少女の皮をかぶった悪魔と軍人の本音
沈黙は、窓の外を流れる加工大豆畑の規則正しい光景とは裏腹に、車内にじっとりと張り付いていた。
その静寂を破ったのはクロだった。
流れていく大豆畑へ視線を向けたまま、ふとした調子で口を開く。
「ところで疑問なんですが、なぜ私の様な小娘を侮らないんです? それにジュン大尉の過度の緊張。どうしてです?」
あまりに自然で、あまりに率直な問いだった。その瞬間、ジュンの肩がびくりと跳ねる。タイソンはその反応を横目で見て、小さく溜息をついた。どこか諦めにも似た呼気だった。
タイソンは、呟くように口を開いた。
「これはジュン大尉に改めて説明している……」
そう前置きしつつ、ハンドルを握る手に力がこもる。指先が白くなり、緊張の度合いがわずかに伝わる。
「軍で汚れ役を行っている部隊がある。そこの部隊が、UPOから調査依頼を受けたハンターを消そうと動いていた」
淡々とした口調だったが、その内容は淡々と聞き流せるものではない。車内に響く低い声は、まるで一つ一つの言葉が重石のように落ちてくるかのようだった。
ジュンは驚きに目を見開き、しかしすぐに口を閉じる。父の説明の続きを遮らぬよう、まるで咳払いひとつすら控えるような姿勢へ変わる。バックミラー越しにクロの様子をうかがいながらも、余計な口を挟まないという意思が全身から伝わってくる。
クロはただ、外の畑を眺め続けていた。加工大豆畑の端が車窓を滑るたび、薄い光が頬の輪郭を静かに撫でていく。その横顔は、内戦の最中とは思えないほど落ち着いていた。
その姿をバックミラーで見たジュンは、喉をぎゅっと詰まらせる。“冷静”ではなく――“揺るがない”。その一点が、ジュンの緊張をさらに高めていた。
そして、タイソンの話は続く。
「一応言っておくが私は反対したのだがね……まあ田舎の疎開地の大佐の声なんて届かないわけだ。すまないな、ジュン大尉。情けない大佐で」
表向きはジュンへの謝罪。だが、その声音には別の感情――“本当に謝りたい相手はクロだ”という、複雑な響きが混じっていた。
ジュンもそれを察したのだろう。口をつぐみ、ただ真っ直ぐ前を見つめるが、ジュンの喉が、かすかに鳴った。
「結果は、ジュン大尉も映像で見た通りだ。増強のために奪った戦艦や機体を丸ごと失い、傷一つ付けられないまま遊ぶように殲滅されていく光景をな」
淡々と語られるその内容は、淡々としているほど重い。その凄惨さと絶望を、タイソン自身が噛み締めてきたのがわかる。
「それを見て恐怖を抱かぬ者は居ない……ビアードブレイドのようなバカ以外はな」
最後の一言には、怒りとも嘲笑ともつかない感情が混ざった。握っているハンドルがきしむほど力が込められ、拳の太い血管が浮き上がる。
「まったく……少女の皮をかぶった悪魔が近くに来ているのに、上層部は気にも留めていない。それが今からカチコミをかけると言い放つ始末……希望をかけて情報を渡したというのに、とんだ誤算だ」
車内の空気が、ひりついた静電気を帯びる。タイソンの言葉はクロを責めているようで、実際はほとんど自嘲だった。事態の中心にいる少女への畏怖と、理解されない現場の苦悩が、声に滲んでいた。
「お父さん……」
ジュンが恐る恐る声を絞り出した。父の本音を突然突きつけられたような戸惑いと、胸を刺す痛みによる揺らぎ――その両方が少女らしい繊細な表情の裏側で混ざり合い、瞳の奥に波紋を広げている。
タイソンは娘の揺らぎに気づいているはずなのに、あえて視線を向けない。まるで“今は父ではなく軍人として話している”と自分に言い聞かせているようだった。ハンドルを握る手には、言葉以上の葛藤がにじむ。
ひとしきりジュンへ向けて再度、経緯の説明を終えたタイソンは、重たい呼吸をひとつ吐いた。指先に力をこめながらハンドルを握り直し、バックミラーへと視線を向ける。そこには、外の畑を眺めるクロの横顔が映っていた――何を言われても動じる気配のない、静かな横顔だ。
(……それでも、聞かずにはいられない)
その姿を確認したうえで、タイソンは最後に鋭い一言を落とす。
「クロは、人間なのか?」
その瞬間、車内の空気がまるで凍りつくように止まった。車体の振動すら遠のき、沈黙が鼓膜の内側で重たく響く。
「お父さん!」
ジュンが思わず声を上げた。驚きと動揺が混ざり、声が細かく震えている。あまりにも失礼で、あまりにも危険な問い――その意味を理解した娘としての反応だった。
視線の端で、ジュンの拳が膝の上でぎゅっと握りしめられる。
だがタイソンは娘へ目を向けない。ひどく静かな声で言葉を重ねる。
「ジュン大尉に聞いているんだ。それと……私をお父さんではなく、大佐と呼びなさい」
父親としての情を押し潰し、軍人としての冷徹な声音だ。だが、会話の向きは明らかに“ジュンへ向けているようで、実際にはクロへ向けた問い”だった。その意図はジュンにも伝わり、彼女は唇を噛む。
視線を落とし、肩を小さく震わせ、言葉を飲み込む。“父が何を怖れているのか”“どうしてここまで怯えたような問いをするのか”その全てが理解できてしまったからだ。
そして――。
当のクロは、窓の外の畑を眺めたまま、何も気にしない様子で口を開いた。
「独り言ですよ。ハンターギルドの上層部と一部の人だけ知っている話なんですが……私ってバハムートの子供なんですよね」
その言葉は、平坦で、軽やかで、冗談めいた響きすら含んでいた。けれど内容だけは、とんでもない。
――爆弾が落ちた。
車内にいた三人の思考が一瞬で止まる。大豆畑が流れていく風景が、まるで静止画のように感じられた。クロの言葉の意味が、ジュンの中でゆっくりと繋がっていく。“あの映像の怪物”と、“今ここにいる少女”が、同じ存在として輪郭を結び始めていた。
クロは自分が何を落としたか理解していないのか、むしろ小さな独り言の延長のように続ける。
(グレゴとジンにギールたちが考えたこの設定。案外使いやすいかもな)
心の中で軽くそう思い、外の景色を追いながらさらに言葉を重ねた。
「ちなみに、あの可愛いクレアは私を守る神獣ですね。エルデは私の世話役。ああ、そういえばこの話を漏らすと、漏れなく消されますのでご注意を。あ、独り言ですよ。独り言」
飄々とした声音。命を脅かすワードを挟んでいるにもかかわらず、その口調はあくまで柔らかい。しかし車内の空気は、その瞬間に“息をすることをためらうほどの緊張”へと変わった。
タイソンはハンドルを握ったまま、肩がわずかに震えた。ジュンの耳にはその軽い声が、“死刑宣告”の響きにさえ聞こえた。ジュンは、バックミラーから見るクロの顔と父の横顔を交互に見つめ、顔色がみるみる薄くなる。
クロだけが、何も変わらない調子で窓の外を見ていた。




