アヤコ、大地に立つ
転移の光が収まると同時に、クロたちはトゥキョウ基地の一角――ヨルハとファステップ、そして各種物資を収めたコンテナの傍に姿を現した。
周囲には視線を遮る遮蔽スクリーンが四方に張り巡らされ、さらに複数の警備ドローンが上空を周回し、地上では電子ロック付きのゲートが立ち入りを厳重に規制している。到着の瞬間を見届けた者は、一人としていない。完全に外界から隔絶されたこの区画で、彼らの転移は静寂のうちに――まるで初めからそこに存在していたかのように、違和感なく完了していた。
「……気持ち悪っ」
最初に声を漏らしたのは、ウェンだった。転移の余韻が残る体内に、微細な慣性のぶれと重力の揺らぎが遅れて押し寄せ、胃の奥が妙に浮き上がるような不快感を生む。思わず足をふらつかせ、隣に立つクロの肩に片手を置いてバランスを取ると、そのまましゃがみ込みそうになるのを必死にこらえた。
呼吸を整えるように深く息を吸い――しかし、その瞬間、別の意味で顔が歪む。
「うぇ……初回からコレって、キッツ……」
口元を手で覆いながら、肩をすくめるようにして周囲を見回す。彼女の鼻腔をついたのは、人工空間では決して感じることのない“生の匂い”だった。
「……面白い体験だな。これが転移か」
スミスは、ウェンとは対照的に、あくまでも冷静だった。微かな眩暈を覚えながらも、それを表には出さず、目を細めてその感覚を内心で検分する。身体の芯に残る重力反転の痕跡を確かめるように指を握りしめ、言葉を落とした。
「一瞬で距離を飛ぶ……話では聞いていたが、これは……なかなか面白いな」
その声音には驚きというより、経験を一つ手に入れた者の静かな評価があった。そして無意識のまま、周囲を警戒するように視線を巡らせ――背後、静かに佇むヨルハの存在に気づく。
鋼鉄の装甲に覆われた巨体。四肢を伏せたその姿は、戦場に放たれた兵器のようにも見える――だが、その金属のような殻の奥からは、微かに生温かさが滲み出ていた。重厚な気配には、無機物にはない呼吸のような揺らぎが宿っている。
スミスは、その異形を見上げたまま、ぽつりと呟いた。
「なるほど……これがヨルハか。クレアの――本体」
外見こそ機械のようだが、その内にあるのは紛れもなく“生きた存在”。その一言には、理解を得た者の確信と、同時に本能的な畏れが混じっていた。
「……っ、くっさ。なにこの匂い……」
アヤコが顔をしかめ、思わず鼻をつまんだ。潮の香りに混じって、鉄のようなにおいと、青臭い草木の気配が押し寄せてくる。潮風が髪を揺らし、鼻腔に異質な刺激を残していった。
「うげ……やっぱり無理。鼻が馬鹿になりそう……」
そう呟きながらも、アヤコは視線を動かした。遮蔽スクリーンのせいで外の景色は見えない。けれど――空気が違う。コロニーの精製された空気とは明らかに異なる、じめっとした質感が肌を撫でていた。
そして、ふと顔を上げる。
見上げたその先に広がっていたのは、限りなく高く、どこまでも続く青。滲むような白い雲が浮かび、天井など存在しない、“本物の空”がそこにはあった。
「……天井の無い……青空……」
自然とこぼれた言葉に、アヤコ自身も戸惑いを覚える。鼻をつまんでいた手を離し、額に手をかざして陽射しを遮った。まぶしさに瞳を細めながらも、視線は空から離れない。
白くちぎれた雲が、緩やかに流れていく。じりじりと照りつける陽光が肌を焦がし、音もなく、空だけがそこに在る。
コロニーで生まれ育ったアヤコにとって、それは現実とは思えない光景だった。再現できないスケール、触れることのできない気配。頭上に広がるその青は、確かに“作り物ではない”と本能が告げていた。
「これが……惑星……」
その呟きは、感嘆と恐れの入り混じった、かすかな震えを帯びていた。スクリーンの先に何があるのかはまだ見えない。けれど、この空だけは、間違いなく“本物”。その広がりを前に、ここが惑星であるという事実だけが、遅れて胸に落ちてきた。
そして、そのアヤコの隣に、もう一人、何も言わず静かに立ち尽くしている者がいた。
シゲル――
彼は誰よりも静かに、足元に視線を落としていた。
足元には、色褪せたコンクリートの舗装。ひび割れた隙間からは、草がわずかに顔を覗かせている。靴裏に当たる砂利が、乾いた音を立てるたび、空気に微かな埃の匂いが混じった。
シゲルは、ゆっくりと一歩、前へ踏み出す。
その感触を確かめるように、じっと地面を見つめた。かつて人の暮らしがあったことを思わせる、無言の証。風の音、地の硬さ、目に見えぬ“時間の堆積”が、全て足裏から伝わってくるようだった。
「……まさか、生きてるうちに、また大地を踏めるとはな」
ぽつりと落とされた声は、驚きよりも深い。それは、何かを取り戻した者の声音だった。
懐かしさ。それだけで、十分だった。
「ほんと、わからねぇもんだ……」
そして、皆がその静寂のなかに浸っていると――
空気を割るように、無慈悲な声が飛んだ。
「ジュン。さっきの通達をお願いします。エルデ、ポンセに移動指示と今後の行動計画を報告。私はコンテナを開け、キャンピングカーの固定を解除しておきます。皆さんも、早く動いてください」
場の空気を読みもせず、次々と命令を飛ばすその声に、誰も振り返ることはなかった。だが、それぞれがほんの一瞬だけ、口元にわずかな苦笑を浮かべる。
それは皮肉でも嘲笑でもない。まだ、目的地に辿り着いていないことを、静かに思い出させる合図だった。




