夜に吠える者たち
コンテナの描写を書き忘れていましたので追加いたしました。
クロが盛大に花火を上げる、その直前。
上空でファステップを静止させ、距離を保ったまま待機していたエルデは、突如として鳴り響いた警報音に思わず肩を跳ねさせた。次の瞬間、真夜中でも昼のように輝いていたトゥキョウの都市灯が、示し合わせたかのように一斉に落ちる。
視界が、暗転する。
だが、それは完全な闇ではなかった。遅れて非常灯が点灯し、街の各所に鈍い光が浮かび上がっていく。
街全体が息を止めたような沈黙ののち、世界は深い闇から、ぼんやりと濁った明かりへと塗り替えられていった。高度を保つファステップの下で、先ほどまで光の海だったはずの都市は、今や薄く濁った光を反射する汚水の塊のように見えている。
規則正しく並んでいた灯りは崩れ、都市は輪郭を失ったまま、静かに沈黙していた。
「暗くなったっす! パニックになってそうっすね」
エルデは思わず声を張り上げた。コックピットシートの背中に伝わる微細な振動は、ファステップが正常に稼働していることを確かに伝えている。それでも、胸の奥だけが妙にざわついていた。
その声に反応し、後部のサブシートに座っていたジュンが、即座に通信を開く。待機状態のまま表示されていたホロディスプレイに、タイソンの顔が浮かび上がった。
「大佐! クロさんが動きました!」
叫ぶような報告。一拍の沈黙ののち、タイソンは苦々しく唇を歪める。
『早い! だが……何とか間に合うか』
その呟きと同時に、ホロディスプレイの表示が切り替わった。上空視点のトゥキョウ周辺。暗闇の中で、軍の進行ルートと義勇軍の位置情報だけが、淡い光として浮かび上がっている。
『いいか。現在、義勇軍の明確な動きはトゥキョウのみだ。逆に軍の方は、すでにアリ中将が部隊を編成し、トゥキョウへ向かっている』
淡々とした報告。だが、その一言一言が示す重みは、決して軽くなかった。
「アリ中将……そこまで動いてる……」
ジュンが思わず漏らした呟きは、ほとんど独り言に近い。無意識に握り締めた指先に、わずかな力が入る。
――今から、中将クラスが指揮する部隊が、ここへ来る。
その事実が、重たい鉛のように胸の奥へ沈み込んだ。戦線を押し返すための部隊ではない。内戦そのものに、決着をつけに来る部隊だ。
長引いてきた内戦を終わらせると宣言したクロの行動は、すでに引き返せない段階へ踏み込んでいる。もはや個人の判断では止められない。この夜は、確実に歴史の一頁になろうとしていた。
恐怖と、かすかな希望。相反する二つの感情が、ジュンの胸の中で静かに絡み合い、どちらにも振り切れないまま居座り続ける。
その沈黙を切るように、タイソンが続けた。
『いいか。お前たちは中将が到着するまで、その場で待機しろ』
命令。短く、簡潔で、迷いのない言葉。状況の混乱や感情を排した、軍人としての判断だった。
だが、その瞬間。
コックピット前方でアームレバーを握っていたエルデが、くるりと身体を捻り、後ろを振り返る。緊張が満ちていたはずの空気の中で、その口元だけが、不釣り合いなほど楽しそうに緩んでいた。
「それは無理っす」
即答だった。躊躇も、逡巡もない。
『……無理だと?』
タイソンの声が、わずかに低くなる。命令に対する拒否。その一点に、空気が張り詰める。
「うっす。だって、花火が上がったらクレアねぇが暴れるっすから」
軽い調子。冗談めいた言い回し。だが、その言葉の奥には、状況を正確に理解したうえでの確信があった。
エルデの視線は前方へ戻り、暗闇に沈んだトゥキョウの輪郭を捉える。あの“花火”が何を意味するのかを、彼女は誰よりも肌で分かっていた。
『……その小さな狼が、かね?』
ホロディスプレイ越しに、タイソンがわずかに眉を寄せる。その視線は、ジュンの膝の上で静かに眠るクレアへ向けられていた。確認するような口調。だが、その問いの奥には、言葉にしきれない不安が滲んでいる。
「違うっすよ」
エルデは笑いながら、即座に否定した。軽さはそのままに、言葉だけが一段、確信を帯びる。
「クロねぇの花火が上がれば、来るっすよ」
「エルデ……来るって、何が?」
ジュンは膝の上で眠るクレアの頭をそっと撫でながら、恐る恐る尋ねた。小さな体温は確かにそこにある。静かな寝息は、今の状況とはあまりに不釣り合いだった。
「クレアねぇっすよ」
迷いのない即答。
「大丈夫っす。今までクレアねぇが、負けたことはないっすから」
断言だった。慰めでも、希望的観測でもない。エルデの中では、それはすでに揺るぎようのない“事実”として確立している。
その直後だった。
トゥキョウ基地の一角が、花火ではなく爆発に包まれる。夜空を裂く閃光。遅れて、腹の底に響くような衝撃音が届いた。
「合図っす!」
エルデが叫ぶと同時に、ファステップは大きく旋回する。暗闇に沈んでいた都市が、一気に視界の正面へ引き寄せられた。
「待って、この機体だけでは犬死です」
ジュンの制止は切迫していた。ファステップだけでは明らかに、戦力が足りないどころの話じゃない。それは一般の軍人では冷静な判断だった。
だが、エルデたちは違う。その一般からははるか遠く逸脱している。
「大丈夫っす。クレアねぇが来たっす」
そう迷いなくエルデは言い切ると同時に、ファステップのフレームが軋みを上げた。
飛行型から人型へ。装甲が展開し、推進ユニットが再配置される。
――そして。
足元の空間が、歪んだ。
空が解け、黒い影が這い出してくる。金属質の四肢。装甲の隙間に走る赤い発光ライン。重厚な質量を感じさせる機械の狼が、音もなく空中をかけていた。
「何あれ……」
思わず漏れたジュンの声は、驚愕そのものだった。
「クレアねぇっすね」
エルデは当然のように答える。
「エルデ。この姿の時は、ヨルハですよ」
次の瞬間、ジュンの表情が硬直する。外部スピーカー越しではない。確かに、下にいる狼から発せられた声だった。
「機械の狼……え? ヨルハが……クレア?」
理解が追いつかない。眠っていたはずの、小さな狼。それと目の前の存在が、どうしても結びつかない。
「ジュン。それは後で。今は殲滅です」
ヨルハの声は、落ち着いていた。感情を抑えた、狩る者の声音。
「クレアねぇ、背中失礼するっす」
エルデがそう軽く声をかけるや否や、ためらいのない動きで落下速度を上げる。ファステップの脚部を大きく開き、重力に逆らわず滑り落ちるように――そのまま、ヨルハの背へとしなやかにまたがった。
落下の勢いを殺さず、まるで慣れた動作のように、手にしていたコンテナを内ももで器用に挟み込む。コンテナはぴたりとその場に固定され、一切のぶれもない。
その静止の瞬間、ほんの一拍の沈黙が生まれた。
「……まあ、エルデですから許します。妹分を守るのは、姉の役目です」
小さな溜息混じりの声。その声音には、戦闘前とは思えないほどの穏やかさと、確かな優しさが滲んでいた。
「一気に行きますよ。捕まっててください。ジュンは周辺の状況整理と、私たちへの的確な指示をお願いします」
指示は簡潔で、迷いがない。仲間を信頼したうえでの役割分担だった。
その言葉が終わるより早く、ヨルハは空を蹴り、夜を切り裂くような加速を始める。風圧が唸りを上げ、視界の端で都市の光が引き延ばされていく。
トゥキョウ基地へ向けて、二つの影は完全に一体となり、一直線に突き進んでいった。
――花火は、すでに上がった。ここから先は、殲滅の時間だった。




