魂の選択と誓い
バハムートは、一度だけ大きく腕を振るった。
その一撃に反応するように、ホエールウルフが反射的に後方へ飛び退く。空間に距離が開き、緊張だけが濃く張り詰めた。
そして――バハムートは静かに動きを止めた。
「――決めろ。ここで朽ちるか、それとも、俺と共に来るか」
放たれた声には、威圧も怒気もなかった。けれど、その響きは刃よりも鋭く、静かに獣の心へ突き刺さる。
選択肢はただ二つ。死して無に還るか、敗れて生き延びるか。そのどちらもが、逃れようのない現実だった。
「お前が死を越えて辿り着いた、その境地……殺すには、あまりに惜しい。だが、それでも仲間のもとへ行く覚悟なら――せめて、苦しまずに終わらせてやる」
そう告げたバハムートは、迷いなく右手を差し出す。
掌は開かれ、拒絶ではなく、選別の意志だけが宿っていた。
「――決めろ。生か、死か」
ホエールウルフは、迫られた選択に――息を呑んだ。
絶対的な強者。その圧倒的な存在が、己の闘志と技を称賛し、そして――「共に来い」と、手を差し伸べている。
信じられなかった。
あれほどの力を前に、ただ塵と化す運命しかないと思っていた。
だが、バハムートは違った。力だけではない。“選び取る者”だった。
戸惑いが胸を満たす。その一方で、心の奥底が静かに震えていた。
理解している。この選択は、ただの生死ではない。
散っていった仲間たちがいる。自らの命を賭して、最期まで群れとして戦い抜いた同志たち。
その魂に報いるための矜持。群れの長としての誇り。
今ここで、生き延びるという選択は――その死を、否定することになるのではないか。
あの最期を、ただ踏みにじるだけではないのか。
だが同時に、己の力を、意思を、誇りを認めてくれた存在がいる。
死を超えて至ったその“境地”を、価値あるものと認めた者が――そこにいる。
生きるか。死ぬか。
それはもはや、本能の問いではなかった。
魂の奥から突きつけられる、存在そのものの選択だった。
そして――決めた。
選ぶのは、死。
だが、それは滅びの意味ではない。
これまでの自分は、ここで終わる。群れを率い、誇りを守り、仲間と共に死地へ挑んだ長としての自分は――ここに、死ぬ。
そのすべてに悔いはない。誇りを貫いたその歩みに、曇りもない。
だが今、目の前にいるのは、すべてを超越した存在だった。
死すらも越えてなお、なお強さの先に“認める”という選択を持つ者。
その手が、差し出されている。
そこにあるのは服従ではない。敗北でもない。
魂の奥に届いたのは――ただ一言、「共に来い」という、真の呼びかけだった。
ホエールウルフは静かに、かすかに頭を垂れる。
そして、生きる。
これまでの命を終わらせ、新たな名もなき命として。
己を認めてくれた、唯一の“強者”のもとへ――
頭を垂れたホエールウルフを前に、バハムートはゆっくりと頷いた。
そして、静かに右手を持ち上げる。
爪先で指を裂き、黒銀の装甲の隙間から赤黒い血が一滴――無重力の空間に、浮かんだ。
「――飲め」
短く、命ずる。
その声に、ホエールウルフは迷いなく従った。
滑るように前進し、その血に舌を伸ばす。
ひと舐め――その瞬間、赤黒い雫が光となり、ホエールウルフの身体に染み渡っていく。
「契約は、成立した」
低く告げる声と共に、バハムートは再び手をかざした。
空間がわずかに軋み、そこから現れたのは――重厚な輪。
直径は100mを超え、金属とも有機物ともつかぬ質感。
外周には、古代語のような複雑な文様と、刻まれた意匠が螺旋状に刻まれていた。
「最後に、これを与える」
輪はふわりと浮かび、ホエールウルフの右前脚へと滑り込む。
その途端、自動的に収縮し、ぴたりと身体に馴染むようにサイズが調整される。
金属の輪が一瞬光を放ち、内側に刻まれた文様が淡く脈打った。
「さて――そろそろ、身体に変化が出てくる頃だと思うが?」
バハムートは腕を組み、ゆっくりと目を細めた。
変化は、静かに、そして確かに訪れた。
ホエールウルフの黒い毛並みが、徐々に色を深めていく。
それはもはや闇の色ではなかった。光を拒み、空間すら呑み込むような――純粋な漆黒。
四肢はさらに太く、しなやかに変化していく。筋肉の密度は増し、骨格の構造もわずかに歪み、より洗練された形状へと再構築されていく。
かつての“獣”としての粗野な威圧感は、今や“武”として昇華されつつあった。
そして――その変化の極点。
「……主。この身を、捧げます」
静かに、低く、だが確かに届いたその言葉。
空気も音もないはずの宇宙空間に、言葉が響いた。
それは幻聴ではなかった。意思が、明確な“言語”としてバハムートに届いた。
ホエールウルフが――喋った。
かつての知性の欠片すら見せなかったその巨体が、今、明確な言葉で忠誠を誓った。
ただ従うのではない。魂からの、選び取った服従。
己を差し出すという、意志の告白。
バハムートの眼が、わずかに細められる。
「……そうか。それでいい」
その一言は、すべてを受け入れた証だった。