死に抗う舞、そして選別
残るは――群れの頂点。600mを超える、最も巨大なホエールウルフのみとなっていた。戦場に静寂が戻る。崩れた群れの残滓も、フレアに呑まれて跡形もない。
バハムートはフレアソードをそっと持ち上げ、無言のまま宙へ掲げる。そして、ゆっくりとそれを別空間へ滑り込ませた。
「さて。もう、力の差は嫌というほどわかったはずだ」
そう言って、バハムートは腕を組む。全身の力を抜き、あえて無防備な構えを取る。
「慈悲だ。素手だけでやってやる」
その言葉に、空間の気温が変わった気がした。獣が威嚇を止める。咆哮もしない。牙も剥かない。
「おい。どうした? 来いよ」
促す声に応じるように、一歩――動こうとして、ホエールウルフの巨体がわずかに震えた。だが、それ以上は動かない。いや、動けなかった。
逃げれば死。抗っても死。選択肢など、最初からなかった。理解してしまったのだ。バハムートという“絶対”を前にして、己という存在がいかに無力かを。
その未来を。終わりを。獣は、悟っていた。もはや逃げ場など存在しない。この戦場において、バハムートという“死”から逃れられる術はない。
それでも――群れは、すでに散った。同胞たちは塵となり、宇宙にすら痕跡を残していない。
ならば、この身だけは、最後まで抗おう。たとえ、その先にあるのが確実な“死”であったとしても――
巨大なホエールウルフは、わずかに首を振る。そして、低く、静かな咆哮をひとつだけ漏らした。それは恐怖ではなく、覚悟の音だった。誇りのための最後の咆哮。
逃げない。屈しない。戦って――終える。
バハムートは、ホエールウルフの咆哮――音なき叫びを、確かに受け取った。空気もないこの宙で、聞こえるはずのない声。けれどその振動は、確かに魂に触れるような“意志”として届いていた。
ゆっくりと腕を解く。
「……その覚悟、見事だ」
小さく呟きながら、構えを解く。剣はすでに手放した。素手のまま、静かに開戦を迎える。
動いたのは、ホエールウルフ。巨体がしなり、長い四肢を巧みに操って滑り込んでくる。その動きは荒々しさを越えた鋭さを持ち、無音の空間を切り裂くように迫る。
爪が閃き、質量ごと叩き込まれる一撃。バハムートは受けた。衝撃は確かに伝わった。だが揺るがない。ただ片腕を上げて受け止めると、軌道を逸らしながら重心をずらす。
「……まだだ」
反撃。静かな一撃。拳に宿るのは力ではなく、確信。狙い澄ました一撃を叩き込む。だがホエールウルフは身体をひねり、寸前で身を逸らす。爆発的な移動ではない。微細な推力、感覚の先読み。
拳がわずかにかすめ――届かない。距離が、再び開く。
躱す。誘う。迫る。撃つ。空気も、音も、地もないこの空間で、ただ“戦う”という意志だけが交錯していた。
ホエールウルフは、躊躇なく喰らいついた。その牙がバハムートの腕を捉え、鋭く肉を裂こうとする。だが、バハムートは微動だにしない。痛みを感じる前に、次の動きへと移っていた。
ホエールウルフの四肢がしなる。振るわれた爪が連続して襲いかかり、止まることなく追撃が続く。それを受けながら、バハムートも応じる。拳が走り、脚が薙ぎ払う。
だが――当たらない。
ホエールウルフの回避は、もはや本能の域を超えていた。動きの“気配”を読み切るように、刹那ごとに軌道をずらす。バハムートの肘打ちが横から迫る。だが、それも寸前で首をひねり、頬をかすめるだけに終わる。
膝蹴り。浮遊する身体を一気に回転させて踏み込み、至近からの突きを放つ。だがホエールウルフは、空間の緩みすら察知するかのように、逆の脚で自らを滑らせて後退した。
肩越しに振るわれた裏拳が追うが、それも紙一重で逸れる。かすめた衝撃波が空間を歪ませるが、獣の身体には届かない。
狙いは的確。動きは無駄がない。だが、それでも当たらない。
バハムートの拳が通る度に、ホエールウルフの身体は回転し、躱し、重力のない空間を泳ぐように動き続ける。ひとつひとつの回避が、奇跡の連続。肉体ではなく、意志と執念がその動きを支えていた。
(見事だ。まるで、死に抗う舞だな)
拳が空を裂き、爪がすれ違い、視線が交差する。一瞬ごとに生と死が入れ替わる。まさに、神がかっていた。
死と隣り合わせの者だけが辿り着く、極限の集中。この瞬間のホエールウルフには、迷いも恐れも存在しなかった。
しかし、それでも。バハムートは拳を止めたまま、わずかに目を細める。
(本当に見事だ。だが――)
この戦いが拮抗して見えるのは、あくまでも自分が“素手で遊んでいる”からにすぎない。本気を出せば、終わる。一撃で。一瞬で。
それをわかった上で、ホエールウルフはなおも挑んでいる。だからこそ――面白い。
静かに、バハムートは目を細めた。
「……殺すのが、惜しい」
肉体に、傷はひとつもない。爪も牙も届かず、圧も削れない。バハムートにとっては、終始ただの応酬だった。
だが、それでも――至った動き、その境地には、無視できないものがあった。
死を前にして、なお退かない意志。命のすべてを戦いに注いだ、その瞬間だけの輝き。
それは、ただの獣には持ち得ないものだった。
(……尊い)
心の奥底で、そう感じていた。それは同情ではない。慈悲でもない。純粋に、尊敬だった。
だからこそ。ここで塵に変えるのが、惜しいとすら思えた。
だから――決めた。
「……お前を、貰う」
その声音に、残酷さはなかった。ただ静かに、不可逆な意思だけが込められていた。