惚れる理由と、忘れた熱
結局、ジュンはシゲルに言い負かされる形で、その提案を飲むことになった。論理でも正論でも譲らなかった自分が、最後は押し切られたという事実が、表情にありありと滲んでいる。
悔しさを噛み殺したその瞬間、シゲルの手が、ためらいなくジュンの頭に伸びた。
――くしゃり。
乱暴でもなく、しかし遠慮もない撫で方。思わず変な声が喉元まで込み上げ、ジュンは慌ててそれを飲み込む。
その反応を見て、シゲルは「してやったり」と言わんばかりの顔を浮かべた。
「固いんだよ。お前は」
そう言いながら、もう一度軽く頭を撫で、
「もっと考えを、柔軟にしろ」
それだけ言って、あっさりと手を離す。
離れた瞬間、張り詰めていたものがほどけたのか、ジュンの喉から小さく、かすれた声が漏れた。
顔ははっきりと赤い。だがシゲルは、その変化には気づかない。気づかないまま、言葉を続ける。
「正しいことを、お前はちゃんと言っている。それは誇っていい」
一瞬だけ、真面目な声音。
「だがな、それだけじゃつまらねぇよな」
少し笑って、肩をすくめる。
「悪いことをしろ、とは言わねぇ。だが時にはよ、面白い方を選べるようになれ」
そう言い切ると、もう話は終わりだと言わんばかりに、シゲルは端末を取り出し、次々と連絡を取り始めた。
その背中を見送りながら、アヤコがこっそりとクロに顔を寄せ、小さく囁く。
「ねぇ、クロ。もしかして、ジュンさんって……じいちゃんに惚れた?」
思いもよらぬ角度から飛んできた問いに、クロは一瞬だけ言葉を失い、考え込む。そしてすぐに、はっきりと首を横に振った。
「それはないでしょう。年齢が離れすぎていますし、第一、あんな性格ですよ。あり得ませんね」
即答だった。理屈も経験則も、すべてが否定を指している。
だが、その判断に、横から静かに異議が差し込まれる。
「そうっすかね」
エルデが腕を組み、少し楽しそうに首を傾げた。
「自分は……惚れた、だと思うっすけど」
迷いのない言い方だった。
「だよね」
アヤコも小さく頷き、口元に笑みを浮かべる。
「クロは、ニブチんだな」
二人の視線が向けられ、クロはそれを受けて眉を寄せた。だが、言葉は喉の奥で絡まり、形にならなかった。
「……クレアは、どう思います?」
助けを求めるように、クロは視線を向けた。確認を取れば、答えは当然同意になる――そう思っていた。
だが、クレアは少しだけ言いにくそうに視線を逸らし、それから意を決したようにクロへ顔を向ける。
「クロ様。お姉ちゃんと、エルデの方が正しいです」
はっきりとした否定。一切の迷いがない。
そう言いながら、クレアは小さく鼻を鳴らし、空気を確かめるように、くん、と匂いを吸い込む。
「……ジュンから、感情が高ぶっている匂いがします」
あまりにも率直な指摘に、場の空気が一瞬、張りつめた。
「恐らく、その“惚れた”というものを、しているのだと思います」
結論は淡々としていた。感情ではなく、本能に基づいた断定。
「……さすが、クレアっすね」
エルデが目を丸くし、素直に感心したように言う。
「匂いで、そこまで分かるっすか」
クレアはこくりと頷いた。
「ええ。少し……甘酸っぱい匂いですね」
その一言で、クロが積み上げてきた理屈は、行き場を失った。反論しようにも、論点がすでに別の場所へ移されている。
「クロには、まだ恋愛っていうのが分からないみたいだね」
アヤコは少しだけからかうように、けれどどこか納得した調子でそう言った。
「……まあ、私には必要ないですから」
クロは淡々と返す。その言葉は理屈としては整っていたが、負け惜しみめいた響きの奥に、恋というものをいつの間にか忘れてしまった現実と、傍らに誰もいないという事実が、薄く透けて見えていた。
バツが悪そうに顔を背ける。逃げるつもりはなかったが、視線は自然と別の場所へ流れていく。
――シゲルを見ている、ジュンの横顔。
その瞳には、クロがもう持たなくなってしまった熱が宿っている。理屈でも義務でもない、誰かを想うことでしか生まれない、まっすぐな光。
クロはそれを見て、ぽつりと呟いた。
「……どこに、惚れる要素があったんでしょうか?」
答えを求めているわけではない。それ以上、何も言えなかった。




