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バハムート宇宙を行く  作者: 珈琲ノミマス
地獄の惑星。バハムートが選ぶ未来

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タイソンの苦渋と父娘

 部屋の空気は先ほどまでとは比べ物にならないほど重く鋭い緊張に満ちていった。クロはその圧の中心にいながら表情ひとつ変えずに立ち上がる。


「――以上ですかね」


 淡々とした言葉に、タイソンは思わず「待て」と声を張った。握り締めた拳は白くなり、怒気を必死に押し殺すように深く息を吐く。


「お前の考えは……よく分かった。こちらも善処する。だから――なるべくでいい、国民を守ってほしい」


 怒りではなく、苦渋と懇願の混じった声音だった。


「……依頼の片手間で良ければ考えます。ですが、本来それはあなたたちが努力することですよ」


 クロは淡々と告げて踵を返す。その背中に迷いはなく、視線も真っすぐ前へ向けられていた。エルデは慌てて立ち上がりクロの後を追いかけようとしながらも、一度だけ振り返った。タイソンをまっすぐに見つめ、その表情はいつになく真剣だ。


「大丈夫っす。クロねぇは優しいっすから、一般人は巻き込まないと思うっすよ。……ただゼロじゃないっす。そこは――頑張ってくれってことだと思うっす」


 その言葉は幼さを残す声なのに、不思議と重みを帯びていた。


 すると、廊下の向こうからクロの声が鋭く飛ぶ。


「エルデ。期待させないでください。無理なら切り捨てますので」


「……だそうっす」


 エルデは肩をすくめ、クロを追って応接室を出ていく。


 残されたタイソンは、しばらく動けずにいた。額に指を当て、わずかに震える指先を押し込むようにした。大佐の肩章が、この瞬間だけは重荷そのものに思えた。静かに電子タバコを取り出し、深く吸い込む。


「……痛いところを突く。確かに……彼女が背負うべきことじゃないのは明白なんだ」


 吐き出した煙は天井付近でゆっくりと揺れ、やがて散って消えた。残ったのは、軍人としての誇りと一人の男としての現実――そしてクロに突きつけられた“責任の重さ”だけだった。


 クロは追いかけてくるエルデの足音が近づくのを待ち、合流を確認してから施設の自動ドアを出た。外の光が差し込み、わずかに冷たい風が頬を撫でる。


 キャンピングカーの前には、最初にクロを案内した女性兵士が立っていた。背筋を伸ばし、緊張を押し隠すようにきびきびと敬礼する。


「チェックは完了しています。ただ……ひとつお願いがあります」


 クロが首を傾げると、女性兵士は言葉を選ぶように数秒迷い――意を決したように口を開いた。


「その……可愛いワンちゃんを少しだけ撫でさせてもらえませんか!」


 想定していなかった言葉に、クロは一瞬きょとんと目を瞬かせる。肩の上のクレアはむっとした顔で大きな瞳を細め(狼です……)とでも言いたげだったが、ぎりぎりのところで堪えていた。


 クロはクレアをそっと撫で、抱き上げて女性兵士の前に差し出した。


「優しく撫でてあげて下さい。それと――狼ですの」


「ありがとうございます! あ……ごめんね。狼なのにあまりに可愛いから間違えちゃった」


 女性兵士は笑みを浮かべ、両手でそっとクレアの頭を撫でる。撫でられた瞬間、クレアの耳がぴくりと跳ねた。最初こそむすっとしていたが、指先の優しい触れ方が心地いいのか、次第に目を細めて受け入れ始める。撫でられている間、黒い毛並みが風にふわりと揺れ、クレアの尻尾がかすかに左右へ動いた。(……まあこのくらいなら許します)そんな空気を漂わせている。


 しばらく堪能したのち、女性兵士はクレアを丁寧にクロへ返した。さっきまでの硬い表情はほとんど消え、どこか懐かしむような微笑みを浮かべていた。


「ありがとうございました……。実家にいたペットを思い出してしまって」


「いえ。満足したなら幸いです」


 クロが静かに返し、クレアを肩へ戻すと、エルデと共にキャンピングカーへ乗り込んだ。


「では、さようなら」


「はい。お気をつけて」


 女性兵士が再び敬礼する。クロは苦笑を浮かべ、肩をすくめて言った。


「私はハンターですよ。敬礼はいりません」


「……そうですね。では良い旅を。内戦中ですが」


 女性兵士は苦い笑みを返し、手を下ろした。キャンピングカーのドアが静かに閉まり、エンジンが低く唸りを上げる。その控えめな音は、先ほどまでの重苦しい空気とはまったく違う、どこか柔らかな余韻を残して街中へと消えていった。


 その背中を名残惜しそうに見つめていた女性兵士の後ろへ、重い足音が近づく。振り返れば、そこにはタイソンがいた。


「お父さん……その顔は?」


 声には心配が滲んでいたが、タイソンは苦々しく片眉を上げる。


「うむ。……痛いところを突かれてな。それと――ここではその呼び方は駄目だ。ジュン大尉」


「……はい、タイソン大佐」


 言い直しながらも、ジュンの声音には寂しさが滲んでいた。タイソンはその感情に触れたかどうかを表に出さず、ひとつのデータを送信する。ジュンの端末が光り、命令書が表示される。その内容に気づいた瞬間、彼女の目が大きく見開かれた。


「……監視ですか?」


「ああ。見ているだけでいい。彼女たちがどんな行動を取るのか――それを逐一報告してくれ」


「……バレそうですが」


 ジュンは不安げに、去っていったキャンピングカーの影が消えた道路の先を見つめた。


 タイソンも同じ方向へ視線を向け、短く息を吐く。


「バレても構わん。こちらが手を出さなければ問題はない。それに――行動が分かれば事前に軍へ注意を促せる」


「……注意ですか?」


 ジュンは怪訝な顔で父を見る。その問いに、タイソンはゆっくりと視線を戻し、低く呟いた。


「ああ。“ちゃんとした軍人”なら耳を傾けるはずだ。……ちゃんとした軍人ならな」


「?」


 ジュンにはその言葉に含まれた意味がまだ掴めなかった。だが、タイソンの表情はそれ以上語るまでもないと言っているようだった。


 革命軍内部のひずみ。腐敗した上層。裏切りと怠慢が入り混じる現実。そのすべてを知る男だからこそ出てくる苦い断言だった。風が吹き抜け、父娘の言葉だけがひどく現実的なものとして残った。

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