境界線の内側
そして、一番奥の区画に足を踏み入れた瞬間――空気が変わった。それまでの張りつめ方とは、質が違う。視線の数、間合い、配置。そのすべてが、一段深い警戒へと切り替わったのが分かる。
巡回していた警備ロボの姿は消えている。代わりに立っているのは、背が高く、直立した影だった。歩幅は一定で、動作に揺らぎがない。金属音すら抑え込まれたその足取りは、威圧を生むために設計されているように見えた。
天井を旋回していたドローンも変わる。
そして――クロの視線が、わずかに止まる。
軍用オートマンが、通路の要所に配置されていた。人間とほぼ同じ輪郭。だが、その全身には隙がない。両手に構えられたビームマシンガン。頭部、肩、腰、脚部に至るまで、用途の異なる装備が重なり合うように組み込まれている。装飾ではない。どれも、使う前提の配置だ。
(……初見だな)
それ以上、考える時間は与えられない。クロは立ち止まることを許されず、そのまま奥へと進まされる。視線の先に現れたのは、気品をまとった重厚な扉だった。素材の厚みと造りだけで、ここが区切りであることを主張している。
その扉の前に、クチグロが立っていた。
「遅かったな」
振り返りもせず、当然のように言い放つ。
「頭、こいつ遅ぇんだよ」
クロのすぐ傍にいた男が、指をさして笑う。その笑いは、波紋のように広がっていった。一人が笑い、二人が釣られ、やがてその場にいる全員が声を上げる。空間そのものが、笑いに包まれた――ように見えた。
だが。
次の瞬間、クロ以外の笑い声が、音を立てて止まった。
まるで、その場所以外の空気だけを切り落としたかのような静寂。笑いは途切れ、余韻すら残らない。誰もが言葉を失い、無意識のうちに口を閉ざしていた。何を察したのかを、誰も言語化できない。だが確かに、何かが決定的に変わったと、全員が感じ取っている。
「はははははっ…………おや、どうしました? 笑わないんですか?」
クロは、不思議そうに首を傾げる。その仕草は穏やかで、敵意も威圧も含まれていない。
「笑えばいいと思いますよ」
声音は柔らかく、言葉遣いも丁寧だった。それだけに、なおさら逃げ場がない。その場にいる、クチグロを除く全員が、同時に理解していた。
――今、この空間で笑っていいのは誰なのか。
――そして、もう二度と笑えなくなったのは誰なのか。
沈黙が、重く垂れ下がる。だが、その静止を良しとしない感情が、どこかで蠢いた。矜持か、恐怖か、あるいはただの反射か。
「…………いい度胸だな。ガキ」
誰かが、喉の奥から無理やり絞り出すように呟く。その言葉は、広がりかけ――
次の瞬間、遮られた。
クチグロが、片手を上げる。それだけで、空気が止まる。命令に慣れきった動きだった。
「お前たち、いい。待機しておけ」
低く、よく通る声。反論の余地はない。
「クロ君。ふざけるのはそこまでにしよう。まずは、室内に入ろう」
もてなしを装った、明確な区切り。それ以上の混乱を許さない判断だった。
クチグロは壁へと歩み寄り、手を当てる。即座に、表面に埋め込まれていたパネルが浮かび上がり、認証が始まる。数瞬の静寂。確認が完了したのを示す低い音とともに、気品をまとった重厚な扉が、静かにスライドして開いた。
「おい。茶と酒を持ってくるよう、伝えておけ」
「持ってこさせます」
短いやり取りのあと、クロを取り囲んでいた面々は、ぞろぞろと後退していく。視線は残るが、先ほどのような嘲りはない。代わりに、扉の両脇へと配置される影があった。
軍用オートマン。微動だにせず、ただそこに鎮座する姿は、警備というより境界線そのものだった。
「入ろうか。クロ君の調査に、貢献しよう」
探るような口調。だが、主導権はまだ手放していない。
「ええ。話しましょう」
クロは短く答える。余計な感情は乗せない。
クチグロが先に歩き、クロがその後に続く。二人が室内へ足を踏み入れたところで、重厚な扉は再び静かに閉じられた。外の空気は、完全に遮断される。
クロは、自然な仕草で室内を見回した。
広さはあるが、無駄に広くはない。前線司令室としても、私室としても成立する寸法。権威を誇示するには十分で、だが公的な場としてはどこか閉じている。
中央に置かれた机は豪奢だが、装飾は控えめだった。実務用に寄せた造りで、端末や各資料を見やすく投影することを前提とした天板には、使い込まれた痕跡が残っている。権威を飾るための机ではなく、命令を考え、決定を下すための机だ。
正面の壁には、巨大な革命軍の旗。鮮烈な真紅が視界を占め、否応なく、ここが誰の支配下かを突きつけてくる。だが、その掲げ方は儀礼的ではない。誇りというより、縄張りを示す印に近かった。
旗の両脇には、軍用オートマン。整列ではなく、空間を挟み込むような配置。守るためではなく、逆らわせないために置かれているようだ。
机の手前には、黒く厚みのあるソファーが据えられており、向かい合って座るための位置関係だが、距離はやや近い。交渉よりも圧迫を優先した配置に見える。
その間に置かれているのは、今では珍しい、石を切り出して作られた重いテーブル。移動させることを考えていない重量。実用性よりも、動かないという事実そのものが、この部屋の性格を物語っている。
ここは、会議室ではない。しかし、純粋な軍司令室とも違う。命令と取引、威圧と妥協。それらが同じ卓上で処理される、そんな部屋だった。
クチグロは迷いなくソファーへ腰を下ろし、片手で向かいを示した。
「座れ」
命令に近いが、形だけは客扱いだ。
クロは素直に頷き、促されるままソファーへ座る。深く沈む感触。座る者を包み込むようでいて、立場を忘れさせない造りだった。
わずかな間。室内には、機械の微かな稼働音だけが残る。
「では……色々聞きましょうか」
クロが先に口を開いた。穏やかで、探るような声音。
「いいだろう。話してやる」
クチグロは腕を組み、やや見下ろすように答える。主導権は自分にある、そう言わんばかりの態度だった。
だが、その空間には、すでに微妙な歪みが生じている。
誰が聞く側で、誰が語る側なのか。それを決める時間が、今まさに始まろうとしていた。
――ここからが、本題だった。




