裁きの静寂
クロは、真空の宇宙をまるで重力すら関係ないかのように歩き、静かにバハムートの首元の疑似コックピットへと辿り着いた。開かれた装甲が迎えるように展開し、クロが身を滑り込ませると、透明なカバーがしんと閉じ、彼女はモノリスの座へと沈み込む。
その間――敵艦からの攻撃は、一発たりとも撃たれなかった。
バハムートを真正面から見つめる兵士たちは、もはや銃を持つ指すら震え、口を開けることすらできない。全員が“理解してしまった”からだ。
――これは戦うべき“敵”ではない。
――撃った瞬間、こちらが滅ぶ。
その認識が、艦内の空気を完全に凍りつかせていた。
「……あれ? 撃ってこないんですか? 新生ビアードブレイドの門出ではないんですか?」
疑似コックピットから外の映像を見つめながら、クロは小首を傾げる。その声音は穏やかで、どこか楽しげですらあった。しかし内容は、死刑宣告となんら変わらない。
その意味を悟った者から、順に絶望が走った。
「――なら、死にましょう」
静かに告げ、クロは両の掌を合わせる。
同時に、バハムートの両拳がゆっくりと重なり、その中心に“闇の光”が生まれた。禍々しくも美しい漆黒の輝き。光でありながら、周囲の光を喰らうような“深淵”の色。それは、世界そのものを砕くために生まれたかのようにうねり、膨らみ、凝縮されていく。
やがて――ふたつの掌に、完璧な球体の漆黒が宿った。
クロが軽く息を吸い、ただ一言。
「フレア」
その呟きとともに、光弾は戦艦へ向けて解き放たれる。決して速くはない。羽根でなぞるような滑らかさで、宇宙を裂きながら進んで――
触れた。
爆発は無い。高熱も衝撃波もない。
ただ――消滅。
二隻の戦艦は、まるでそこに存在した記録ごと削除されたかのように、跡形もなく“空白”だけを残して消えていた。残骸すら許されず、世界からごっそりと切り取られたかのような静寂が漂う。
残ったのは――砕け散った旧戦艦の残骸。ひしゃげて漂う鉄くず。そして、震えながら逃げられなかった脱出艇。
バハムートの巨大な腕が、迷いなく伸びる。逃げ場のない宇宙において、それはまさに“死そのもの”の訪れだった。
脱出艇は、抗うこともできず、その大きさの掌に包み込まれた。絶対的な隔絶感。抗いの余地すら存在しない力の差。それはまるで、神話に語られる“罰”そのものだった。
「全く。警告時に帰っておけばよかったのに」
クロは冷ややかに呟く。その声音には怒りも憎悪もない。ただ“無駄な存在を処理する”という事務的な響きだけがあった。
次の瞬間――バハムートの指がわずかに締まる。金属が軋む音。外殻の悲鳴。内部から押しつぶされる骨と肉の、聞こえるか聞こえないかの微かな音。
悲鳴も、嘆きも、祈りも。全てが掌の中で押し潰され、まとめて沈黙へと吸い込まれていく。
やがて、何も残らない。
手を開いた時、そこにあったはずの脱出艇は粉々の金属片と化し、わずかに漆黒の光を反射しながら静かに散っていった。
こうして――ビアードブレイドは、完全に殲滅された。散り散りになった残骸は沈黙した宇宙に漂い、微かな光を反射していた。破壊の熱がまだ残っているのか、ところどころが赤く揺らめき、それらがまるで息絶えた叫びの残痕のように揺れていた。
「これで懸賞金は頂きだな。1,000万C……俺より安いとはな」
一息ついたような声音で、バハムートは戦場へ冷ややかに視線を送った。目に入るのは、脅威の影すら失った鉄の残骸だけ。そこには生者の気配はなく、ただ終わりの静寂が漂っていた。胸の奥では、勝利の高揚ではなく、戦いが閉じたとき特有の冷たい風がそっと吹き抜けていく。
散らばった戦艦の残骸へ視線を向けると、バハムートは静かに呼気を整えた。次の瞬間、漆黒の光が空間へ広がり、鉄片は熱で溶けるのではなく、塵へと還るように消えていく。フレアが宇宙をゆっくり洗うたび、周囲にこびりついていた戦場の気配すら薄れていった。
片づけ終えると、バハムートの輪郭がふっと揺らぐ。そのまま空間から掻き消えるように、完全に姿を消した。
転移先はレッドライン内部――戦艦が停泊する広大な空間。静かな闇と機器の微かな光に包まれた場所で周囲を確認すると、バハムートは目を閉じ、意識の核をクロへと戻す。
クロは疑似コックピットの中でそっと瞼を上げた。モノリスの背から伝わる微かな振動が、緊張の余韻をまだ体内に残しているようだった。外殻を流れる冷たい空気の残滓が肌に触れた錯覚があり、戦場の光景がかすかに脳裏へ戻る。それでもクロは静かに息を吐き、胸に溜まった感覚をひとつずつほどくように思考を切り替えた。
転移を発動すると、視界は瞬きの間に変わり、ブラックガーディアンの館内へと移る。薄い灯りが床へ落とす影は穏やかで、空調の柔らかな風が頬を撫でる。先ほどまでの戦場の冷たさが遠ざかり、身体の内側にゆっくり温かさが戻ってきた。
クロは軽く首を回し、呼吸を整えると、自然な足取りでブリッジ――ランドセル側へと歩き出す。つい先ほどまで宇宙を焼き払っていた存在が、今はいつもの小さな足音でブリッジへ戻ってくる。ブリッジのドアが静かに横へスライドし、操縦席に座るアレクの後ろ姿が視界に入った。背筋を伸ばし、計器を確認するその姿は、いつも通り冷静で頼もしい。
「早速ですが帰ってきました」
一声かけた瞬間、アレクの肩がわずかに跳ねた。
「……早速すぎますよ、社長」
驚きと呆れを混ぜながら、アレクはゆっくり振り返り苦笑を浮かべた。




