アヤコ、大地に沈む
ジュンは、すぐさま端末を取り出した。指先がホログラム上を滑り、ほとんど間を置かずに複数のウィンドウを展開する。クロの戦艦に不用意に近づかないよう、各部隊へ向けて注意喚起と指示を飛ばしつつ、念を押すように確認の応答も要求する。声は出さずとも、その表情には緊張と責任感がはっきりと浮かんでいた。
一方でエルデは、クロの背を追うように小走りになりながら端末を操作している。指先の動きは速く、だが雑ではない。アレクたちへ向けて、戦艦をこの基地まで移動させる指示と、これからここで行う作業の概要データを簡潔にまとめて送信する。画面に確認表示が灯るのを見て、ほっと小さく息を吐いた。
その少し後ろを、シゲルが歩く。背中の巨大なバックパックの位置を軽く直し、横にいたスミスに小さく頷いてから、クロとエルデの後ろに付いた。その足取りには長年の経験がにじみ出ており、重心の置き方も自然で無駄がない。だが、よく見れば普段よりわずかに歩幅が狭い。それは、生の重力が今この場に確かに存在している証拠だった。
そして、アヤコとウェン。
二人は並んで一歩を踏み出そうとした、その瞬間だった。まるで見えない糸に足首を絡め取られたかのように足元を取られ、ぐらりと身体が揺れる。
――重い。
体が、じわじわと地面に引きずり落とされる。足元から這い上がる圧が、皮膚の下にまで入り込んでくるようだった。アヤコの足裏が、床に貼り付いたように動かない。呼吸が乱れ、肺の動きさえ鈍っているようだった。
「っ……なに、これ……っ!」
アヤコが思わず呻くように言葉をこぼす。全身の筋肉が、いつもの倍の力を求めてきた。手はフロートの取っ手を掴んだまま――だが、姿勢を立て直そうとしたその拍子に、逆にバランスを崩した。踏ん張れない脚。ぐらついた体。重心が落ちると同時に、フロート台車の姿勢制御が破綻する。
派手な音を立てて地面に倒れ込むと、積載されていたコンテナが衝撃で内部で跳ね、鈍い金属音が何度も響いた。
「おっも……っ!」
ウェンもバランスを崩し、抱えていたカバンが手から滑り落ちる。思わず身を乗り出して拾おうとした瞬間、前のめりにバランスを崩し、そのまま重力に引き倒されるように地面へと倒れ込んだ。小柄な身体がくずおれるように落ちていき、カバンの中身が宙を舞って地面に散らばる。
「うわっ……な、何これ……足、動かない……っ」
ウェンの声が、驚きと困惑のまま大地に広がる。
アヤコは――立ち上がれなかった。
膝をついたまま、呼吸を整えようとする。動かないのは筋肉じゃない。指令が届いても、反応が遅れてしまう。頭では立てるとわかっているのに、体がついてこない。ただの重力――そう思っていた“当たり前”が、今は何よりも厄介な障壁に変わっていた。
「……なんで? 恥ずかしい……!」
小さく唇を噛んで、歯の根を鳴らす。転んだ痛みなんかどうでもいい。ただ、自分が動けないことが悔しかった。誰にも見せたくなかった。けれど、どうにもならない現実が、膝に重くのしかかる。
スミスはそんな様子を見て、ほんの少しだけ眉をひそめた。だが、その目に浮かぶのは呆れではない。怒りでも責めでもなく、「まあ、そうなるよな」という半ば予想通りの反応に近い、諦めと理解の混じった穏やかな視線だった。
――まあ、仕方ないか。
生の重力を、本当の意味で体感するのは、二人にとってこれが初めてなのだ。無様に転ぶくらいで済んでいるなら、むしろ軽い方だろう。
スミスがそのまま手を貸そうと歩み寄ろうとした――その瞬間だった。
隣から、低くはっきりとした声が飛ぶ。
「スミス、ほっとけ」
静かに、けれど一切の迷いなく放たれたその声に、スミスの足が止まる。
声の主はシゲルだった。重々しく大地を踏みしめるように一歩前へ出ると、立ち上がろうとしているアヤコとウェンに向けて、落ち着いた声で告げた。
「初めての惑星ってのは、だいたいこうなる」
それだけ言うと、シゲルはスミスに視線を向け、小さく顎で前方を示す。声に出さずとも、「行くぞ」と伝えていた。スミスが軽く頷くのを確認しながら、彼は踵を返し、クロたちの後を追って歩き出す。
アヤコとウェンは、その場に取り残されたかのように黙っていた。だが、彼女たちは今、惑星の重力というものを初めて身体で受け止めていた。
回転型コロニーで得られる制御された重力とは違い、ここには誤魔化しの効かない重さがある。空気そのものが身体に絡みつき、地面がじわじわと体を引きずり下ろしてくるようだった。
重心の位置が、どこかつかめない。踏み込んだ足は、一瞬遅れて地面に沈む。まるで、筋肉全体が少しずつずれながら反応しているかのようだった。いつもなら気にもしない動作のひとつひとつに、余計な負荷と時間がかかる。
起き上がろうとするだけで、違和感の波が膝から背中にまで伝わる。
「上手く……歩けない……」
ウェンはそう呟きながら、慎重に大地から身を起こす。カバンを拾い上げようと腕を伸ばすが、その動作にもどこかぎこちなさが残る。いつも通りの自分の体が、まるで鉛のように重たく感じられた。
「重力なんて、同じものだと思ってたのに……」
アヤコも唇を噛みながら立ち上がり、傾いたフロート台車をゆっくりと起こす。力を込め直し、落ちたコンテナを乗せ直すが、動作の一つ一つが遅く、重たい。慣れているはずの作業が、急に別物のように感じられる。
二人とも、確かに“重さ”を実感していた。想像とは違う、体の芯に染み込んでくるような、惑星の重力。
その時、端末操作を終えたジュンが近づいてきた。少しだけ眉を下げ、声の調子を和らげながら言葉をかける。
「慣れるまでは、ゆっくりでいいですよ」
その声は、焦る必要はないと伝えるためのものだった。
「初めての惑星の重力は、コロニーと違ってどこか重たいんです。体の中のナノマシンが適応するまで、少し時間がかかりますから」
「ナノマシンって……生まれた時に注射で打つやつですよね」
ウェンが首を傾げつつ問い返す。ふとした動作に、まだ違和感が残る。
「ええ。宇宙空間でも筋力が落ちないのは、そのおかげです。コロニー育ちだと、忘れている方が多いんですよ」
ジュンはそう言って、わずかに口元を緩める。気休めではなく、事実に基づいた穏やかな励まし。
アヤコとウェンは、顔を見合わせた。
その視線の間に、言葉はなかった。だが、どちらともなく小さく息を吐き、頷き合う。
――知らない“当たり前”が、ここにはある。
その事実が、二人の胸に静かに染み込んでいく。




