それぞれの常識
「クソが!」
リビングに、場違いなほど荒いシゲルの悪態が響いた。ソファーの端に腰を下ろし、両手両足に塗られたばかりの軟膏を睨みつけながら、顔をしかめて舌打ちする。薬の匂いが微かに鼻を刺し、じわりとした熱がまだ残っているのか、時折肩を強張らせるように身じろぎした。
その様子を、ジュンだけが心配そうに見ている。眉を寄せ、何か声をかけようとして口を開きかけるが、結局何も言えずに閉じた。他の面々はというと、誰一人として気にも留めていない。まるでそこに“騒音”が一つ増えただけのような扱いだった。
「エルデ、これウェンとスミスさんの焼きそば。肉が多い方がウェン。野菜が多い方がスミスさん」
クロの声が、そんな空気をあっさりと塗り替える。作業台の上に並んだプレートから、手際よく料理を取り分けながら、淡々と指示を出す。
「うっす。いい匂いっすね」
エルデは素直に反応し、目を細めた。湯気とともに立ち上るソースの香ばしさが鼻腔をくすぐり、思わず頬が緩む。構成された料理を皿に移し替え、それを受け取ると、両手で大事そうに抱えながらテーブルへと向かう。
ソファーに腰掛けているウェンとスミスの前に、それぞれ皿を置く。湯気がふわりと立ち、肉と野菜の匂いが空気に広がった。
「すまんな」
スミスが低く礼を言う。
「ありがとう、エルデ」
ウェンも軽く笑って頷く。二人は箸を手に取りながら、自然な流れで他の料理が揃うのを待った。
「クロ、これはジュンさんの焼きめしと、私のお蕎麦」
アヤコが声をかける。皿に盛られた焼きめしからは、油と卵の懐かしい香りが立ち、隣の蕎麦からは湯気とともに出汁の匂いが柔らかく漂っていた。
その光景を見て、クロは思わず小さく苦笑する。ここに来てから、食卓の内容が日に日に多様化していくことに、未だ慣れきれずにいるのが正直なところだった。
「わかりました。しかし……毎回不思議な感覚ですね。こうも入り乱れる多種多様な料理には」
焼きそばに、焼きめし、蕎麦。並ぶ皿の取り合わせは、統一感など欠片もない。だが、それがこの場所では“日常”になりつつある。
「クロは気にし過ぎ。美味しければいいじゃない」
アヤコが、少し呆れたように肩をすくめる。
クロは軽く頷きながら、盆に乗せた料理を持ち上げる。足取りは静かで、無駄のない動きだった。そのままテーブルへ向かい、ジュンの前に焼きめしの皿を置く。
ジュンは、その一連の動作をじっと見ていた。クロが自然に配膳し、淡々と動く姿。その光景に、どうしても違和感が拭えない。
「普通……ですね」
焼きめしが置かれた瞬間、思わずそんな感想が漏れる。驚きと戸惑いが混じった声だった。
「普通ですよ。通常はこんなもんです」
クロはあっさりと答える。表情も声色も、特別な感情は一切乗せていない。
「……少なくとも、こちらの感覚とはズレていますね」
ジュンがぼそりと呟くように言葉を付け加えた。どこか独り言めいていたが、その声音には確かな皮肉が滲んでいる。視線はクロに向けられており、冷静な観察者としての立ち位置から逸れることはなかった。
クロはその言葉を受け、ほんの一瞬だけ視線を宙に彷徨わせる。自分の言動を思い返すように、まるで記録の再生を確認するかのような間。そして、アヤコの席にそっとそばの器を置きながら、小さく息を吐いた。
「非常識な行動をとっているつもりはないんですがね」
穏やかで柔らかな声だったが、どこかにほんの少し、自嘲の色が含まれていた。
「なら、どこかで修正は必要でしょう」
ジュンの返答は即座だった。鋭く、曖昧な余地を残さない物言い。それは遠回しな否定ではなく、率直な改善の提案という名の“矯正”だった。だが、クロは特に反論することもなく、ただその言葉を静かに受け止める。
ちょうどその時、料理を盆にのせて持ってきたエルデが、間の悪いタイミングで口を開いた。
「クロねぇ的には、普通っすよ」
笑顔で、深く考えずに言っただけだった。エルデに悪気はない。むしろ、クロを擁護したつもりだった。クロの行動は誰かを困らせるようなものではないし、自分にとっては十分“あり得る範囲”だ――ただ、それを素直に言っただけだった。
だが、聞きようによっては、それは“異質さの肯定”にもなり得る。
エルデはテーブルの上に、サイコロ状に切られたトンテキと、香ばしい香りを立てる野菜炒めを並べる。置かれた皿からは湯気が立ち上り、ソースと油の混じった食欲をそそる匂いが広がった。
そして、妙な沈黙が場に生まれる。
その沈黙を破ったのは、またしても無邪気な“追撃”だった。
「エルデ、それは違います。クロ様の常識は、大体が非常識です。私はそう学びました」
クレアが、ソファーの背もたれの上からぴょんと身を起こし、軽い身のこなしでテーブルの上に飛び移る。自分の料理の前まで来ると、肉には目を輝かせる一方で、横に添えられた野菜には露骨に嫌そうな顔を向けたまま、はっきりとした口調で言い切った。
料理に集中しているせいか、言葉選びに一切の遠慮がない。
場に、再び微妙な空気が流れた。
エルデは一瞬固まり、箸を持ったまま「え?」とだけ呟き、クロの方を振り返る。
クロはわずかに視線を落とし、何も言わなかった。否定も肯定もせず、表情を変えることもなく、その場を静かに離れる。まるで、これ以上そこに居続ければ、話題がさらに自分に引き寄せられてしまう――そう判断したかのように、何の言い訳も残さず、足を向けた。
向かった先は、キッチン。黙々と皿を並べていたアヤコの背中が、すぐ目の前にある。
「クロが悪いね。みんなに日ごろから言われてるのに、治さないから」
アヤコは振り返ることなく、手を止めずにそう言った。責めているわけではない。だが、どこか距離のある響きだった。突き放すでもなく、甘やかすでもない、淡々とした現実の提示。
その一言に、クロは肩の力を抜くように小さく息を吐き、視線を盆へと移した。
「いいんですよ。私は私。変わる必要はないですから」
静かな声だったが、その奥には少しだけ、疲れにも似た響きがあった。
「周りに合わせる努力はしようね」
アヤコは微笑みを浮かべたまま、淡々とした調子で返す。その手元で、盆の上に料理が一つ、また一つと並べられていく。湯気とともに、穏やかな温もりだけが静かに場へ広がっていった。言葉と笑顔、そして料理。どれも温かさを含んでいるのに、不思議と胸の奥には、ほんの少しだけ鈍い重さが残った。




