神の声と狩りの兆し
キャンピングカーに戻ると、クロはそっとクレアをソファーへ寝かせた。クロの匂いが離れた瞬間、クレアはほんの一瞬だけ眉をひそめるような寝顔を見せたが、すぐに安心したように頬を緩ませ、ゆるやかに尻尾を揺らし始める。夢の続きを追いかけているのだろう。
エルデも「あー……少し休むっす……」と短く呟き、そのままベッドへ倒れ込むように横になると、わずか数呼吸のうちに小さな寝息を立て始めた。
「まるで子供ですね……いや、まだ子供でしたね」
クロは小さく笑いながら二人を見守り、優しいまなざしのまま気配を薄める。次の瞬間――その姿はキャンピングカーからふっと消えた。
転移先は、ファステップを隠す人工の森。目の前には箱形態のファステップが静かに鎮座し、その上には迷彩シートが丁寧に掛けられている。すぐ脇には“A”の文字が刻まれた茶色い大型コンテナが置かれ、地面に沈むような存在感を放っていた。
クロはゆっくりと背後へ視線を向ける。
そこは人工の森であるはずなのに……現実の地形以上に入り組んでいる。低く漂う霧が視界をねじり、風がないにもかかわらずわずかにうごめく。
「なるほど……幻惑の石板と迷宮の石板を組み合わせると、こうなるんですね」
クロは腕を組み、淡く目を細める。この濃密な“迷いの気配”は、エルデはもちろん、一般人なら一歩入っただけで方向感覚を失うだろう。
「エルデに導きの指輪でも渡しておかないと、辿り着くのは不可能ですね」
軽く楽しげに言いながら、クロは満足したように頷き、補給コンテナへと歩を進めた。
端末をかざすと電子ロックが静かに解除され、コンテナ内部のライトがぱっと灯る。
中へ入ると、クロは端末カバーに新たに刻み込んだ古代文字へそっと指先を滑らせた。
その触れ心地は、昨夜――出発前、念入りに装備を整えた自分の姿をありありと思い出させる。「内戦」と聞いて治安が悪く必ず見せ場が来ると思い、備えたつもりだった。だが実際に来てみれば……。
クロは小さく息を吐いた。
「出番がないですね……」
その声には、安堵と拍子抜け、その両方が入り混じっている。
「内戦と聞いて、治安が悪いと判断して作ったのですが……これはタイソンの手腕がいいのか、それとも……」
ぽつりと零しながら、クロはコンテナ内へ視線を巡らせた。
そこには、ファステップの修理用に揃えたパーツ群。整備をこなすための小型ロボット。キャンピングカーを固定する補助具、予備のドローン各種――。
実用性だけを追い求めた装備が整然と並び、その奥で、スクリーンミラーだけがひっそりと光を返していた。
クロは小さく息を吐き、肩の力を抜く。
「……欲しかった情報はタイソンから想像以上に聞けてしまいましたし、あとは“狩り”に行くくらいですかね」
その声には、仕事の段取りを整えながらも、どこか拍子抜けしたような響きが混ざっていた。クロはスクリーンミラーを取り上げ、ふと軽くポーズを決める。戦うためだけではない、“見せるため”の儀式というのが彼女の内心を少しくすぐる。
「早くお披露目したいんですが、なかなか……」
鏡に映る自分へ小さく呟いた、その時だった。
「出来ないと言うより、私としては――やり過ぎないようにして欲しいがね」
突然、静寂の中へ声が落ちた。
クロの肩が、ほんのわずかに跳ねた。反射的に振り向く。しかし周囲には誰もいない。ただ、コンテナの入口付近に白い鳥が一羽、ちょこんと立っているだけだった。
その瞬間、クロは察したように薄く目を細めた。
「以前、忠告してくれた神様ですかね」
彼女がそう言うと、白い鳥は小さく身震いし、翼をゆっくり広げた。そこから放たれる気配は明らかに“ただの鳥”ではない。神性を帯びた圧のようなものが、狭いコンテナ内の空気をひやりと震わせる。
「正解だ。以前、クレアちゃんに忠告したのも俺だよ」
声には柔らかさの奥に、どこか人ならざる冷ややかさが混じっていた。白い鳥は翼を閉じ、てくてくとクロへ歩み寄る。その姿は神の威光とは裏腹に、不思議なくらい可愛らしい歩き方だった。
クロは、思わず笑いをこらえるように片手で口元を押さえた。




