最深部での敗北
負けるわけがない。そう信じていた。最悪でも被害は半壊程度。拠点は維持できるし、戦力も残る。そして何より、金を生み出すループは崩れない。
金を生む回路は崩れず、利を生む連鎖は続く――その確信だけが、拠点の中心である根拠だった。
――そういう見積もりだった。
だが、それがどれほど愚かな想定だったのかを、彼は開始からほんの数分で思い知らされることになる。
クロと思われる鎧の人物。正面ゲートの戦力だけで十分に戦えるはずだった。仮に押し切れなくとも、こちらにはまだ余力があるし、相手も無傷では済まない――そう踏んでいた。
だが、戦闘が始まった瞬間、その前提は崩れ去った。
想定以上。いや、もはや想定という枠組みそのものが通用しない。
事態は、一気に最悪へと転げ落ちていった。
改良型ヴェルカス。あれは、何が起きたのかすら理解できなかった。
訳の分からない一撃で装甲に穴が穿たれ、次の瞬間には、どうやったのかも分からないまま吹き飛ばされ、爆発。
それだけでは終わらない。巻き込まれる形で近くの戦艦が落ち、盛大に誘爆し、さらに周囲を巻き込んで爆発していく。
容赦なく撃ち抜かれていく仲間たちと、次々に消えていく機体。重装甲高速戦車のテスト機も、ボルトテック社のBブレイクも、フォトン社の改良型ヴェルカスも、その他のテスト機も――。
それらが、一つ、また一つと消えていった。
目の前の光景は信じがたいものだったが、それでもまだ、何とか平静を保てていた。
損害は大きいが、それは戦争ではあり得る規模だ。ましてや黄金の聖神を相手に手を焼いた経験もある。――まだ立て直せる。そう自分に言い聞かせていた。
しかし、次に鳴り響いた警報が、その幻想を叩き壊す。
接近警報。モニターに映し出されたのは、機械の狼と、それにまたがる機体だった。
この時点でも、クチグロは侮っていた。たかが二機。地上戦力で十分に対処できる、と。
だが、結果は惨憺たるものだった。地上部隊は数分で壊滅的被害を受け、防衛線は引き裂かれ、あまつさえ地下への侵入まで許してしまう。
そこから先は、蹂躙だった。
――だが、吉報もある。忌々しいが、アリ中将の部隊がこちらへ向かってきている。しのげば、まだやりようはある。
そう信じていた。
だが、最も最悪な事態は――今、この瞬間。
「ここが最深部だな」
響いた声は、クロのものによく似ている。だが、微妙に違う。同じであってほしくないと、本能が告げていた。
「選べ。降参するか。それとも、まだ足掻くか」
クチグロが、ゆっくりと振り向く。
そこにいたのは、向かわせた部隊をことごとく蹴散らし、パワーアーマーを引きずりながら、鎧に身を包んだまま立つ――悪魔だった。
クロは、引きずってきたパワーアーマーを片手で投げ捨てた。重量物が、床に叩きつけられ、鈍く転がる音を立てながら滑り、クチグロの足元へと転がる。
その瞬間、室内のあちこちから悲鳴が漏れた。投げられた当人は、床に転がったまま身体を強張らせ、喉の奥から絞り出すような呻きを上げている。
誰もが、それを見ないふりをしながらも、視線だけは否応なくそこへ引き寄せられていた。
「お前は……クロなのか?」
クチグロは問いかける。周囲に残る部下たちの視線を意識し、喉の渇きを誤魔化すように声を整えながら、必死に動揺を押し殺して。
沈黙。
クロは、兜の奥で一瞬だけ思考を巡らせる。
(どうするか……ここで、ポーズと台詞を、もう一度やってみるか?)
この場の空気とは、まるで噛み合わない思考。緊張と恐怖が凝固した空間の中で、ただ一人だけ別の時間を生きている。
やがて、意を決したようにクロは胸の前で腕を組んだ。
「ふっ。クロはこの場にはいない」
低く、わざとらしく響く声。
「俺が、転移で避難させたからな」
わずかに顎を上げ、決めたつもりのポーズ。本来なら場違いなはずなのに、鎧姿の異様な存在感だけが、妙にその姿を“成立”させてしまっている――と、思っているのはクロだけだった。
現実の空気は、凍りついたまま動かない。
それに気づかぬまま、クロは続ける。
「俺は、クロの守護者!」
一歩、前に出る。床を踏む音が、やけに大きく、無駄に響いた。
そして右手を前に突き出し、掌を広げる。
「そして! クロに仇名すものの破滅の使者!ベヒーーーモス!」
全身を使った、あまりにも堂々としたポーズ。廊下で決めた時と同じ角度。同じ間。同じ勢い。
脳内イメージ通り――完璧。
だが、現実は一切ついてきていない。
一瞬、呆気にとられた空気は、すぐに別の温度へと変わる。それが笑いではなく、“避けたい”という無意識の反応に変わったのは、ほんの数秒後のことだった。
「…………ベヒーモス、だと…………」
クチグロの声は、怒りでも恐怖でもなく、ただ純粋な困惑に満ちていた。この緊迫した最深部。追い詰められ、退路もなく、死の匂いが濃く漂うこの場で――クロだけが、完全に浮いている。
それが、何よりも異様だった。
理解できない。理解しようとする気力すら、削がれていく。
監視統括室に残っていた兵士たちは、誰からともなく、無意識に一歩、後ずさる。
理由は単純だ。
今、何が起きているのか分からない。次に何が起きるのかも、まるで予測できない。
――ただ、それだけ。
そして戦場では、分からない存在こそが、最も恐ろしい。
沈黙が、重く、冷たく、空間を支配していた。その動作だけで、周囲の兵士たちは無意識に一歩、後ずさった。何が起きるか分からない――ただそれだけの理由で。




