静寂の味覚、箸の所作
悩みに悩んだ末、クロの前に置かれたのは、醤油ラーメン。
中太の縮れ麺に、メンマ、ネギ、チャーシュー、味玉、そして海苔。黄金色のスープに映えるその姿は、見る者をほっとさせるような整いと、丁寧な完成度を感じさせた。
(……これが正解。たぶん)
クロがそう結論づけたのには、理由がある。
視線を隣に移すと――アヤコの前にあるのは味噌ラーメン。麺は同じく中太の縮れ麺。だが、そこからの様相が違っていた。白菜、キャベツ、トマト、キノコ類……まるで鍋物のような具材が、どっさりと盛られている。
さらにその向こう。ウェンの塩ラーメンにいたっては、麺の姿すら見えなかった。チャーシュー、チャーシュー、チャーシュー。鶏、豚、牛、さらにソーセージ。あらゆる肉が層を成し、山のように盛られていた。
湯気とともに立ちのぼる香り。強烈なそれにクロは思わず目を細め、小さくまばたきをひとつ。
(……なにかが、ちがう)
整った一杯と、溢れる二杯。味への期待ではなく、構成への理念そのものが違っている。そう感じさせる光景だった。
そして――二人は迷うことなく食べ始めた。フォークで。
一瞬、クロの眉がぴくりと動く。思わず口を挟みかけたが、言葉を飲み込む。代わりに小さく「いただきます」と呟き、レンゲを手に取った。
静かにスープをすくい、口に運ぶ。
(…………ッ……くそっ、うまい! 叫びたい。数千年ぶりの、ラーメンが、クソ美味い!)
言葉にできない衝撃が、舌から脳へと駆け上がる。クロの手が止まり、そのまま硬直したように動かなくなる。
「……クロ、止まったけど?」
訝しむウェンに、アヤコが苦笑しながら応じた。
「ああ、大丈夫。たぶん衝撃を受けてるだけだから。気にせず食べて」
そう言って自分のフォークをひょいと動かすアヤコ。ウェンは少しだけ首を傾げたが、それ以上深くは追求せず、再びラーメンへと意識を戻した。
その間もクロは、目を伏せたまま――味の余韻に、しばし浸っていた。静かな時間が流れていた。
店内に響くのは、麺をすする音と、器に触れる食器の音だけ。誰も言葉を発さず、ただひたすらに食事に集中している――そんな沈黙の空間。
(……麺も、絶妙。スープとの絡みが理想的。メンマはシャキシャキで歯ごたえが良いし、味玉は中心までしっかり染みてる。チャーシューは柔らかくて厚みがある……海苔は、ご飯が欲しくなるけど――今日は、いい)
クロは内心で感動を反芻しながら、ただ静かに箸を動かしていた。
「ねぇ……クロ、怖いくらい喋らないんだけど」
ウェンが小声でアヤコに耳打ちする。その声音には、半ば冗談めいた戸惑いと、半ば本気の警戒心が混ざっていた。
アヤコは苦笑しつつ、肩をすくめて返す。
「クロはね、食べる時、集中するタイプ。だから、無口になるの」
「へぇ……そういう人、たまにいるけどさ。でも、ハシ使える人って初めて見たかも」
ウェンがそう呟きながら、ちらりとクロを横目で見る。
異様なほど正確な箸捌き。指先は迷いなく、具材を優雅に拾い上げ、麺を無駄なく口へと運んでいく。その様子は、単なる慣れや技術というより――ひとつの「作法」に近かった。
「ありがとうございました~」
明るい店員の声に見送られ、三人は食事を終えて店を出た。支払いはクロのおごりだった。
「ありがとう、クロ。じゃあ、仕入れたら連絡入れるね。またね、アヤコ、クロ」
ウェンが手を軽く振りながら歩き出す。
「お願いします。また、ウェンさん」
「またね。今度、設計案練りに行くから」
中華側道の角で、自然な形で別れの挨拶が交わされる。次の約束を残し、ウェンは軽やかな足取りで去っていった。
その背を見送りながら、クロがふと口を開く。
「……一つ、質問なのですが。食堂という仕組みに、意味はあるのでしょうか?」
「え?」
隣を歩いていたアヤコが、少し不思議そうに振り返る。
「家でもできるのではと思ったのです。材料を構成して調理するのなら、わざわざ外で食べる必要は――」
その言葉にアヤコは笑いながら答えた。
「ああ、それね。流通してる素材が違うのよ。食堂みたいなところは、専用の“ベースゼリー”に、専用の調理プレートを使ってる。それに――扱えるのは資格を持った人だけ。専用機材が必要だし、家庭用のとは全然レベルが違うの」
「なるほど。では、家庭で再現するには――相応の設備が要る、ということですね」
「そういうこと。味も、安定感も、全然違うよ。クロがあんな顔して止まったのが証拠」
「……そうでしたか」
クロは少しだけ頷きながら、その舌に残る味の記憶を、もう一度確かめるように目を伏せた。