酸っぱい端末と静かな時間
そうしていると、リビングの自動ドアが音もなく開いた。アンジュが古い端末を抱え、少し早足で戻ってくる。照明の下、彼の背にうっすらと汗が浮かび、息がかすかに乱れていた。
「……気温、下げました?」
部屋に入るなり、そんな言葉が口をついて出た。艦内の温度管理は自動制御のはずだが、空気がどこか冷たく感じる。それは室温の問題ではなく、自分自身の体温が一気に下がったような感覚。背筋にひやりとしたものが走り、アンジュは思わず腕をさすった。
「気にしないでください。ちょっとレッドラインを脅していただけです」
クロがまるで雑談でもするように、軽い口調で言う。その淡々とした声に、アンジュの背中がさらに強ばる。“脅す”という言葉をあまりに自然に口にするものだから、笑うべきか、引くべきか――判断に困る沈黙が一瞬走った。
「……そ、そうですか」
引きつった笑みを浮かべながら、アンジュはソファーに腰を下ろす。その動作もどこかぎこちない。彼は持ってきた端末をテーブルの上に静かに置いた。金属の冷たい音が、リビングの静寂をわずかに揺らす。
クレアがぴくりと耳を動かし、テーブルに興味を示す。豆柴サイズの狼はひょいとクロの肩から飛び降り、端末の匂いを嗅いだ。だが、次の瞬間――
「臭い! 何ですかこれ! すごい酸っぱい匂いです!!」
鋭い声がリビングに響く。クレアは慌てて飛び退き、テーブルを軽やかに跳び越えると、クロの隣に着地。そのまま背中の隙間に顔を埋め、ぷるぷると身を震わせた。
クロは一瞬目を瞬かせ、思わず小さく笑みを漏らす。
「それは?」
問われたアンジュは、どこか申し訳なさそうに頭をかいた。
「昔使っていた端末です。その……置いてあった場所が悪くて、少し劣化してまして。一応、洗浄はしたんですが……」
「クレアにはきつかったようですね」
クロが穏やかに苦笑する。背に顔を埋めたままのクレアは、かすかに尻尾を揺らしながら
「……まだ酸っぱいです……」
と小声で呟いた。クロはそんな様子に小さくため息をつき、撫でる手をそっと止める。
古い端末を手に取ったクロは、その重量を確かめるように手の中で傾けた。
「これは、貰っても?」
アンジュは背筋を正し、短く頷く。
「はい。古いので問題ないです」
その答えとともに、アンジュは少し冷めかけたコーヒーを口に含んだ。温度は下がっていたが、喉を通る苦味がほっとさせる。
「中には、宇宙建設の基本と応用を教えている教科書データが十冊分。戦艦、戦闘機、機動兵器の構造や運用に関する専門書を、それぞれ十冊ずつ。加えて、配線や設計理論、資材工学、通信関連なども詰め込みました。かなり多種多様です」
アンジュが説明を続ける間、クロは無言で端末を見つめていた。その瞳は静かで、それでいてどこか深淵を覗くような冷ややかさを帯びている。
――その瞬間、基地全体がわずかに震えた。リビングの床がかすかに鳴り、空気が震えたような錯覚が走る。
「……い、今の……感じましたよね?」
アンジュの声がわずかに震え、喉を鳴らすように乾いた息を漏らす。クロはゆっくりと顔を上げ、微笑とも無表情ともつかぬまま淡々と答えた。
「気のせいですよ」
その静けさが、わずかに凍りついた空気を溶かすようだった。アンジュはしばらくその表情を見つめ、息を整えるように肩を下ろす。そして、無理に笑みを作って――
「……気のせい、ですかね」
ようやくいつもの調子を取り戻した声に戻る。クロは何事もなかったかのようにマグカップを手に取り、穏やかに微笑んだ。沈黙が一拍。そして、アンジュは気を取り直すように端末を見下ろし、話を続けた。
「それと、社長が好きそうなアニメの設定資料集や、ロボットのデザイン集も入れています。足りなければ、兄貴かポンセ、それにタンドールから古い端末を譲ってもらって、追加データを入れておきますね」
「想像以上に詰め込みましたね」
クロはクレアの背を撫でながら言った。クレアは未だクロの服の背中に顔をうずめ、尻尾を小さくぱたぱたと動かしている。その姿に、アンジュは小さく笑みを浮かべた。
「基地建設は、普段なら各専門の技術者が集まって進めるものですからね。それをゴーレムだけに任せるとなると、どうしても膨大な知識が必要になります」
アンジュの声は落ち着いていたが、その響きの奥には職人としての実感がこもっていた。整備士として数えきれない構造体を見てきた彼にとって、ゴーレムに任せる建設というのは現実感の薄い話なのだろう。それでも彼の目は真面目に、そしてどこか誇らしげにクロへと向けられていた。
クロはマグカップを持ち上げ、軽く息を吐くように頷いた。
「……私は出来ませんね」
その口調には、感嘆と、ほんの僅かな苦味が混ざっていた。冷めかけたコーヒーを飲み干し、カップを静かにテーブルへ戻す。カップの底が陶器の面に触れる音が、控えめに響いた。
その音が消えたあとには、再び穏やかな沈黙が広がり、艦内の照明がクロの横顔を柔らかく照らしていた。黒髪が照明を受けてわずかに光を返し、淡い輝きが頬をかすめる。その光の揺らぎに、クレアはふと息を呑み、静かに見上げた。
やがてクロが席を立つ。
「では――埋め込みに行きますか……クレア?」
立ち上がろうとした瞬間、ジャケットの裾が小さく引かれた。見ると、クレアが小さな牙で布を噛み、離そうとしない。その瞳が潤み、まるで懇願するように見上げていた。
「……正直、そこまでなんですか? 副社長」
アンジュが困ったように問いかけると、クレアは尻尾をばたばたと振りながら、鼻先を鳴らした。
「そこまでですよ! 鼻の奥が酸っぱくて痛いんです! クロ様、もうしばらくいてください!」
必死な声に、アンジュが思わず吹き出しそうになりながらも、ぐっと堪える。クレアの小さな身体がクロの脚に寄りかかるようにして、顔を押しつけている。その姿はまるで、雷に怯える子犬のようだった。
クロとアンジュは思わず目を見合わせた。
互いに苦笑を浮かべ、クロはわずかに肩をすくめる。クレアはまだ背中に顔を埋めたまま、尻尾だけを小さく左右に振っていた。その控えめな動きが、妙に可笑しく、静けさの中で時間を引き延ばす。
「……アンジュ、すいませんね」
「いえ、自分こそ……」
アンジュが視線を逸らし、言葉を探すように笑う。彼の手元では、まだ湯気を失ったコーヒーが静かに揺れていた。
そして――静寂を破るように、艦内の自動ドアが開く。
「クロねぇ、訓練終わったっす!」
軽やかで元気な声。エルデが額の汗をぬぐいながらリビングに飛び込んできた。そのすぐ後ろから、落ち着いた足取りでアレクが入ってくる。
「社長、終わりました。アンジュ、お疲れ」
アレクの声は冷静で、いつものように沈着だ。それでも、訓練帰りのわずかな息づかいが残っている。二人の後ろからは、人工重力のわずかな変化に混じって、艦の低い駆動音が響いていた。
「クレアねぇ、どうしたっすか? そんなにクロねぇの背中に顔を突っ込んでるっすか?」
エルデが小首を傾げながら問いかける。その視線の先では、クレアがまだクロの背中に顔を埋めたまま、耳だけをぴくりと動かしている。瞳がちらりと覗き、そしてまた隠れた。
クロは小さく息をつき、苦笑交じりに答える。
「話せば短いですが……」
その柔らかな声に、リビングの空気が少しだけ和らいだ。コーヒーの香りが再び漂い、艦内の静かな時間がゆっくりと動き出す。




