膿を炙る者、帰還せし者
クロは用意されていたタオルで、クレアの口元を丁寧に拭き終える。そのまま自然な動作で抱き上げて立ち上がると、クレアは慣れた様子でクロの肩へと乗った。いつもの位置に収まったことで、クロの体の軸が自然と定まる。
エルデも残っていたジュースを急いで飲み干し、グラスを置くと、クロの横へと並ぶ。
「では、そろそろ動きます。お客さんを連れてきたときは……」
「直接行くといい。話は通しておく」
アリの返答は即答だった。すでに先を見据え、段取りを終えている声音。
「ありがとうございます。ではアリ中将……もう大将になるんですかね」
クロが、ほんの少しだけ悪戯めいた調子で言う。探るというより、軽く揺さぶるような言い回しだった。
「ならんよ」
アリは即座に首を振る。
「今は、空席にしておく」
その言葉に、クロは一瞬だけ目を瞬かせる。予想していなかった選択だった。
だが、アリは笑みを浮かべたまま続ける。
「その方が、膿が我先に主権を取ろうとして姿を現すだろう。そうなれば仲たがいも起きるし、運が良ければ内ゲバで勝手に潰れてくれる」
語調は穏やかだが、内容は苛烈だった。
「それに何より、空席という不安定さが足かせになる。組織の動きは、かなり鈍くなるからね」
満面の笑みで語られる策に、クロは思わず苦笑する。
「……恐ろしいですね。敵に回したくないですよ」
「それは、此方もだ」
二人は視線を交わし、短く笑い合う。互いに冗談の形を取りながらも、本気でそう思っているのが分かるやり取りだった。
「悪魔が手を取りあったみたいっすね」
エルデがぼそりと感想を漏らす。その言葉は軽かったが、冗談として笑い飛ばせる種類のものではなかった。その言葉に、クレアも小さく頷いた。
「では、行きますか。ジュン、行きますよ」
クロがそう声をかけると、ジュンは一瞬だけ気を引き締め、すぐにクロのもとへと歩み寄る。
「ジュン大尉――いや、少佐。頼んだ」
アリから告げられた急な昇進に、ジュンは一瞬だけ固まる。軽く混乱した表情を浮かべたものの、すぐに姿勢を正し、深く息を吸って敬礼した。
「ハッ! 必ずや、期待に応えて見せます!」
その様子を横目で見ながら、クロが小さく首を傾げる。
「引き抜きを防ぐための昇進ですか?」
「さあ、どうかな?」
含みを持たせたアリの返答に、クロはそれ以上踏み込まず、わずかに笑みを浮かべた。答えを追及しないのは、理解したからでもあり、これ以上は互いの領分を越えると判断したからでもある。
クロはそのまま、エルデの肩とジュンの肩にそれぞれ手を置いた。二人に確認を取るような視線を一瞬だけ向けてから、淡々と言う。
「では、ヨルハとファステップは置いていきますが、構わないようお願いしますね」
その言葉が終わると同時に、空間が歪む。
転移。
何の予兆もなく、三人の姿はその場から消え失せた。
残されたアリは一瞬、目を見開き、デビットは言葉を失ったまま立ち尽くす。ほんの数秒の沈黙の後、アリは腕を組み、ゆっくりと息を吐いた。
「あれは……敵に回したら、絶対に駄目だな」
「ええ」
デビットもようやく現実に戻り、静かにうなずく。
「ただ、こちらが誠意をもって接すれば、問題にはならないかと思います」
「そうだな」
アリは短く答え、視線を前に据えた。
「さて、始めるか。まずは――今、クロ君が行ったことの“実行”だ」
「ハッ!」
デビットは即座に立ち上がり、背筋を伸ばして敬礼する。こうして、アリとデビットの戦い――内部の膿を炙り出すための戦いが、静かに始まった。
一方その頃。
クロたちは、急激な浮遊感とともに視界を奪われ、次の瞬間にはまったく違う景色の中に立っていた。
「さて……帰ってきましたね」
クロは何事もなかったかのように言いながら、ジュンの肩から手を離すと、その瞬間、緊張の糸が切れたように、ジュンの膝が折れた。
視界が遅れて追いつく。音が、少し遠い。床の冷たさだけが、やけに鮮明だった。その物音を聞きつけたのか、ジャンクショップの奥からアヤコが顔を出し、そのままリビングへと歩いてくる。
「クロ、帰って来たんだ。……あれ、その人は?」
「戻りました」
クロは落ち着いた調子で答える。
「こちらはジュンです。私の監視役として、今は一緒に行動しています」
そう説明するクロの横で、アヤコは即座にジュンへと視線を向けた。床に座り込んだままの姿を一瞥しただけで、状況を察したようだった。
「クロ、ちょっとお姉ちゃんと話そうよ」
「いいですが?」
不思議そうに首を傾けつつも、クロは素直にアヤコの後についていく。
その途中で、振り返るように指示を出した。
「クレア、エルデ。そのジュンさんのケアをしておいて。じいちゃんにも詳しく話をしておいて」
「わかりました、お姉ちゃん」
「了解っす。アヤコねぇ」
いつの間にかクロの肩から降りていたクレアが、ジュンのそばへと駆け寄る。エルデは頷くと、そのままシゲルを呼びにジャンクショップの奥へと走っていった。
少し離れた場所で、アヤコが立ち止まる。
「クロ、説教だね」
そう宣言する笑顔は、あまりにも優しく、そして容赦がなかった。
クロは一瞬だけ、視線を逸らす。無茶をした自覚が、遅れて胸に引っかかっていた。
クロはその瞬間、はっきりと冷や汗を感じる。背中を伝う感覚に、無意識のうちに口元が引きつった。




