食文化の影と光
クロの顔はわずかに引きつり、エルデは興味深そうに身を乗り出してラーバを観察した。白い厚い皮には、遺伝子改良でつけられた補強ラインが薄赤く走っていた。そのさらに奥には、血管束が通っているのがわずかに透けて見える。頭部は切断しやすいように浅い溝が刻まれ、目は極小。しかし口だけは妙に大きく、内側はざらついたヤスリ状だった。
厨房の空気が、ほんの僅かに硬くなる。生き物と食材の中間、その境界ぎりぎりの存在がまな板の上に静かに横たわっている。
そのラーバを前にしながら、マルは大きな解体包丁を手に取り、クロたちへ向き直った。
「これがマルティラⅡの伝統食材、ラーバ。その中でも“上カルビ種”だ。まずは――顔を切り落とす」
説明と共に、マルは包丁を溝へ沿わせる。刃が落ちた瞬間、あまりにも滑らかにストンと頭部が切り離された。
すぐ横のダストボックスへ頭を入れると、内部で急速冷凍が走り、一瞬で白く凍りついた。直後、内部機構が振動し――バリバリバリッ、と氷ごと粉砕され、細かい粉末となって下段のタンクへ吸い込まれていく。
「こうやって頭部は粉砕し、タンクのナノマシンで分解。肥料として大豆畑に撒いたり、ラーバの餌にもなる」
「じ、自分で知らないうちに自分を食ってるって事っすか!?」
エルデが目を丸くすると、マルは肩をすくめた。
「まあ、完全にそうとは言わないが……概ねそんな感じだな。で、頭を落としたら――この厚い皮に切り込みを入れる」
マルが解体包丁から調理用の包丁を握り皮へ刃を通すと、ざくり、と深い筋が走った。クロとエルデが切断面へ目を向けると、そこには美しく入ったサシ――つい先ほど焼いて食べた“あの上カルビ”と同じ肉質が露わになる。
「こうして切り込みを入れたら……後は掴んで、引っ張る」
マルが皮の中心をつまみ、左右に力を込めると――べりべりべり、と袋を破るように皮が一気に剥がれていく。
露わになったのは、表層を走る細い血管と、その奥で脈のようにうねる太い血管束を抱えた巨大な肉塊だった。不気味なはずなのに、同時に圧倒的な“食材”としての存在感がある。
「この血管を、肉を少し付けたまま切り落とす。でないと血管が破れて、肉が血なまぐさくなる。これが終われば肉塊として完成だ。あとは綺麗にカットして――お前たちが食べてた上カルビ、ってわけだ」
説明に合わせ、マルの包丁が滑るように血管束を切り離していく。赤い線を引くように肉片が落ち、まるで長年の経験を刻んだ動きがそのまま形になったかのようだ。
処理を終えたマルは手早く肉塊へフィルムを巻きつけ、冷蔵庫へと収めた。取り除いた皮や血管は無造作にダストボックスへ放られ、同じく粉砕処理へ回されていく。
クロは深く頷き、静かに問いを重ねた。
「ラーバには……上カルビやハラミ、牛タンなど、部位ごとに“種”があるんですね」
「ああ、その通りだ」
マルは誇らしげに答えた。その表情には、自分たちの星に根づく食文化を守り続けてきた者だけが持つ、静かな誇りが滲んでいる。この惑星の“日常の味”を背負ってきたという自信が、わずかに顎の角度に現れていた。
「なら、ホルモンなどがない理由は?」
クロの問いに、さっきまでの誇りを帯びた表情がわずかに曇る。厨房の明かりの下で、その影がはっきりと落ちた。
「昔はそのラーバ種もいたんだがな。気持ち悪いと言う料理人も多くて、昔の人たちが散々批判した結果……廃れた。今でも存在はしていたんだが、内戦の影響でその飼育場もなくなっちまった」
マルは腕を組み、やれやれと肩を落とした。
「一応、歴史的観点からデータや生産技術、飼育技術は保護されてる。内戦が終わればまた飼育自体は出来るだろうが……飼育場の経営状況とか、そういう問題を考えると厳しいだろうな。まぁ――俺も出来たら捌きたくないし」
冗談めかした口調だが、顔は完全に本気の苦笑だった。
そのマルへ、エルデが素朴な疑問を投げかける。
「なんでっすか? 今の工程見ると別に気持ち悪いって感じはしなかったっすが……」
エルデの言葉に、クロは即座に首を横に振る。
「いえ、少しきもかったですよ」
「そうすか? で、なんでっすか?」
納得していないように眉を寄せるエルデに、マルは包丁を洗い機へ放り込みながら言う。
「……まあ、知らない方が良い。間違っても検索するなよ。絶対後悔するから」
その言い方は、冗談ではなく完全に“本気の警告”だった。しかも、妙に含みのあるため息が続く。
「美味いんだがな……。これだけはメインプレートで調理器が構成してくれるものでいい。俺の店ではプライドがあるから扱わないがな」
そう言いながら、マルはまな板も解体包丁も次々に自動洗浄機へ入れ、最後に手を払って振り返った。
「これが、内臓系がない理由だ。いいか――本当に忠告だ。検索するなよ」
マルの声は、今までのどの場面よりも真剣だった。その“絶対にやめておけ”という気迫が、厨房の空気をすっと引き締める。
「店長、終わりました?」
その緊張をほどくように、カクがフロートカートを押して厨房へ入ってきた。カートの上にはクロたちが平らげた、山のような皿が積まれている。
「ああ、カクもお疲れさん。こいつら喰いまくってたから大変だったろ」
「いえ、ワンちゃんが可愛かったので大丈夫です」
そう言って、カクは端末を操作しホロディスプレイに画像を映し出した。
そこに映ったのは――満腹で幸せそうに鼻をひくひくさせながら、丸くなって眠るクレアの姿。柔らかな毛並みがわずかに上下し、時折、夢の中で肉の香りを思い出したかのように尻尾がぴくりと動く。
「これは……ここまで無防備な姿はあまり見せないんですが、よほど満足したんですね」
クロは微笑みながら、しばしその画面を眺めた。まるで家に帰ったあと布団に潜り込んだ小さな子どものような安心しきった寝顔だった。
マルはクレアの無防備な寝顔を見た瞬間、さっきまでの重たい空気がすっと抜けたように表情を緩め、言葉を重ねる。
「また来い。クロ達は友達だ。次は表からじゃなく裏口を叩け。リビングで食わせてやる」
「ありがとうございます。絶対にまた来ますので」
クロが素直に頭を下げると、マルも満足げに頷く。そこへ、いつも通りの落ち着いた声でカクが告げた。
「ではクロさん。お会計が18万と4,520Cになります」
その瞬間――空気がぴたりと止まり、さっきまで緩んでいた三人の顔が同時に強張った。
笑っていた表情が全員そろって凍り、わずかに沈黙が落ちる。マルが額を押さえながら、ため息混じりにカクへぼやいた。
「カク、真面目なのはいいんだが……タイミングってもんがあるだろ」
「いいですよ、マルさん」
クロは軽く笑って首を振り、落ち着いた動きで支払いを済ませた。




