう現場に向けた、静かな覚悟の裏返しでもあった。
クロは頷くと、アンジュから預かっていた簡易端末を別空間から取り出す。それをアレクの前に差し出すと、アレクは受け取った端末をまるで重要文書のように扱い、ジャケットの内ポケットへと丁寧に収めた。
「もう一度、軽く説明しておきます。これから行うのは――お父さんたちの警護と、データ解析の手伝い。それと、もう一人はギルドデータの監視です。ギルドの条件をもう一度確認しておいてください」
クロの声音は落ち着いていたが、その内容は一つ一つが的確で、明確な指示だった。その瞳はすでに現場を見据えており、思考は行動へと移っている。
「誰が適任かは任せますが、常時監視できる体制をお願いします」
「了解しました。……で、社長はどうされるんです?」
アレクが問うと、クロはわずかに口元を緩めながら、さらりと恐ろしい一言を口にした。
「私とクレアは掃除を開始します。エルデは今回はお父さんたちの手伝いですね」
「じ、自分……あんまり詳しくないっすけど……」
たじろぎながらエルデが呟くと、クロは少しだけ目元を細め、やや皮肉気味に微笑んだ。
「寝ているよりはいいでしょう。色々学んでください」
そう言って、クロは手を一つ、軽く叩いた。その響きがリビングに広がると同時に、空気が変わる。
彼女は一歩前に出て、アレクたちとエルデを見渡す。全員と視線を交わし、一度だけ深く頷く。
「行きますか」
その言葉を合図に、アレクたちは静かにクロの肩に手を重ねた。エルデは迷うことなく、クロの右手をしっかりと握る。
次の瞬間――クロたちの姿は、空間から音もなく掻き消えた。
残されたのは、ブラックガーディアンの静まり返ったリビングと――淡い青白い光の中で、治癒ナノマシンに包まれたまま、治療を続けるメディカルポットの女性だけだった。




