クロ、地雷を踏む
アヤコとウェンが、まだ重力に翻弄されている中――
コンテナの内部から、低く滑らかな駆動音が響いてきた。
ゆっくりと出てきたのは、一台のキャンピングカー。タイヤが硬い床を擦る音と共に車体が姿を現し、そのまままっすぐアヤコたちの前へと進んでいく。
運転席には、シゲルが座っていた。両腕でしっかりとハンドルを握り、顔にはどこか楽しげな余裕が浮かんでいる。速度は落とし気味だったが、どこか遊び心を込めたような運転だ。アヤコとウェンの前まで来ると、ブレーキを踏み、車体が止まる。エンジン音が落ち着くと同時に、静かな空気が広がった。
後方では、クロが手にした端末で再びコンテナのロックを操作していた。電子音とともに扉が閉じ、ロックがかかると、彼女はそのまま端末をしまい、アヤコたちの元へと足を向ける。
「ジュン。助手席でお父さんに地下基地内のナビをお願いします。二人は大丈夫ですか」
クロは淡々と、だがどこか気遣うような視線でアヤコとウェンを見つめた。
その問いに、アヤコが苦笑混じりに肩をすくめながら答える。
「大丈夫って言いたいけど……思った以上に違和感がひどいのよ」
隣のウェンも、うんうんと頷きながら足元を気にするように視線を落とす。
クロは、少しだけ首を傾げてから、さらりと口にした。
「体に余計な脂肪がついた感覚ですか?」
その一言で、空気が凍った。
その言葉――乙女にとっては、まさに禁句である。
アヤコとウェンは、一瞬で表情からすべての感情を消し去った。無表情のまま、息も止めたような沈黙が走る。
そして次の瞬間、二人は何事もなかったかのように、きびすを返すと、足早に荷物と共にキャンピングカーの中へと乗り込んだ。その動きは、先ほどまでの重力にもたついた足取りとはまるで別人のように機敏だった。重力の違和感など、今の彼女たちには“怒り”でどうでもよくなっていた。……感情が先に走れば、身体の違和感など後からついてくるらしい。クロは、その様子を少し笑いつつ二人の背中を見つめる。
すると、その肩の上で動きがあった。
クレアが、クロの頬をむにゅっと前足で押す。
ぴたりと動きを止めたクロが、視線を肩に向ける。見返すようにクレアと目が合う。
「クロ様……それ、女性に対して言っていい言葉じゃないです。今のは、私でも怒りますよ?」
クレアは小さな声で、しかしはっきりとした調子で釘を刺した。非難というよりも、半ば呆れたような、教えるような響きがあった。
クロはわずかに眉を寄せながら言い返す。
「でも、的を射てますよ?」
その言葉に、すぐ横から別の声が飛んできた。
「クロも女性なんですから、言われたらいやでしょう」
ジュンだった。声の調子は穏やかだが、明らかにたしなめる色を含んでいる。完全な正論だった。
「いえ、私は別に。太りませんので」
クロはさらりと、あっけらかんと言い切る。その声音には、悪気も謙遜もなかった。どこまでも淡々としていて、まるで天気予報を伝えるような調子だ。だが、そこに込められていたのは、紛れもない事実としての確信だった。
それを聞いたジュンの表情が、わずかに引きつる。
沈黙が流れる。
言葉では返さず、ジュンはふぅっと長い息をついた。
「……はぁ」
肩が落ちる。その動きには明らかな疲れが滲んでいた。だが、それは単なる物理的な疲労ではない。女性としての――いや、人間としての、報われなさのようなものが背中ににじんでいた。
ジュンは無言のまま、遮蔽スクリーンの方へと向かう。足取りは重くもなければ急ぎ足でもない。機械的に一定のリズムで歩きながら、無言の抗議のように操作パネルを開く。端末の操作音が、やけに大きく聞こえたのは気のせいではなかった。操作パネルに添えられた指先には、ほんの少しだけ力がこもっている。
シャーッという音と共に、スクリーンが左右に開いていく。キャンピングカーが通れるほどのスペースが作られ、ジュンはそのままクロを見る事無く、助手席へと向かっていった。
その背中はどこか小さく見えた。張り詰めた意地と、ほんの少しの敗北感とが、肩に重くのしかかっている。
「クロ様……」
肩に乗っていたクレアが、ぽつりと呟いた。
その声は先ほどよりも小さく、かすかに震えていた。呆れとも嘆きともつかない、限りなく諦めに近い響きがそこにはあった。クロはその声に反応して、肩に乗るクレアの頭を、指先でそっと撫で始めた。
「だって、分身体ですよ。太りようがないです。意識的に太ることは出来ますが……意味ないですし」
その声は、あくまで淡々としていた。感情を込めるでもなく、茶化すわけでもなく、ただ“事実を述べる”だけの響き。
しかし、その無防備な撫で方と冷静すぎる物言いに、撫でられているクレアは内心で叫びたくなる。
心地よいはずの撫で方に反して、言葉の中身が強烈だった。
思わず、小さくうめく。
「クロ様……流石に……」
吐息交じりのその声は、困惑と心配、そして呆れの入り混じった、複雑な響きをしていた。まるで、生徒の暴言に正しく対処すべきか悩む教師のような声音であり、既に何度目かの“このやり取り”に、どうすれば正解なのかを見失っている。
クロは、その言葉に対して一拍の沈黙を置いた後、ふっと小さな笑みを浮かべた。
「ちょっと言い過ぎましたかね。……わざとですよ」
軽く肩をすくめながら返す声には、どこか悪戯めいた色が滲んでいた。相手の反応を見てから言葉を差し出すような、少しずるくて、計算された間。それでいて、完全には掴ませない。真意の半分をあえて濁すような言い回しだった。
そしてクロは、前を向く。
その先には、すでに開かれた遮蔽スクリーンと、待機しているキャンピングカーの姿。
静かに息を吐き、前髪を払いながら、彼女は一歩を踏み出した。
「待ってもいいですが、いい加減動かないと時間がもったいないです」
背中越しに放たれたその一言に、クレアが眉を寄せながら疑うような視線を送る。
「それ、誤魔化してませんか?」
そのじとっとした声色には、クロの意図を探るような軽い警戒と呆れが混ざっていた。
クロはその視線を正面から受け止めながら、ふっと柔らかく口元を緩める。
「ふふ、さて。どちらでしょうね?」
返されたその笑みは、答えを明かす気のない、曖昧でいてどこか余裕のあるものだった。
そしてクロが乗り込んだのを確認すると、キャンピングカーは静かに動き出す。
運転席に座るシゲルが、ジュンのナビを頼りに、トゥキョウ基地の地下施設へと進路を取る。エンジン音が低く響き、車体がスロープを下り始めた。
車内には、外よりもさらに密度の高い空気が漂っていた。
クロがソファーに腰を下ろすや否や、アヤコとウェンからの“無言の圧”が、その身にじわりと向けられる。
ふたりの視線は、ただの無言ではなかった。明らかに“今に見てなさいよ”という気配が漂っていた。
クロはその圧力を、正面から受け止めながらも、どこ吹く風といった顔で、ソファーに座るスミスとエルデの間に身を預けた。
すると、エルデが落ち着かなさそうに座る位置をクロの方へとずらし、確認するように話しかける。
「クロねぇ……アヤコねぇとウェンの姉御、怖いっす……」
声は圧に当てられたように小さく、どこか情けなさも混じっていた。居心地の悪さを全身で表現している。
「……やり過ぎましたかね」
クロは平然と呟いた。だがその声音に、反省の色はあまり感じられない。
「やり過ぎたって、なんっすか?」
エルデは眉を下げ、どう返せばいいのか分からない顔をする。
クロはそれを見ても、あくまでマイペースを崩さず、穏やかな声で返した。
「……あれくらいじゃ怒りませんよ。たぶん」
「あれくらいって、何っす?」
エルデの追及に、クロは「まあまあ」と軽く流し、深くソファーにもたれかかる。
キャンピングカーは緩やかに、地上から地下へと潜っていく。
車内の窓に差し込んでいた自然光が徐々に薄れ、代わりに人工照明の白い光が天井から落ち始めた。
それと同時に、アヤコとウェンの表情に変化が現れる。
「地下って……こんなんなんだ」
アヤコが、窓の外に目を向けたまま呟く。
視線の先には、広大な空間が広がっていた。コンクリートと金属の巨大なアーチ。網の目のように張り巡らされた通路と照明。整然と配置された搬入ベイと、数え切れない格納用のシャッター。そして、その奥にそびえる巨大な建築物には、用途も役割も分からないまま、妙な威圧感だけが漂っていた。
「オンリーワンみたいだけど……施設は、こっちの方が大きい」
ウェンも驚き混じりに、隣で声を上げる。
その眼差しには、先ほどまでの怒りや苛立ちがすっかり薄れていた。代わりに浮かんでいるのは、純粋な興味と感嘆。
重力に苦戦していた二人の心も、少しずつ、この空間のスケールに飲み込まれていく。




